その夢に幸福を
目覚めたときエーリッヒは酷く寝汗をかいていて、自分が誰で今どこにいるのかわからずに辺りを見回した。
そこは寝室だった。蔦模様のグリーンの壁紙、アンティークショップで買ったナイトテーブルには読み止しの本が乗ったままだ。窓辺にはチェストがあり、写真立てと花瓶が乗っている。そう、ここは彼らの寝室だ。何を寝ぼけていたのだろうとエーリッヒは苦笑してからベッドを降りて窓際に寄った。
ベッドの前にある薄型のテレビはシュミットに散々必要無いと文句を言われつつも強行的にエーリッヒが購入したものだ。二人で行ったショッピングモールで口論となり、店員を相当はらはらさせただろう。それでも結局シュミットの言う事を聞かずにエーリッヒが無理に購入したものだから、帰りの車中では二人とも一言も話さなかった。今となっては懐かしい思い出だ。
猫足のチェエストの上に乗った銀の写真立て。それを手に取ってエーリッヒは目を細める。結婚式の写真だ。幼馴染で物心ついたときにはすでに将来を誓い合っていた恋人との結婚式。幸せに輝いている二人と、それを取り巻く友人たちとの写真。結婚式は面白く、とエーリッヒに彼が言い張ったのだ。
「……彼?」
呟いてエーリッヒは自分の考えに首を傾げた。どうやらまだ自分は寝ぼけているらしい、と目を擦る。何をやっているのだ、自分の妻の性別を間違えるなんて。
エーリッヒは頭を振ると写真立てを元の位置に戻し、隣接したバスルームに向かった。その彼の後ろ姿を映している写真立ての中では、沢山の人間が笑っていた。
「遅い」
そう文句を言いつつコーヒーを出してくれた妻に、漸くダイニングへ降りてきたエーリッヒはごめんごめんと笑いかける。今朝の食事の当番はシュミットだったが、だからと言ってゆっくり寝すぎだと散々文句を言われた。それでもエーリッヒは苦笑しただけで反論はしなかった。シュミットの言っていることは全部本当だし、そもそも口答えしたって勝てる相手ではない。彼女がエーリッヒに怒るのは、日常茶飯事なのだ。
シュミットから手渡されたサラダをエーリッヒはテーブルに運ぶ。後ろから追いついてきたシュミットはジャムを二つ手にしている。これで朝食の用意が整った。それをよしとでも言うようにシュミットは満足げに見やる。並んで立ったエーリッヒの肩ほどしかないその身長に、内心彼は首を傾げた。はて、シュミットはもう少し背が高くなかっただろうか。そんなことを考えながらエーリッヒは促されて食卓に着く。まぁ、どうせ普段ヒールのある靴を履いているからだろう。人間の身長が一日両日で伸びるならともかく、まさか縮んだりするわけがない。それにこのくらいの身長差が一番望ましいだろう。ちょうど腕の中に収まって、キスもしやすいのだし。
「何だ、何をニヤニヤしている」
自分の方を見つめつつ妙に嬉しそうなエーリッヒを、トーストにバターを塗りつつシュミットは不機嫌そうに見つめる。きちんと話を聞いているのかと言いたげだが、エーリッヒはやはりニコニコとしたまま、
「いや、今日はいつにも増して美人だと思って」
別にはぐらかしを狙っての発言ではない。何となく本当にそう思ったのだ。ざっくりとした襟ぐりの春物のセーターが白い肌によく映えている。だがシュミットは更にムッとして、
「私はいつでも美人だ」
愚か者め、とでも言うようにシュミットは言い切った。
食後はエーリッヒはいつものように新聞に目を通しながら居間のソファで寛いでいた。シュミットは洗濯のためにここには居ない。それが終わったらコーヒーでも淹れてやろうかとエーリッヒは思っている。今週の家事担当はシュミットなのである。結婚以来家事は週ごとの分担制で、二人とも仕事は家で出来るものであるため、これまで揉めたことは無い。エーリッヒもシュミットも収入は多いので家政婦を雇うことも出来たが、それではつまらないと妻が言ったのだ。別に子供がいるわけでもないのだし、家事くらい自分たちでやろうと。二人とも一人暮らしは長かったし、そもそも小さい頃から母親に家事を仕込まれてきたエーリッヒに異存は無かった。たまには二人で夕食を作ることもあったし、独身時代のように何処かへ外食に行ったりするのも楽しかった。一生このままでもいいとさえエーリッヒは思っていた。何しろ二人は子供が作れないので、生涯変わらずに恋人のように過ごせるだろう。もしそれに飽きたら養子を引き取ってもいいのだし、もっと科学が進めば女性から精子を、男性から卵子を作ることも可能になるという。ならばそうやって体外受精で代理出産を頼むことだってできるだろう。だが今は二人でのんびり過ごしていたい。彼らはとても幸福なのだ。だからエーリッヒはこんな日々が永遠に続けばいいと思っていた。例え毎日が同じ繰り返しだとしても、それでいい、と。
