秋空のシンデレラ




 9月も半ばを過ぎた、なのに・・・・・・・・・


「どうしてこんなに暑いんだ!」


 そう、もう秋だというのに残暑は未だに続き、連日30度前後の凄まじい暑さが続いている。北国だろうが何だろうが、日本の夏は暑いらしい。祐一は買ってきたあずきバーを咥えながら愚痴愚痴言っていた。

 だが、何時もなら突っ込んでくれる彼女はこの場にはいない。舞は暫く実家に帰ってしまっており、このマンションには祐一と佐祐理しかいなかったのだ。ボケには突っ込みが必要だ。と、こういう時には実感せざるを得ない。

 何となく寂しげにあずきバーをハグハグやっていると、洗物を終えた佐祐理が台所からリビングに帰ってきた。


「はえ、どうしたんですか、祐一さん?」

「・・・・・・いや、舞がいないと、どうも調子が狂うなあと思って」

「あはははは、舞が帰ってまだ3日ですよ。もう寂しくなったんですか?」

「あ、えええと、そういう訳じゃないんですけど・・・・・・」


 祐一は返答に詰まってしまった。図星なだけに反論の言葉も無いのだが、素直に認めるのは彼のプライドというか、悪戯っ子のような本性が許さない。


「いや、別に舞がいなくたって、俺は寂しがったりしませんよ」

「本当ですかぁ?」

「ほ、本当ですって。すぐ目の前にこんな物凄い美人がいるんですから」

「・・・・・・あ、あはは、もう、冗談がお上手ですね、祐一さんは」


 佐祐理はちょっと顔を赤くして小さく笑った。祐一も笑い声を上げ、暫くリビングが笑い声に満たされた。だけど、どうにももう一味が足りない気がして、二人の笑い声は少しずつ小さくなっていった。


「でも、舞が帰ってくるまであと三日もあるんですよねね」

「はい、三日後です」


 祐一の何処か寂しげな声に佐祐理が力なく応じた。やはり、3人揃わないとどうにも気が落ちつかないのである。

 二人でちょっと落ちこんでると、ふと祐一が妙な事を考えた。


「そうだ佐祐理さん、明後日の日曜日だけど、ハイキングにでも行かないか」

「ハイキング、ですか?」

「そう、ハイキング」


 祐一は妙に乗り気になっている。佐祐理は少し悩んだ後、躊躇いがちに答えた。


「で、でも、ハイキングといっても、何処にですか?」

「・・・・・・そういえば、この辺りにハイキングコースってあったっけ?」

「キャンプ場なら、あるんですが、日帰りのハイキングコースとなると、車が無いと辛いですよ」


 佐祐理はこの辺りの地図を思い浮かべ、日帰りで帰れそうな所にハイキングコースは無い事を確認した。車でもあれば問題は無いのだが、まだ17の祐一は元より、自分も免許証は持っていない。

 そうなるとどこかの旅館やホテルに泊まるか、キャンプ場でキャンプをして帰るという事になる。キャンプ用品は現地で借りれば良いから、これならハイキング気分で出発する事も出来る。


