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 1年は瞬く間に過ぎた。都についた瑛莉は友人の細工師と落ち合い、かねてからの考え通り二人で細工物を作り始めた。瑛莉が図案を描き、それを友人が細工する。飾りを彫ったり、貝の真珠層を張ったり、そうしてできた物は店先に並んだ。そして二人の作ったものは好評を博した。
 おかげで瑛莉にはこの先の自信がついた。幸いたまに街を出歩いても庶民の町に中将やその縁の者たちがやって来るようなことは無く、殊未が心配したようなことは無かった。これならば殊未を呼んでも大丈夫と瑛莉は判断した。そして約束の1年が巡ろうとしたとき、思いもかけぬことが起こった。戦である。
 それはある豪族同士の小競り合いから始まった。都にはさして影響は無かったが、山向こうでは大変なことになっているらしい。それが西で起こったことならば問題はなかったのだが、残念ながら戦は殊未の待つ村のある東の方角で起こった。
 瑛莉は慌てた。幸いその戦の被害は殊未の待つ村には及んでいなかったが、そこへ向かう道を塞いでしまった。戦場を迂回してゆくと時間は大分かかってしまう。それでも道はそれしかない。瑛莉は約束の1年が経つとすぐに都を経った。殊未のために選んだ反物や櫛を懐に、寝る間も惜しんで歩き続けた。愛しい人の待つ我が家へと、1日でも早く、1歩でも多く。しかしそれは叶わなかった。ある山中で瑛莉は賊に会い、逃げる途中で沢へと転落してしまった。幸い通りかかった人に助けられたため命は取り留めたが、気が付いたとき彼は自分が誰であるかすら思い出せなくなっていたのだ。完全な記憶喪失だった。