夢とは何であるか。そんなことを急にエーリッヒが考え始めたのは、このところ見る奇妙な夢のせいだった。
「深層心理とか、記憶の再生とかってよくいうけど」
シュミットは頬杖をつきながらエーリッヒの疑問に答えてくれた。だがそんなことならばエーリッヒだってわかっている。問題なのは、何故毎晩同じような夢を繰り返し見るのかということだ。もしそれが深層心理の表れだとしたら、いかなるものが無意識から浮上しているのか、それをエーリッヒは知りたい。
「で、何の夢なんだ?」
余りにエーリッヒが真面目なのでシュミットも居住まいを正す。二人とも決して精神病理学や、ましてや夢判断などの専門家ではない。だが大抵こういった症例の場合は、日常の心理的圧迫が原因であるということは知っている。となると、エーリッヒは本人が自覚もしないような何か不満が募っているらしい。だが本人は至って幸せなのだ。こうなったら二人で話し合うしかないだろう。ましてやシュミットは状況判断力に優れており、攻撃的なほどそれを完全に客観的に指摘できる。非常に頼りになる相手である。
「それが、よくわからないんだ」
夢はいつもエーリッヒが目覚めることで始まる。誰かに呼ばれたような気がして意識が覚醒する。しかし目を開くわけではない。急速に淡い光が近付いてきて、それが像を結ぶ。そこは白い部屋で、大抵白衣の男がいる。エーリッヒはどうやらベッドにでも寝ているらしく、動くことは出来ない。音はあまり聴こえず、音量を絞っているような感じだ。こうして考えると現実感に乏しいが、その間はむしろその夢の方がよほど現実のようにエーリッヒには思える。こうしてシュミットと二人で幸せに暮らしていることの方が夢のように。
「白衣? それは医者か?」
小首を傾げるシュミットにエーリッヒは多分と頷く。胸のポケットに何本もペンの刺してある白衣、時折手にしているクリップボード。まず間違いなく医者だろう。たまに看護婦らしき女性も出てくる。何科だかまではわからないが、とするとそこは病院なのだろうか。
「でも別に健康に不安なんか無いんだけどな」
腕を組んで困ったようにエーリッヒも首を傾げた。去年受けた健康診断でも特に問題は無かったし、今だって自覚症状は無い。食欲も有るし仕事も楽しい。少し運動不足はあるかもしれないが、肥満の兆候は皆無に等しい。便秘になったことは今までの人生でシュミットとエジプトに行ったとき以外無いし、偏頭痛も持っていない。身体の不調などせいぜいここのところの睡眠不足くらいなものだが、それだってあの夢の所為で眠りが浅いからなのだ。全くもって何だか判らない。
「そうだな、昨晩もあんなに元気だったし」
冗談なのか嫌味なのだか判らないが、シュミットもうんうんと頷く。彼がそう言うのならやはりエーリッヒには外的な変化も無いらしい。
「あれ?」
エーリッヒはふと顔を上げる。やはり寝不足なのかまた変なことを考えた。妻はどうした、とこちらを覗き込んでくる。確かにシュミットは洗濯板のように胸は無いが、正真正銘女だ。昨晩だって確かめたではないか。もし今シュミットにサイコメトラーの能力があったら、エーリッヒの人生はとっくに終焉を迎えているだろう。おお、恐ろしいと首を竦めるエーリッヒをシュミットは不審そうに見つめていた。
「そ、それで医者なんだけど」
半ば強引に元の話に戻したエーリッヒを尚もシュミットは疑い深そうな眸で見つめていたが、一応は頷いてくれた。よかった、妻は超能力者ではない。
「時々人数が増えるんだ。医者というより医学者みたいな連中が」