「どうします、祐一さん?」

「うーん、じゃあ、キャンプにしますか」

「・・・・・・そんなにあっさりと決めちゃって良いんでしょうか?」

「良いんですよ」


 あっさりと言い切ってくれる祐一に、佐祐理は感心して良いのか、呆れたら良いのか分からなくなってしまった。


『・・・・・・名雪さんが「祐一は本能と直感で動いてるから」と言ってましたけど、本当ですねえ』


 それで今まで何事も上手くいったのだから、大した物かもしれない。

 少し考えた後、佐祐理もようやく乗り気になってきた。考えてみれば祐一と二人っきりで遊びに出掛けた事は無い。そう考えれば、こうやって遊びに行くのもいいかもしれない。


「そうですね〜、じゃあ明後日の朝出発という事でいいですか?」

「ええ、良いですよ」

「じゃあ準備とかは佐祐理がやっておきますね」

「え、でも・・・・・・」

「あははは〜、高校生にそんな時間があるんですか?」

「うっ!」


 痛い所を突かれ、祐一のこめかみを大粒の汗が伝って行った。どうやら文句は無いようだと見て、佐祐理はキャンプの準備を自分がすることにしたのであった。


 だが、言い切った後で佐祐理はふとあることに気付き、その笑顔を引き攣らせた。


『そういえば、佐祐理はキャンプは初めてでしたねえ・・・・・・・・・』


 これでもし祐一も初めてだったりしたら、自分たちはちゃんと帰ってこられるのだろうか。佐祐理はちょっと不安になってしまっていた。


「じゃあ佐祐理さん、明後日は思いっきり楽しむとしよう」

「あら祐一さん、いいんですか、舞を仲間外れにしても?」

「はっはっは、たまには二人で恋人気分で遊びに行くのも良いでしょう?」

「時間限定の恋人ですか、栞さんならさしずめシンデレラって言うかもしれませんねえ」

「おお、確かに栞なら言いそうだ」


 なんだかその光景が浮かんでくるようで、二人は声に出して笑い出していた。





 翌日の午後、佐祐理は早速キャンプに備えてそのデパートにやってきていた。キャンプ客が止まる事の出来るロッジや調理器具はあるようなので、テントなどのかさばる品は持っていく必要は無い。必要なのは料理の材料と、遊ぶための道具だろうか。


「ええと、やっぱりキャンプといったらバーベキューですよねえ。あとは飲み物と・・・・・・ヤキソバも定番ですかねえ」


 食材売り場を見て回りながら佐祐理は思いついたメニューに従って材料を籠に放り込んでいく。ふと気がつけば籠は一杯になり、一人で持つのは大変な重さになっていたりする。


「は、はええ〜、ちょっと買いすぎましたねえ」


 これは、祐一さんが帰って来るのを待ってた方が正解だったかもしれません。佐祐理は買い物篭に山と詰まれた食材を見て頭痛がしてきた頭を押さえた。はっきり言って、佐祐理は力のある方ではない。舞だったら平気かもしれないが、佐祐理がこれを持って家まで帰るとなると、かなり遅くなってしまうだろう。

 どうしたものかと悩みながらも籠の中身は自然と増え、気がつけばレジで清算を終えていた。ますます悪化している事態に佐祐理は引き攣った笑顔を浮かべ、三つの買い物袋を下げて歩き出した。





「やっぱり、無理だったかも」


 汗だくになった佐祐理は近くの公園のベンチに腰を下ろしてぐったりとしていた。まだ家まで半分も来ていない事を考えれば、これは大問題だ。さすがに困り果てて、思わず抜けるような青い空まで恨めしげな目で見上げてしまう。

 そんな佐祐理に、声がかけられた。


「あれ、こんな所でなにやってるんです、倉田先輩?」

「はえ?」


 聞き覚えのある声に思わず声を出し、慌てて周囲を見渡せば、公園沿いの道路から友人の北川潤と美坂香里が物珍しげな目でこちらを見ているではないか。


「あ、北川さんに美坂さん、こんにちは」

「あ、こんにちは」

「こんいちわ、倉田先輩」


 こんな所で会うなんて、珍しい事もあるものです。どうやら学校帰りみたいですね。私は好きな人と一緒に下校するという経験が無かったですから、ちょっと羨ましいです。


「あの、こんな所で何をしてるんですか?」

「え、ええと、あはははははははははは」


 参りました。まさか買い物袋が重くて持って帰れないなんて、こんな間抜けな話をどうやって話したら良いんでしょうか。

 暫く悩んだ末、結局佐祐理は素直にこの大問題を打ち明けたのであった。


「へえ、明日から相沢君とキャンプにですか」


 二人に荷物を分担してもらい、ようやく帰る事が可能になった道中、佐祐理は明日からの予定を二人に語って聞かせていた。


「はい、ここからそう遠くないところで、電車で少し行って、後は歩きです」

「まあ、小屋というか、ロッジがあるなら、もってく物も少なくて良いから確かに良いかもな」

「ふうん、でも、良いんですか?」


 香里が珍しく悪戯っけを出して聞いた。佐祐理は香里が何を聞きたいのか分からずに首を傾げている。


「川澄先輩にばれたら、怒られるんじゃないですか?」

「ああ、なるほどね。川澄先輩はああ見えて結構嫉妬深いからなあ」


 北川が納得して笑い出した。佐祐理は少々困った顔ではあったが、反論する事も出来ずただ苦笑いを浮かべている。実は、舞の嫉妬深さは仲間内では結構有名なのである。祐一が友人達と遊んでいるのはまあ容認しているのだが、自分の知らない女性と話してたりした日にはたちまち爆発してしまうのだ。なまじ頭が良くて、しかも聡明なだけにどんな言い訳も通用しない。大抵は拗ねるかチョップの連打で済むのだが、酷い時にはちび舞まで出して徹底的に叩きのめしてくれる。