 瑛さん、というのがその場所での彼の呼び名だった。彼を助けたのはある豪農の使いだった。何人かで隊列を組み、山向こうの村に商売に行った帰りに瑛莉を発見し、屋敷に連れ帰ってくれた。そこで養生した瑛莉は自分が誰であるかもわからなくなっていたが、持ち物からただの百姓などではないことは知れたので、物好きな主が客として彼を受け入れてくれたのだ。その人は還暦を大分過ぎた威厳のある老人であった。今この辺りは物騒でいかん、何か思い出すまでゆっくりしてゆくといいと言って、離れに部屋を与えてくれたほどだ。瑛莉は大変恐縮し、勤めて自分が誰であるか思い出そうとしたが、頭が痛むだけで記憶は戻らなかった。
 彼が『瑛』と呼ばれるようになったのは、瑛莉が目覚めたときの部屋の床の間に、1枚の掛け軸がかかっていたせいだった。雪景色に咲く一輪の牡丹を描いたもので、何年か前に主が都で買い求めたものらしい。作者は若くして亡くなったのだそうだが、彼はその絵に見覚えがあった。どこで見たのか、どうして見たのか全く思い出せなかったが、とにかく見覚えがあったのだ。その作者の名を取って瑛さんと呼ばれるようになったのだ。その名は直ぐに彼に馴染み、呼ばれることに違和感が無かった。きっと発音が似たような名だったのだろうと医者は言い、本人もそれで納得した。そして彼は世話になっているせめてものお返しに、屋敷で自ら進んで働くようになった。
 瑛さんは大工だったのかしら、と主の孫娘は言った。彼は手始めに屋敷裏の納戸を修理したのだが、その手際が自分でも驚くほどに良かったのである。ためしに床や木戸を直してみたが、これも上手くいった。ひょっとしたらそうなのかもしれないと本人も思い、自分の手を見つめた。主も感心し、良く働く瑛莉を気に入ったらしい。この時期戦のせいで治安が悪化し、夜外を出歩くこともできないような有様なので、ちゃんと戸締りできるようにと瑛莉に屋敷の修繕を頼んだ。ときには村の誰それの家の戸を直してやってくれだとか、屋根の具合を見てやってくれと頼まれた。瑛莉は素直に仕事を引き受け、それをこなす。村人は瑛莉と主人に感謝し、何度も礼を言った。そして主人は瑛莉に礼を言う。最近は戦がどんどん広がって皆不安なのだ、と主人は言った。だからできるだけ家の隙間を埋め、戸締りをきちんとしたいと思うのだが、木匠を呼ぶ金が無い。自分でやろうにも日々の仕事で時間が無い。だから貴方に頼めると幸いだ、と。瑛莉はそれを引き受けた。自分に出来ることならば、と頼まれれば何処へでも行ったし、どんなものでも直した。彼にできるのはそれだけだったし、時折違和感を感じることもあるが、それが以前の仕事だったのだろう。そして村人のために無償で修繕を請け負う主人を瑛莉は尊敬した。なるほど、徳のある人とはこういう人物を言うのだろう。この人に出会えて、自分は幸いであったと天に感謝し、瑛莉は懸命に働いた。そうして気が付くと2年の月日が経っていた。
 戦は東へ東へと流れ、いつしか消滅した。沢山の村が戦渦に巻き込まれ、難民が都へ雪崩れ込んだらしい。瑛莉の世話になっている村にも沢山の人間がやって来ては去った。それを見るにつけ瑛莉の焦燥は募った。何かとても大切なことを忘れている。それだけは解かるのに、思い出すことができない。周りの人々は皆優しく、焦ることは無いと言ってくれたが、瑛莉はことあるごとに胸を締め付けられるような思いに苦しんだ。
 忘れてはいけない何か。命よりも大事な何かがある。しかしそれが何であるかが瑛莉にはわからない。ふとしたときに瑛莉は何故か寂寥感に捕われた。そして決まって日の昇る方角を見ている自分に気付く。愛しい何かがそこにあるのだということだけが瑛莉にはわかっていた。東の方角を見つめていると、何故か心が落ち着き、優しい気持ちになる。だから早く思い出さねばならない。そして瑛莉はぼんやりと空を眺めるようになっていた。
 瑛さん瑛さん、と主の孫娘は瑛莉によく懐いていた。いや、懐くと言うより思慕の情を抱いてくれているのだろうが、瑛莉はそれがわかっていても彼女を妹のようだと思っていた。可愛らしいと思う。だがそれだけだ。向こうもそれがわかっているのか残念そうだが、何も言わなかった。主も孫が我が侭を言って済まないと言ったが、その目は好々爺のそれで、実際には可愛くて仕方が無いのだろう。孫は両親を早くに亡くして、と酒を飲むと主は必ず瑛莉に話し、ときには涙を見せることさえあった。
 瑛莉はその孫娘を時折不思議な気持ちで見ていることがあった。誰かに似ているような気がするのだが、それが誰だか思い出せない。ただ彼女を見ていると大変心が和み、自分の身近な誰かなのではないかとよく思った。そしてそれが誰であるか瑛莉が思い出したのは、それから更に1年の後だった。
 雨のしのつく5月。世間に復興の兆しが見え始めた五月雨の降るある日のこと、瑛莉は空を見上げていた。厚い雲の向こうには日が照っているのだろうか。それは酷く不思議な感覚で、瑛莉は首を傾げた。あの雨雲の向こうでは日が昇り、月が輝いているのだろうと思うと不思議でならない。雨の向こうの月を恋しがるのは昔からあることだ、と誰かが言っていたような気がする。優しい笑みでこちらを見つめながら。
 そんなことを思っていると、背後から声を掛けられた。この屋敷の主である。もし用が無いなら、私の絵を見てはくれまいかと主は言い、瑛莉はわかりましたと言って後に続いた。主は老後の楽しみだと言ってよく自分で絵を描いていた。それはなかなか達者なもので、初めて見たとき瑛莉は感心したものだ。そして瑛莉はよく主の蒐集物を見せてもらうようになった。
 おじいちゃんは誰かに自慢したいのよ、と孫娘は笑って言ったが、瑛莉はそれが嫌ではなかったし、何となく昔にもこんなことをしていたような気がしたので、積極的に付き合った。主も瑛莉が書画に造詣が深いらしいとわかると、大層喜んだ。今まで書画のこととなると話す相手が居なかったらしい。だからこの日もわざわざ瑛莉を呼んだのだ。
 そこは瑛莉がこの屋敷に来たばかりの頃寝泊りしていた部屋だった。床の間には瑛莉の呼び名の由来ともなったあの絵がかかっており、見回すと畳の上には絵皿や筆が所狭しと並べてあった。主はそれを器用に避けて歩き、座布団に座る。自分の描いた絵を指してどうかと瑛莉に問うた。