医者と医学者の違いが明確にわかるわけではないが、何となくそういった雰囲気を感じ取った。彼らはエーリッヒの主治医と見られる医師から何か説明を受けている。時折聴こえる言葉から、脳がどうのとか抵抗が何のとか移植がとかそんな単語をエーリッヒは聞き取った。それから画期的だとか、事故がどうしたとも。
「移植? 何でお前が移植なんか受けるんだ?」
「さぁ。でも、ひょっとしたら提供した側なのかも」
提供したはいいが、術後具合が悪くなって意識不明なのかも、とエーリッヒは言う。事実そういった事件がここのところよく起こっていることをエーリッヒはいつだか新聞で読んだ。良いことをしたのにその所為で死ぬなんて可哀相に、と思った記憶がある。そして二人とも臓器提供の同意を示したいわゆるドナーカードを持っている。ドナーバンクにもいくつか登録しているし、心当たりといえばそのくらいか。
かつてまだ臓器提供があまり一般的でなかった頃に、そのカードを貰いにエーリッヒはわざわざ病院まで行った。それでもなかなか見つけられなくて結局受け付けのおばさんに訊いたのだ。確かまだ学生の頃だったと思う。受付のおばさんはいかにも健康そうな若者に臓器提供意思表示カードはどこかと訊かれて、エーリッヒがぎょっとするほど満面の笑顔になってこちらですと案内してくれたのだ。あのことは死ぬまで忘れないだろうとエーリッヒは思っている。
「他に何か判断材料は無いのか?」
コーヒーカップに手を伸ばしながらシュミットは問う。だがエーリッヒは首を横に振った。毎日見る割に情報は驚くほど少ない。だが一度として同じ夢は見ていない。毎回微妙に違うのだ。そして何も起こらず、エーリッヒは目覚める。ただそれの繰り返し。気味が悪いとエーリッヒは溜息をついた。深層心理の表れではないのだとしても、エーリッヒに入院の経験などは無い。ならば記憶の再生でもないだろう。病院で一番先に思いつくことなど、医者になって毎日へろへろになっている友人のことくらいだ。思い当たることなど何も無い。
「それならもう気にしなければいい」
呆れたようにシュミットは言うが、そういうわけにもいかない。何か大事なことを忘れているような気がしてならないのだ。しかし何しろ夢なので全部覚えているわけではない。だが何か見落としているか、忘れていることがあるような気がする。……気がするだけなのかもしれないが。
思わずじっと考え込んだエーリッヒに、わかったとシュミットが声を上げた。妻は眉間に皺を寄せて固い表情を作ると、
「お前さては、浮気でもしたいんだろう!」
「は? な、何でそんな結論に……」
看護婦だ看護婦、とシュミットはテーブルに身を乗り出す。欲求不満でそんな夢を見るんだと何故か決め付けるシュミットは、慌てるエーリッヒを他所に一人で納得しているようだ。
「どうして男ってのはこうなんだ。私というものがありながら」
きっと次はフライトアテンダントだぞ、とつっけんどんに言い放つ。
「ちょっとまってくれ、真面目な話をしてるんだぞ」
だがシュミットは聞く耳持たない。ふんとエーリッヒを鼻で笑うと、
「じゃあ幼稚園の教員だな。それとも美人家庭教師か?」
「あのな、その安物のフランス製ポルノみたいな設定は何なんだよ。浮気願望だけならもっとましな夢見るって!」
必死になって抗弁するエーリッヒだったが、彼はふとシュミットの指が彼女の腕を掴んでいることに気付いた。何かに耐えるような様子のそれは、笑いをこらえているということか。
「シュミット!」
忌々しげに呼ばれてついにシュミットは笑い出した。エーリッヒが余りに真面目に反論するのが可笑しかったらしい。肩を震わせて笑う妻に、エーリッヒは暫くの間不機嫌な目を向けていた。
読み止しの本を胸の上に置いたまま、エーリッヒは何気なく寝室の窓から覗く風景を眺めていた。ベッドに入り、ヘッドボードに寄りかかって眺める風景は、エーリッヒのお気に入りである。郊外の風景は静かで単調で美しい。だが今夜は月も出ていないのか、外はほとんど見えない。寝室の明りを消しても多分同じだろう。こうして眺める暗闇の中に、本当にエーリッヒの見知った世界があるのかふと疑問に思ってしまう。ひょっとしたら、この外には何も無くて、エーリッヒがそれを確かめようとした瞬間に風景が出来上がるのではないだろうか。そう考えてみれば、風景など早々変わるものでもないし、反面完全に覚えているわけではない。単に『どこかで見たような』風景であって、本当にそれがそこにあるのか疑わしい限りだ。作ろうと思って出来ないことは無いだろう。