 北川と香里は幾度かその現場に出くわしており、その惨状から笑顔で目を逸らしたものだ。助けを求める魂の悲鳴が聞こえたような気もしたが、涙を飲んで無視している。

 佐祐理もさすがにこの事についてはフォローする言葉が浮かばず、ただ笑う事しか出来なかったりする。





 その後、佐祐理のマンションまで買い物袋を運んで分かれた二人は、帰り道で妙な事を話し合っていた。


「どう思う、さっきの話?」

「・・・・・・やっぱり、浮気かしら?」

「ううむ、相沢の奴、両手に花といくつもりか」


 どうやら二人の間では、事実とは大きくかけ離れた方向へと妄想が膨らんでいるようであった。





 一方、方向性こそ違うものの、似たような問題に頭を悩ます人もいる。


「二人っきりでキャンプですか。祐一さんと二人っきりで何処かに行くというのは考えてみれば初めてですねえ」


 そう思うと表情が少しだらしなく緩む佐祐理であったが、もしこれが舞に知られたらと思うと、さすがに笑っている事も出来ないのである。恋は盲目、と言ったのは誰だっただろう。舞は祐一が絡むと我を忘れて行動してしまうのだ。

 さすがの佐祐理も、舞の怒りが自分に向くのは勘弁して欲しかったりする。

 でも・・・・・・・・


「なんだか、不倫するみたいですねえ」


 最近大学が休みだったせいか、昼間のおばさま向けドラマを見過ぎていた佐祐理は、恋人がいる者同士で旅行に行くという妖しげなシチュエーションに危険な楽しみを見出したりしている。

 もともと佐祐理には状況を楽しむ悪癖があるが、特に彼女はドラスティックな展開を楽しむタイプだったりする。栞と違って状況にどっぷりと浸かりはしないし、引き際を心得てるから大事に至る事がないのが救いではあるが、火遊びを好むという本性に違いはないと言える。 

 少し考えた後で、佐祐理は携帯を取り出して電話を始める。暫くのコールのあと、相手が出た。


「もしもし」

「あ、私です、実は・・・・・・・・・・」







 その日、百花屋で一つの会合が行われていた。



「・・・・・・という訳です」

「何てありがちなシチュエーションなのでしょうか」

「うぐぅ、祐一君って浮気者だったんだ」


 通称、ナイチチーズの面々である。真琴は順調に発育しているためか、この面子には加えられていない。


「幸い場所は分かっています。私達も後をつけるとしましょう」

「・・・・・・互いに自分の恋人には内緒で、季節外れのキャンプ場に妙齢の男女が二人っきり」

「これで間違いが起こらないはずがありませんよね、天野さん」

「ええ、栞さん」


 連続ドラマに毒された女の子達は危険な妄想を抱いていた。二人の頭の中では危険な関係に落ちていく祐一と佐祐理の姿があるに違いない。

 そんな暴走気味の二人に、唯一毒されていないあゆがおずおずと静止をかけた。


「あの、二人とも、まだそうなると決まったわけじゃないんだから」

「「何を言ってるんですか!」」


 口を揃えて窘められ、あゆは首を竦めてしまった。すでに暴走している二人を止めるには、あゆでは役不足なのは明らかである。


「良いですかあゆさん、18の絶世の美女と、17の健全な男性が一つ屋根の下で一晩過ごすんですよ」

「しかも二人は互いの恋人という枷から外れています。これは解放感に浸る事間違いないでしょう!」

「そうです、しかも倉田先輩の相手はあの天然プレイボーイ、学校の男子生徒の怨敵の祐一さんですよ。これだけの条件が揃ってるんです!」

「きっと明日の夜はいつもよりも暑いことでしょう!」

「・・・・・・・・・いや、あの、二人とも・・・・・・?」


 あゆは必死に二人を現実世界に引きとめようとしていたが、二人は当分帰ってくる事は無かったのである。

 その様子を見ていた店長は困った顔でぼやいていた。


「早く帰ってくれないかなあ」







 翌日の朝、祐一はリュックを背負ってマンションの前に立っていた。佐祐理が先に出ていてくれと言ったからこうしているのだが、何となく間抜けな気もする。


「むう、遅いな」


 まだそんなに経っていたいのだが、やはり待っているという時間は長く感じるものである。そんな事を考えていると、階段から降りてくる佐祐理が見えた。


「はあ、はあ、すいませんでした、祐一さん」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 佐祐理は、薄いグレーのスリップワンピースを着ていた。膝丈まであるそれは、身体のラインに柔らかくフィットしたプリーツ地で、露出した肩を隠すように、上から濃いめのブラウンのカーディガンを羽織っている。薄手の物だ。足許は白いパンプス。左足首には細い鎖のアンクレット。そして、かすかに見え隠れする耳には、薄い赤に輝く水晶玉が、小さな自己主張を行っていた。