「もう少し翠をさしたほうがよさそうですね」

 そう瑛莉が言うと早速筆をとって描き足しにかかる。なるほど確かに、と頷き主は満足そうに微笑んだ。そのうち主は何を思ったのか瑛莉を自分の座っていた場所に呼び寄せ、新しい紙を持ってきて、

「瑛さんも一枚描いてみてはどうかね。いや、遠慮はいらん。練習用の紙だから、さあさあ」

 主は楽しそうに茶まで用意して部屋の端に座して待った。瑛莉は戸惑ったが、仕方がないと筆を取る。その瞬間瑛莉は妙な感覚を覚え、首を傾げた。どうしたと問われて何でもありませんと答えたが、確かに瑛莉は既視感を覚えたのだ。筆か、それとも紙にか。
 瑛莉は小さく深呼吸をすると、筆を紙に走らせ始めた。
 筆は意思を持ったかのように紙の上を滑る。初めは単なる線であったものが幹となり、木となった。主は目を丸くしてそれを見つめ、瑛莉は夢中で筆を操った。そして半刻の後、それは一枚の絵となって失われた瑛莉の記憶を呼び覚ました。

「殊未…………」

 瑛莉は我知らず呟いていた。それは白木蓮の下で微笑む幼き日の殊未の姿絵だった。
 瑛莉はゆっくりと主を見た。瑛さんもしや、と呟く恩人にはいと頷き、

「記憶が、戻りました」

 そして床の間にかかっている掛け軸に目を向け、

「……あの絵を描いたのは、私です」





 瑛莉は自らの出しうる限りの力を尽くして道を急いだ。記憶を取り戻した次の日には屋敷を後にし、過ぎ去った3年の月日を取り戻そうとするかのように走った。世話になった人々に何度も礼を言い、引き止めてくれるのに心の底から謝意を示しつつも、彼は愛しい人のことで頭が一杯だった。  殊未、と瑛莉は声に出して名を呼ぶ。どうして忘れていたのか、何故忘れることなどができたのか。瑛莉は自分をこれほど情けなく思ったことは無い。必ず1年で帰ると約束したのに、生涯側に居ると誓ったのに!
 瑛莉は道を走る。居ても立ってもいられない。足のまめが潰れようが、履物が壊れようが瑛莉は走り続けた。そして通常の半分の期間で瑛莉は村へと辿り付くことができたのだった。





 瑛莉が村に着いたとき、既に空にはつきが昇っていた。梅雨の過ぎた夜空は明るく、瑛莉は月明かりを頼りに変わり果てた村の道を辿った。
 村は廃れていた。多分この地にも戦の被害が及んだのだろう。そこにあったはずの民家は無く、残骸と思しきものが闇の中に垣間見える。所々に家はあったが、瑛莉はわき目も振らず大楠の見える高台を目指した。
 高台の下に差し掛かったとき、突然瑛莉の歩みは止まった。早く行かねばならないと思うのに、足が動かない。脳裏に恐ろしい考えが広がる。もしあの木の向こうに家が無かったら、もし誰も住んでいなかったら……。
 瑛莉は何度も頭を振ってその考えを否定した。そして重い足を引きずるように坂を上る。それでももし殊未がいなかったらと思うと、血の気が引いて足が止まりそうになった。ひょっとしたらもう瑛莉のことを諦めてどこか別の場所に移住してしまってはいないか。3年以上も音沙汰が無ければ死んだものと思われても仕方が無い。もしかしたら他の誰かと新しく家族を持ってはいないか。そんな考えが坂を上りきるまで瑛莉の頭の中を埋め尽くしていたが、大楠の下に家を認めた瞬間、それらは吹き飛んでしまった。ただひたすら殊未に会いたくて、瑛莉は残った気力を総動員して坂を駆け上がり、家の戸を叩いた。