だが、とエーリッヒは一人で苦笑した。誰が何のためにそんなことをするというのだ。確かそんな内容の小説があったような気もする。良く言えばロマンチストか、軽い被害妄想の領域である。自分はそのどちらでもないし、と未だ闇しか見えない窓の外を眺めていたとき、突然部屋の電灯が消えて、エーリッヒは驚いてスイッチのあるドアの方を振り返った。
「し〜っ!」
そこには二人しかいないにもかかわらず、静にしろと口唇に人差し指を当てたシュミットが立っていた。彼女はガウン姿で、一体何が始まるのだと首を傾げるエーリッヒを乗り越えてナイトテーブルのスタンドを点ける。その柔らかな光を受けながら彼女はカーテンにも手を伸ばす。それを引いてしまうとエーリッヒを振り返り、
「あれ、何だお前、またそれ読んでるのか?」
腰に手を当てて呆れたように言う様はちょっと可愛らしく、エーリッヒは一人でニヤニヤと笑ってしまった。が、シュミットがむっとした表情になったのを見てわざとらしく咳払いをし、
「いいじゃないか、名作なんだから」
エーリッヒは本を掲げてみせる。それはエーリッヒのお気に入りのジュールベルクの『海底二万里』だった。小さい頃から何度も何度も何度も読み返しているのですっかりボロボロになってしまっているが、エーリッヒの宝物の一つである。もうほとんど暗記しているほどに読み込んでいるくせに、何でわざわざページを捲る労力を浪費するのかわからない、とシュミットはうそぶいた。そんなことより、と彼女は表情を輝かせると、スリッパを脱いで絨毯の上に背筋を伸ばして立つ。両腕を広げ、くるりとゆっくり回って見せた。
何でか得意そうなシュミットにエーリッヒは再び首を傾げるが、彼女がこういった悪戯っぽい表情で微笑むのは凄くいいと思う。新婚夫婦ならではののろけだ。
一人でヘラヘラ嬉しそうなエーリッヒを他所に、シュミットはガウンの帯をゆっくりと解いてみせる。映画で見たストリッパーの真似でもしているのか、妙に手つきが艶っぽい。すっかり乗せられているエーリッヒはそのじらすようなゆっくり差加減がなんとも言えずよろしくて、面白がってシュミットを促した。
「ジャーン!」
漸くガウンを脱いだシュミットは、銀色の光沢のあるシルクのキャミソールを纏っていた。胸元と裾の方に細密なレースをあしらった、セクシーだが上品なものだ。もう一度くるりと回転してみせると、背中の部分がほとんど腰まで空いていて、エーリッヒは思わず歓声を漏らしてしまった。
それに気を良くしたのかシュミットは嬉しそうにベッドに身を乗り出す。
「どうだ、凄いだろう!」
結構高かったんだからな、と威張るシュミットに素直に凄いとエーリッヒは賛同した。自分のパジャマとは大違いだ、とも。シュミットはそれに満足そうな表情を浮かべ、ベッドに飛び乗って嬉しそうなエーリッヒの脚に跨る。彼女は勝気な流し目で、
「どうだ、脱がしてみたいだろう?」
そう言って右肩のストラップを少し引っ張って見せた。細い肩が、むしろほとんど胸元まで露わな下着は、とてもシュミットに似合っている。はっきり言って胸は無いが、くっきりと浮き出た鎖骨がとてもセクシーだとエーリッヒは思う。だから素直にシュミットの細い腰を抱き寄せ、
「うん、脱がしてみたい」
耳元で囁いたらくすぐったいとシュミットは笑い声を上げた。それから急に真面目な表情になり、
「寝不足で辛いなら、別にいいんだぞ?」
だがこの場合やめろと言われても嫌だとエーリッヒは言っただろう。彼は苦笑しつつ、
「それはもう、毎晩可愛い奥さんがおねだりするんで、夫は寝不足ですよ」
でもこんな寝不足ならばいつでも歓迎だけどね、と言ってエーリッヒは間近にあるシュミットの頬にキスをする。彼女も笑い、
「爪は引っ掛けるなよ」
お気に入りなんだからな、と言外に注意を促してシュミットはエーリッヒに抱きついた。
「了解!」
エーリッヒは軍隊方式で敬礼をすると、可笑しそうにころころと笑うシュミットを押し倒したのだった。