 祐一は佐祐理がおしゃれをするのを見るのは久しぶりだった。佐祐理がそういう事に無関心なせいなのだが、舞はそういう事にまったく興味が無いタイプなので、というか、祐一の周囲におしゃれをするような女性というと、香里が多少気にかけるくらいで、ある意味残念至極な状態なのである。

 当然ながら、祐一はおしゃれをした佐祐理に見惚れていた。


「ふえ、どうかしましたか、祐一さん?」


 そんな祐一の顔を佐祐理が覗きこんできた。


「い、いえ、何でも無いです。じゃあ、行きましょうか!」


 祐一は赤くなった表情を隠そうとことさら大きな声を出してさっさと歩き出してしまった。佐祐理はその後姿を暫く見ていたが、クスリと笑うとその隣について歩いて行った。





やがて、駅についた二人は、改札口を通って中に入っていった。電車に乗るために駅のホームに備え付けてあるベンチに腰を下ろした祐一に佐祐理が自販機で買ってきたジュースを差し出しす。


「はい、祐一さん」

「あ、ありがと」


 受け取ると一気にそれを飲み干した。そして一息ついたところでリュックに目をやり、ちょっと懐疑的な声を出した。


「でも、こんなにいっぱい、何が入ってるわけ?」

「え、食材ですよ」

「・・・・・・食材って、こんなに沢山?」

「はい、きっと沢山食べてくれると思って、奮発しちゃいました」


 奮発というレベルじゃないと思うのですけど。と祐一は頭の中でぼやいた。実際にリュックの中身が全部食材だとしたら、軽く6〜7人分はあるだろう。それを全部俺一人に食えというのだろうか。


『佐祐理さんなら有り得るかも』


 何となくそう思えてしまう自分が少し悲しかった。

 佐祐理は隣で悩んだりしょげたりしている祐一を横目に見て、ふと意味ありげな微笑を口元に浮かべていた。


「あはは〜、楽しみですねえ、祐一さん」

「ああ、そうだね」


 祐一は簡単に応じたが、もしこの時の佐祐理の横顔を見ていれば声を引き攣らせたかもしれない。その時の佐祐理は、まさに悪戯っ子そのものであったから。


 そして、そんな二人を遠目に見ている視線が三つあった。


「ううう、なんか楽しそうです」

「・・・・・・お楽しみはこれからですよ、栞さん」

「そうですよね、天野さん」


 がっしりと手を握り合う二人の後ろで、あゆがリュックの中身を見て目を丸くしていた。


「ねえ、栞ちゃん、天野さん。これなに?」

「え、私が持ってきた望遠レンズに双眼鏡に盗聴キット、カメラ、ボイスレコーダーですけど」

「スターライトスコープに赤外線カメラ。迷彩ネットに皆さんの寝袋ですよ」


 見れば分かるでしょう、という意味を言外に込めた言葉。だが、あゆは真っ白になりかけてる頭の片隅で自問自答していた。


 天国のおかあさん、ボクはとんでもない人達と友達になっちゃったみたいです・・・・・







 電車を下りた二人は駅前の案内板に従って歩き出した。この辺りまで来ると山がすぐ傍にあり、なだらかな上り道が見えている。隣にはハイキングコースとあるので、間違いはないだろう。


「ええと、キャンプ場はこのハイキングコースの途中で河の方に下りる道に移れば良いみたいです」

「じゃあ、暫くはこの坂を登るのかな」

「はい、でも結構ありますから、途中のベンチでお昼にしましょう」


 佐祐理はニコニコ笑顔で持ってきたパンフレットを見ている。駅に置いてあったのを一冊貰ってきたのだ。


「でも、いい天気で良かったですねえ」

「ああ」


 二人は抜けるような青空を見上げ、幸先のいいスタートに心を軽くして歩き出した。坂道はなだらかで、荷物を背負っていても歩くのにそれほど苦労するような道でもない。

 だが、いきなり佐祐理が腕を組んできた。

祐一は、ごく最初だけ慌てたが、人目もないし・・・・・・と、結局そのままにしていた。とは言え、触れ合う肩と肩、そこから伝わる体温が、祐一の気分を、何とも落ち着かないものにさせていた。