「殊未、殊未、私だ、帰ってきた! ここを開けてくれ、殊未、瑛莉だ!」

 瑛莉は声の限りに愛しい人の名を呼びながら何度も戸を叩いた。しかし扉は開かず、瑛莉は脱力して地面に膝を付いた。遅かったのか……。
 瑛莉は肩を落として唇を噛んだ。何故もっと早くに、と強く拳を握る。そのとき頭上でカタリと音がして、瑛莉は顔を上げた。戸が開いている。瑛莉は弾けたように立ち上がり、戸の隙間を覗き込んだ。

「……誰だ? 瑛莉?」

 掠れて弱い声が瑛莉の鼓膜を刺激する。戸の間から漏れる光、それに照らされた人物を認めて瑛莉は悲鳴にも近い歓喜の声を上げた。

「殊未!」

 そこには酷くやつれてはいるが、確かに昔の面影を残した妻の姿があった。瑛莉は戸を開け放つと、土間に飛び込んで殊未を力一杯抱き寄せた。

「殊未、殊未、済まない、今やっと帰ったよ」

 瑛莉は切れ切れに呟き、殊未を抱き寄せる。細い肩は一回り小さくなったようで、瑛莉の涙を誘った。

「そんな……これは幻か? 瑛莉、本当にお前なのか?」

 殊未は恐る恐る両手を伸ばし、瑛莉の頬に触れる。節の浮き出てしまった指は震えを伴い、瑛莉は何度も頷いて見せた。

「本当だとも、私は帰ってきたんだ」

 済まないと瑛莉は何十度目かに呟く。その瑛莉の頬を挟むように両手を添えて見上げる殊未の紫青の眸に、ゆっくりと雫が浮かび上がった。

「瑛莉、ずっと、待っていた……」





   火の消えた囲炉裏の側で二人は身を寄せ合って座っていた。瑛莉は妻を抱き寄せて離さず、殊未は夫に縋って離れない。瑛莉は何度も殊未の髪や肩を撫で、ぽつりぽつりと離れ離れになっていた4年間のことを語った。殊未は何も言わずにそれを聞いている。瑛莉は何度も妻に済まないと詫び、その度に殊未はただ頷いて涙を零した。

「会いたかった……」

 そう殊未は何度も呟く。布越しにもわかるほど痩せてしまった殊未の身体は冷たく、瑛莉の胸を刺した。愛らしかった頬は色を失い、紅をささぬ口唇は青褪めている。美しかった髪もすっかり艶を失い、瑛莉の涙を誘った。

「……あのとき、私も一緒について行けばよかった」

 殊未は弱い声で自分の行動を悔やんだ。瑛莉が居なくなって、殊未は寂しくて堪らなかったと言う。それでも1年の辛抱と自分の決断を否定するような思考はできる限りしないようにしていた。しかし1年が過ぎ、戦禍が近づくにつれ、我を張って瑛莉の言葉を容れなかった自分を呪った。どうしてあのとき素直に瑛莉について行かなかったのか、何故我が身可愛さに彼の気持ちを汲まなかったのかと後悔が絶えなかった。口では瑛莉から絵を奪って済まないと思っているなどと言いながら、結局は自分のしたいようにしかしない。瑛莉が自分のことを大事に思って考え、苦しんだ末の決断に何故異を唱えたりしたのだろうかと何度も自分を責めた。しかしそんなことをしても瑛莉が直ぐに帰って来るわけではなく、殊未はただひたすら明日には、明後日にはきっとと愛しい人の帰りを待ち続けた。

「一緒にいれば、こんな思いはしなくて済んだ。こんな風に離れ離れになることもなかったのに……」

 殊未はそう言って瑛莉に詫びた。会いたかった、触れたかった、抱き締めて欲しいと初めて瑛莉に心からねだった。今まではこんな風にただ甘えたことなど無かった。それほど殊未は辛かったのだろう。瑛莉は自分の胸に頬を寄せて俯く殊未の髪に口付ける。