またあの夢だ、と近付いてくる光を見ながらぼんやりとエーリッヒは思った。そして想像どおりその夢は始まった。
白い天井、白い壁。ドアの色だけが微妙にクリーム色かもしれない。身体を動かす事が出来ないのでエーリッヒにわかるのはそれだけしかない。電灯の色も白。引き戸になっているドアを開けて入ってくるいつもの医者も白い。たまに緑の手術着のようなものを着ていることもあったが、今日はいつもの白衣だった。そして続いて入ってきた看護婦も白い。それが鬱陶しいとエーリッヒは思う。これではエーリッヒの世界は白に蝕まれているようではないか。
しかし医者も看護婦も全くエーリッヒには気付かない。これもいつものことだ。彼らはエーリッヒの枕もとを指して何か意見を交わし、カルテがあるのだろうクリップボードに何か書き込みをする。看護婦は視界の端の高い位置にある何かをいじっている。点滴だろうか。それが終わると今度は屈みこんでエーリッヒに顔を近づけた。脈でも計っているのだろうか。その看護婦から表情は窺えない。彼女はふいに振り返って医者に何か告げた。ボソボソとした声が聞こえたが、エーリッヒはそれに注意を向けていなかった。彼はそのとき看護婦の肩越しに医者ではない第三者を見つけたのだ。
その人物は壁際に立っていた。部屋は明るいのにどうしてか顔がよく見えない。だが何故かエーリッヒにはそれがいつも彼を呼ぶ声の主だとわかった。光が見え始める前に、エーリッヒを呼ぶあの懐かしい声。
エーリッヒはその人物を見極めようと意識を集中するが、看護婦が立ち上がった所為で視界が遮られて逆に見えなくなる。邪魔だどいてくれと思っても声は出ない。これほどもどかしい思いをしたことは初めてだ。身体が動かせないとは何とやっかいなことだろう。
だが幸いにも看護婦はすぐにエーリッヒから離れた。そして再び医者と何か話し始める。第三者は微動だにしない。エーリッヒはそれに違和感を覚える。看護婦も医者もあの人物をまるで無視しているようだ。医療関係者ではないのだろうか。だとしたら何故ここにいるのか。今までエーリッヒの夢に知り合いが出てきたことは無い。ここがもし病室だとして、エーリッヒが入院しているのだとしても、家族すら一度も出てこなかった。それなのにあの人物はどうして出てきたのか。
このときエーリッヒはこれが夢だという意識はまるで無くなっていた。彼の認識は現実とたがわず、懸命に壁際の人物を見ようとする。そのうち医者と看護婦は入ってきたときと同じように連れ立って部屋を出て行った。あの人物には見向きもせずに。これはいよいよおかしい。
初めのうちその人物は身じろぎ一つしなかった。おかげで逆にエーリッヒの方が焦燥感に襲われる。何故か彼は自分があの人物を知っていると確信を抱いていた。思い出さなければいけないような気がするのだが、それがままならずにエーリッヒはうめいた。それさえ思い出せば、もうこんな夢を見ることも無くて済むような気がするのに。
シュミット、とエーリッヒは恋人の名を呼んだ。それは単に神に奇跡を願うのと同じ心境でのことで、何か考えがあったわけではなかった。それなのに突然エーリッヒの呟きが聴こえたかのように『彼』は壁際を離れる。そう、その人物は男だ。
白い視界に進み出た彼は屈んでエーリッヒを覗き込んだ。その顔は日常的にいつも見ていた顔だという記憶はあるのだが、どうしても誰であるか認識が出来なかった。こんなに近くにあって、息遣いさえ聞こえそうだというのに。
彼はエーリッヒに微笑みかけ、呟くように口唇を動かす。音は無い。だがエーリッヒには彼が自分の名を呼んでいることがわかった。彼は更に身を屈め、どうやらエーリッヒにキスをしたらしい。すると突然風景が揺らぎ、天井が遠くに感じられた。光が飛び去るのだと気付いてエーリッヒは焦った。彼が消えてしまうと思ったのだ。
傍らの人物は悲しげな微笑みを浮かべながら、再び何事か呟いた。その口唇が『忘れないで』と呟いているのだと直感的に悟って、エーリッヒは何をと問い掛けたかった。しかし訪れたときと同じように急速に光は遠のき、エーリッヒは無意識に誰かの名を叫んでいた。
「シュミット!」