「殊未、済まない……。もうこれからは決して側を離れない。死ぬまで一緒だ」

 瑛莉が心をこめて言うと、殊未は漸く顔を上げ、

「死ぬまで?」

 殊未は悲しそうに眉根を寄せる。瑛莉は寂しそうな妻を更に抱き寄せ額に接吻をし、死んでもと言い直した。殊未は頬を寄せたまま、

「嬉しい……」

 呟いてまた涙を零した。そうして二人は抱き合ったまま、お互いの愛情を確認し合うように夜を過ごしたのだった。





 瞼の裏に強い日差しを感じて瑛莉は目を覚ました。朝方まで起きていたせいでもう大分寝過ごしてしまったらしい。だがそんなことはもう大したことではないのだ。自分は帰ってきたのだから。
 瑛莉は愛しい相手を抱き寄せようと腕を伸ばし、硬い物に触れて手を引いた。不審に思ってまだ焦点の合わない目をこすりながら瑛莉は隣の床を見た。果たしてそこに殊未の姿は無く、漸く瑛莉は何かが変だと気付いて身を起こした。
 瑛莉は我が目を疑った。庭の方に、朽ちた雨戸を見た。見下ろした床に、腐って板の抜けた個所を無数に発見した。見上げた天井には所々空が覗き、奥の壁も崩れ落ちていた。
 そんな莫迦な、と呟いて瑛莉は飛び起きた。だが現実は変わらず瑛莉に朽ち果てた我が家を見せつける。そんな莫迦な、と瑛莉はもう一度呟いて辺りを見回した。昨夜は何でもなかった。壁はあったし雨戸もきちんと閉まっていた。床はきれいに張られていたし、天井に穴などなかったはずだ。しかし幾ら見てもそれらは変わらず、既に昼近い太陽に照らされて瑛莉の目の前に存在している。莫迦な、と弱々しく呟いて、瑛莉ははっとした。

「殊未!」

 慌てて駆け込んだ土間にも台所にも、愛しい人の姿はなかった。それどころか庭に降りて見上げた我が家は、明らかに主を失って久しい廃屋のそれであった。

「莫迦な、そんな莫迦な……」

 瑛莉は取るものも取らずに駆け出した。坂を下り人家のある方へと走る。一番近くにあった家には誰も住んでいなかった。二番目の家には人がいたが、大楠の側の家のことを訊いても首を傾げるばかり。半年前に越してきたばかりだが、あそこに人が住んでいたのかと逆に問われたほどだ。
 瑛莉は村中を駆けて殊未を探し、顔見知りを探したが、どちらも見つけることができなかった。ただ誰かが山裾の寺にまだ和尚が居ると教えてくれたので、瑛莉は礼もそこそこに再び走りだしたのだった。
 山裾にある寺は寂れていた。土塀は崩れ、庭には雑草が繁っている。瑛莉は途方に暮れながらも最後の望みの綱と、和尚を探して広い境内を彷徨った。

「……和尚!」

 瑛莉は崩れた土塀の向こう側に人影を認めて走り寄った。それは一回り小さくなったように見えたが確かに彼の見知った和尚で、向こうも瑛莉を認めて目を丸くした。

「お主、瑛莉か……?」

「はい、和尚。……妻を、殊未を知りませんか?」

 肩で息をしながら切れ切れに問う瑛莉を、何故か和尚は悲しそうに見上げた。最早瑛莉の半分ぐらいしかなくなってしまったような和尚は、それでも目に理知的な光を宿して瑛莉に落ち着くよう諭す。そしてとにかく本堂の方へ来るように誘った。
 その落着き払った仕草に一抹の不安を覚えて、瑛莉は和尚の歩調に合わせて歩きながら忙しなく話しつづけた。村を離れてからのこと、都での生活、記憶を失って過ごした3年間のこと。和尚はただ頷きながら瑛莉の話を聞いていた。何も言わず思慮深い目で虚空を見つめながら。
 本堂に着くと和尚は一旦姿を消し、直ぐにまた戻ってきた。手には薄汚れた布を巻いた何かを持っている。しかしそれが何か尋ねることはせず、瑛莉はひたすら話しつづけた。世話になった人のこと、昨日漸く帰り着いたこと、昨夜殊未と話したこと……。
 和尚は瑛莉が話し尽くして静かになるのを待って、漸く口を開いた。

「よいか瑛莉、心して聞きなさい。……お主の妻の殊未殿だが、残念ながら最早会うことはかなわん」

 瑛莉は何故とは問わなかった。ただ無心に和尚の目を見つめていた。

「殊未殿はもう、2年も前に亡くなったのだ……」

 ……2年前、この村にもついに戦禍が及んだ。他に頼るものがある人々は軒並み村を立ち去り、逃げることの叶わない人々は家に篭って我が身を守ろうとした。そのうち戦場自体は遠のいていったが、戦に破れた者たちが賊となり出没するようになった。人々は恐れ、寺に篭城し身を寄せ合った。その中に殊未の姿もあった。彼女は他の人々を叱咤し、寺の守りを固め、残った男たちに武器の使い方を教えた。元々賊とは戦が恐ろしくて逃げ出した腰抜けか、落ちぶれた雑兵である。こちらが激しく抵抗を見せれば諦めて他所へ行くと言って人々を励まし、自ら陣頭に立って賊と対峙した。
     見事な女将よ、と和尚は言う。奪えるものを奪い尽くした賊は、抵抗されて無駄に被害を出しては損なだけと、殊未の思惑通り2、3度の襲撃の後何処かへ去っていった。彼らは賊に勝ったのである。
 しかし被害は甚大であった。ほとんどの家は焼き尽くされ、田畑は荒されて最早作物は望めない。人々は絶望し、いつしか残った者達も散り散りとなった。そして何より殊未は賊との攻防の折に受けた怪我が元で身体を壊し、ろくな治療を受けられぬまま世を去ったのだった。

「……ですが、私は昨日妻に会ったのです」

 瑛莉は和尚の夜の海のように深く黒い目を見つめる。

「この腕に抱いて、もう決して離れないと約束を……」

 しかし和尚は瑛莉の言葉にただ痛ましそうな表情で首を振ったのだった。

「妻は、殊未は確かに昨日…………」

 尚も言い募る瑛莉に和尚は布に包まれたものを手渡した。瑛莉は無言でその包みを解く。中から現れたのは、場違いに艶やかで美しい箱。かつて瑛莉が恋しい人のために作ったあの化粧箱だった。
 瑛莉は震える手で恐る恐る箱を開く。中にはわずかな銭と、一房の黒髪が収められていた。

「殊未殿は、最後までお主の帰りを待っておったよ……」

 瑛莉はその場にくず折れて、和尚の前で幼子のように泣いたのだった。





 大楠の下に小さな墓標があった。石を積み重ねた簡素なものだが、心が篭っているのが見て取れた。瑛莉はその前に膝を付いて愛しむように石を撫でた。昨夜のことが自分の願望が作り出した夢や幻だとは瑛莉は思わない。触れ合わせた口唇の冷たさや、涙の味がありありと甦る。確かに殊未はここにいて、瑛莉の腕の中で泣いていた。一緒に逃げてくれと言ったときにも、瑛莉が一人で都に行くと言ったときにも決して見せなかった涙を零して。ずっと待っていた、会いたかった、もう何処へも行かないでくれと言いながら……。
 瑛莉は恋人の髪に触れるように優しく石を撫でる。涙が頬を伝うが、拭うこともせずに微笑み、愛しい人の名を呼んだ。

「約束通り、もう何処へも行かないから。……いつまでも貴方の側に…………」





 ……かつて都の東の地に、高名な絵師が住んでいたという。花や鳥、虫や獣を描かせたら生けるものの如く。現実よりも美しい色使い、そして悲しい色彩の世界を描く。その視線は常にものの哀れを問いかけ、この世には何にも勝る大事なものが有ると人々に訴える。彼はどんな賛辞をおくられようと決して奢ること無く無欲な姿勢を貫き、命尽きるその日までただの一枚として人を描くことはなかった。生涯に彼が描いたただ一枚の姿絵は、死の床で都から駆けつけた義理の弟が譲り受けた。そして高名で無欲な絵師は今、自宅の庭の大楠の下、死するともと誓い合った愛しい妻と共に安らかに眠っているという……。




〔了〕



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