そう叫んでエーリッヒは目を覚ました。飛び起きてみればそこはベッドの上。今は暗くてよく見えないが、壁紙の色は緑だろう。本来なら視覚的に人間に安らぎを与えるその色は、むしろこのときエーリッヒを不安にさせた。
彼は口許に手をやって息を整える。手が震えていた。それどころか全身が長く走りすぎた後のように疲労している。原因はわかっている。あの夢の所為だ。
深呼吸をしてからエーリッヒは何かを求めるように視線を彷徨わせた。隣には誰かが寝ている。剥き出しの肩が寒そうで、自分の影になったその人物をエーリッヒは凝視した。艶やかな黒い髪、今は閉じられているがその大きな眸は紫青の色をしているだろう。肌の色は白く、身体は折れそうに細い。そう、彼女はエーリッヒの妻だ。先ほどまであんなに愛し合っていたのに、エーリッヒは何かに違和感を覚えて額に手をやった。
眠る妻からは規則的な寝息が聞こえる。エーリッヒの叫び声など全く聴こえていないようだ。いや、そもそもエーリッヒは本当に叫んだのだろうか。
エーリッヒはふらふらとベッドを降りて洗面所に向かった。顔を洗い、水を飲む。おかげで少し気分が落ち着いた。彼はふいに思い立って寝室へ戻ると、妻が眠っているのを確かめてから廊下に出た。外の空気が吸いたいと思ったのだ。
隣の書斎からベランダに出て、エーリッヒは柵に手をついた。空は真っ黒で月も出ていない。見下ろす風景は闇に霞んでおぼろげに輪郭が判るだけ。それは見慣れた風景のようでいて、どこかよそよそしい。夜は人の記憶を曖昧にする。だがエーリッヒは風景を見てはいなかった。彼の精神は今しがた見た夢に捕われていたのだ。
今のエーリッヒにはあの人物が誰なのかもうわかっていた。シュミットだ、とエーリッヒは小さく呟く。そう悟ると先ほどの夢では何故か認識できなかった顔も、鮮明に思い出された。間違いない、あれはシュミットだ。
だがそうするとおかしな点が出てきてしまう。何故あのシュミットは男だったのだろうか。そしてエーリッヒはその事を知っていた。あのときのエーリッヒは夢の方を現実と捉えていた。それでもシュミットが男であることについては疑問を持たなかった。むしろ彼が何故あんなに悲しそうな表情をしているのかの方が気になってしかたかなかった。忘れないで、というあの懇願は一体何だったのか。
エーリッヒは顔を上げる。夜明けの遠い空は黒い。見下ろすこの風景。夢の中の部屋のように現実的で、デジャヴュのように曖昧だ。そしてふとエーリッヒはこんな疑問を抱いた。自分は本当にこの風景を見ているのか。それはぞっとするような考えだった。
エーリッヒは口許を抑え、一歩後退さる。忘れないで、という呟きが頭を巡る。何時しかその言葉はシュミットの声となってエーリッヒに聞こえていた。低い聞き取りやすい男の声。シュミットの声。光が訪れる前に何時もエーリッヒを呼ぶ懐かしい声。そうだ、とエーリッヒは気付く。いや、気付いてしまった。シュミットは女ではない。
「…………莫迦な」
無意識に呟いてエーリッヒは頭を振った。シュミットが男ならば、今までいっしょにいた自分の妻は一体誰だというのだ。だがここでも彼はふと疑問を感じてしまう。妻と自分は、本当に結婚したのだろうか。それはいつ、どこで、どうやって。
エーリッヒは記憶を探る。寝室の写真立てのイメージは、しかし彼の記憶にヒントをくれない。シュミットは結婚式をするなら賑やかなのがいいとずっと言っていた。だがそれ以上を思い出すことは出来なかった。何故なら多分、結婚式は行われていないから。
そんな莫迦なと再度呟いてエーリッヒは目を瞑る。だがもし夢が、それを見ている間のことを現実だと思い込むほど鮮明であるのなら、今現在の方が夢ではないとどうやって証明できる。そしてシュミットが男であることが事実だとしたら、この現実は夢以外の何物でもない。
「それなら、夢でもいいじゃないか」
当然掛けられた言葉にエーリッヒは驚いて振り返る。
「ここにいれば、私はずっとおまえの側にいる。誰にも咎められることもなければ、中傷だって受けない」
背後にはシュミットが立っていた。襟ぐりのざっくりとした春物のセーター。踏みしめる足元は雑草の生えた大地。思わず一歩後退したエーリッヒは、僅かな段差に慌てて背後を見る。耳には潮騒が聞こえ、すぐ後ろは眩暈を起こすような高さの崖。見上げた空は茜色で、そこはもうベランダなどではなかった。
「……お前は、誰だ」
エーリッヒは挑むような視線で最早彼の妻ではない何者かに問い掛けた。彼女はシュミットと同じ顔を平然とエーリッヒに向ける。感情の読み取れない大きな眸には、エーリッヒ自身が映っていた。
「駄目だよ」
彼女はエーリッヒの質問に答えることなく前に進む。声音には憐憫の情が窺えるが、相変わらず表情は変わらない。彼女は警戒するエーリッヒに、
「お前はここにいた方がいい。その方が幸せなんだ」
お前が望んだことなんだ、とそう言って手を伸ばす。間近に伸ばされた手。しかし最早エーリッヒはそこに安寧を感じることは出来なかった。彼は一歩下がり、完全に崖の縁に立つ。不思議と風は無く、波の音さえももう聞こえない。
エーリッヒの頑なな態度に手を下ろして彼女は溜息をついた。漸く浮かんだ表情は悲哀で、その横顔はシュミットのそれと重なった。彼女は最早諦めたように、
「……どうしても行くのか?」
エーリッヒはただ無言で呟いた。何処へとは言わない。だがどうすればいいのか彼にはもうわかっていた。それならば、と彼女は呟いた。
「忘れないで」
それが何を意味している言葉なのか、今もエーリッヒにはわからなかった。だがしっかりと頷くと、彼は腕を広げ、目を瞑った。
傾いた体は海へと引き寄せられる。しかし重力は無く、ただ闇だけが全てを見つめていた。
目覚めたときエーリッヒは自分が誰で、今どこにいるのかわからずに辺りを見回そうとした。しかし身体は言うことを聞かず、エーリッヒは混乱する。そこへどこかで見たことのある看護婦が駆けつけ、続けて医師がやってきた。夢が終わったことにエーリッヒが気付いたのは、無理矢理起こそうとした身体に激痛が走ってからのことだった。
医者は言った。貴方はドライブ中に事故に遭ったのだと。それはシュミットとショッピングモールに買い物へ行った帰りだった。対向車線のトラックが突っ込んできて、他に何台もの車を巻き込んだ大惨事になったらしい。トラックの運転手は即死。エーリッヒは重態ながらも生き残り、けれどずっと意識不明のままだった。
エーリッヒは声帯が傷ついたのか掠れて聞き覚えの無い声でシュミットの安否を問うた。助手席に座っていたシュミット。事故の記憶は曖昧で思い出すことは出来ない。けれど不機嫌そうに車窓を眺めていた恋人の横顔は覚えている。できるなら今すぐにでも会いたいと思う。
だが医者は暗い顔でエーリッヒに落ち着いて聞くよう促した。シュミットは死んだのだ。あの事故で、シュミットの外的損傷は少なく、むしろエーリッヒの方が酷い状態だったという。だが打ち所が悪かったらしく、シュミットは死んだ。脳死だった。
エーリッヒは溜息をついて胸の上で組んでいた指を見つめる。見慣れているのに、もうずっと寝たきりだった所為かすっかり痩せ細って自分のものとは思えないような指。それを見つめながらエーリッヒはやっぱり、と一人ごちた。
何となくそんな気がしていた。夢の中でシュミットが言っていた。お前はここにいるのが幸せなのだと。夢で見た夢で、シュミットは悲しげに笑って言った。忘れないで、と。だから多分、そういうことなのだろう。それでもシュミットはエーリッヒに現実に戻ることを願ったのだろうか。だからエーリッヒは目覚めたのだ。彼の希望を受け入れるために。
落ち込んではいるがどこか悟った風のある患者に、医師は胸を撫で下ろしたようだ。意志が強く理解力の高いこの患者ならば、あの事実も受け止められるだろう。
医師は言う。重態のエーリッヒを救ったのはシュミットなのだと。どういうことなのかと首を傾げるエーリッヒに、移植をしたのだと説明する。エーリッヒは一命は取り留めたが、身体は酷い状態だった。シュミットは骨折などはあったものの、脳以外の臓器は事故の割に綺麗なものだった。そして二人とも臓器提供の意思があり、家族も同意してくれたので移植に踏み切ったのだと。
エーリッヒは医者の言うことをどこか遠い場所から眺めるように聞いていた。ああ、なるほど、とただそう思った。あの夢での断片的な会話は、こういうことだったのか。この身体中に巻かれた包帯も、移植による部分が大きいのだろう。ならばシュミットは、まだ自分の中で生きているということか。やはり自分は、シュミットによって生かされているのか。
医者が患者の疲労を心配して退室してから、エーリッヒは少しだけ眠った。浅い夢の中でシュミットは不機嫌な様子で車窓を眺めていて、ハンドルを握ったエーリッヒは懸命になって話し掛けるタイミングを窺っていた。けれど結局口を開くことは無く、夢は覚めてしまった。
気付くとほんの少しだけ開いているカーテンから覗く空は、すっかり群青色に染まっていた。ベッドサイドの棚の上に見慣れぬものが乗っているところを見ると、誰かが来たようである。多分家族だろう。だがエーリッヒが眠っているので、起こさずに帰ったのだろう。
エーリッヒは手元にあるスイッチを押して、ベッドごと半身を起こす。別のスイッチを押すと、スタンドをつけることが出来た。もう一つあるのは多分ナースコールだろうと目星がついた。だが今は一人でいたくて、そのボタンを向こうへ押しやった。
しんとした部屋の中で、エーリッヒは一人シュミットのことを想う。彼と最後に交わした言葉は何だったろうか。多分、ろくでもないことだ。確か、『勝手にしろ』と言われ、『ああ、勝手にする』とつっけんどんに答えた。そんな言葉が最後だったのかと思うと、情けなくて涙が出そうだった。それが最後だとわかっていたら、喧嘩なんかしなかったのに。もっと優しい言葉を交わそうとしたはずなのに。だが人生はままならず、いつだって無情に万物は流転する。シュミットはもう何処を捜してもいない。エーリッヒを助けて、死んでしまったのだ。そして無意識ながらも現実の受け入れられないエーリッヒは、都合の良い夢の中に耽溺していた。夢は結局、願望の産物だ。そして夢から醒めた以上、エーリッヒは生きていかねばならない。シュミットも多分それを望むだろう。ならば彼の希望通りにしてやるのがまたエーリッヒの望みでもあった。だが、シュミットのいないこの世界に、いかほどの価値があるのだろうか。
シュミットに会いたい、とエーリッヒは溜息をついた。そして何気なく窓の方を見る。先ほどと違って室内に明りがあるため、窓硝子は鏡のようになって外の様子は窺えない。そしてその青い鏡面に不可思議なものを見て、エーリッヒは身体を強張らせた。
「…………シュミット?」
自覚せずに呟かれた言葉。それから彼は慌てて振り返る。しかしシュミットの姿は無い。まさか、まだ自分は夢を見ているのだろうか。
恐る恐る再び窓を見る。そこにはやはりシュミットの顔。頭部に包帯を巻いて、眸を見張っている。そして何より、窓ガラスには彼一人しか映っていない。
ある衝動に駆られ、エーリッヒは自分の顔に手を触れた。見慣れない自分の指はだが、硝子の中では確かに見慣れたシュミットの指だった。
そして突然エーリッヒは理解する。損傷の酷かったエーリッヒの身体。軽症だが脳死してしまったシュミットの身体。シュミットの臓器をエーリッヒに移植するより、もっとずっと手早い方法がある。
移植されたのはシュミットの臓器ではなく、エーリッヒの脳が、彼に移植されたのだ。
エーリッヒは無意識に窓に向かって手を伸ばす。青色の鏡の中で、シュミットがこちらに手を伸ばした。身体を動かせないエーリッヒの指は、シュミットに届かない。だが、彼は鏡の中で微笑んでいた。紫青の大きな眸を涙で濡らし、エーリッヒに向かって微笑みかける。そしてエーリッヒも。
「…………こんなところに隠れてたのか」
もう二度と会うことは無いと思っていた恋人。エーリッヒは彼に向けて、ただ忘れない、と呟いた。忘れられる筈が無い、と……。
〔完〕
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404のキリバンです。
ご、ごごごご、ごめんなさい(汗)。
ギャグがいまいち思いつかなかったもので。
卒倒するエーリッヒだけしか……。
やつなら確実に軽くトラウマになってしまうでしょ〜な〜。
あっはっはっは。
ごめんなちゃいv
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