・・・・・・対する佐祐理は、もっと純粋に、その体温を感じていた。ぴったりとくっついた祐一の肩から、何とも言えない安心感が伝わってくる。


しかし、自分たちで選んだ所ながら、ここは自分たちの想像を超えるくらいに素晴らしいところだった。小鳥の囀り・・・・・・陽の光・・・・・・優しく満ちあふれる、生命の息吹を感じる・・・・・・。

少し進んだ所で、佐祐理は息を飲んでいた。そんな佐祐理に祐一が優しい声で問い掛けた。


「佐祐理さんは・・・・・・こういう所、初めて?」

「はい・・・・・・」


佐祐理は、軽い驚きとともに、あたりの風景を見回していた。心を奪われている様子が見て取れる。

祐一は微笑むと、佐祐理に向かって片手を差し出した。


「歩こうよ、佐祐理さん」


驚いたように、その手を見る佐祐理。


「・・・・・・はい」


うっすらと頬を染めて・・・・・・佐祐理は、そっと祐一の手の上に手の平を重ね合わせた。二人は、手を繋いで、遊歩道をゆっくりと歩いていく。

佐祐理には、その、祐一の手の平から伝わる暖かさ・・・・・・それが、全身を柔らかく包んでいるような気がしていた。


祐一は、繋いだ手の平に、すべての神経が集中して、顔が赤くなっているのを自覚していた。


『ああ・・・・・・拍子とは言え・・・・・・』


よく、あんなことできたよな、俺・・・・・・


『う〜ん・・・・・・ドキドキする・・・・・・』


なんだか、繋いだ手の平から、自分の鼓動の速さが伝わってしまう気がして祐一は、さらに鼓動の動きに拍車をかけていった。

緊張が緊張を呼び、鼓動が全身の熱を上げ、もう臨界点に到達しようかと言う、そのとき・・・・・・


バサバサバサッ!


急な羽音に、驚いて祐一は頭上を見上げた。ア−チのように自分を囲む木々の枝から、数羽の鳥が飛び立っていく。見上げたその隙間から、木漏れ陽が降りそそぐ・・・・・・急速に祐一の心は収まっていく・・・・・・。

冷めていくわけではない。落ち着いた・・・・・・胸のうち全体を、ゆっくりと包み込むような暖かさに、変化していく。

視線を戻すと、佐祐理が怪訝そうな顔で、祐一を見ている。


「ごめん・・・・・・行こうか」

「あっ・・・・・・」


今度は、自分の意志で、しっかりと・・・・・・祐一は、佐祐理の手を握り締めた。佐祐理の顔が、みるみる紅潮していく。祐一が見ると、慌てたように目を逸らす。

祐一は、やわらかく微笑んだ。さっきまでの昂揚とは違う、落ち着いた、心・・・・・・


「行こう」

「・・・・・・うん」


ふたりはゆっくりとした歩みで、再び遊歩道を歩き出した。







「お昼にしましょうか?」


およそ、デートに持ってくるような弁当箱ではないような気もするが、それは佐祐理のセンスなのだから仕方がない。佐祐理から弁当箱を受け取り、祐一はその蓋を開けた。中は、2つに分かれていた。広いほうは、御飯が詰まっている。箸を入れてみると、海苔で3層に分かれていて、真ん中に三色のそぼろを混ぜたものが挟まっている。おかずの方は、キャベツや青菜系、厚焼き卵、トマトなど、肉を避けた構成。小さなトレイにピーナツのような、調理を施していない豆、別の容器に小さく切ったリンゴが入っていた。


「いただきます」


祐一は嬉しそうに微笑むと、いつもの黒い塗り箸を手にとった。


まず、厚焼き卵。一口つまんで、口に運ぶ。そして、目を瞑って、もぐもぐと口を動かして・・・・・・


「・・・・・・うん、おいしい」

「そうですか、ありがとうございます〜」


佐祐理も嬉しそうに答えると、自分の弁当に箸を伸ばした。

その時、小さな、軽い物音が、祐一の耳に入ってきた。


『葉っぱ?』


祐一が、少しだけ首を動かして、後ろを見る。そして……


『!』


首を戻すと、祐一は横の佐祐理に声をかけた。


「佐祐理さん・・・・・・」

「はい?」

「いい・・・・・・そぉ〜と、静かに・・・・・・ゆっくりと、振り返ってみて」

「・・・・・・後ろ、ですか?」


佐祐理は、怪訝な表情をしながらも・・・・・・箸を置いて、静かに後ろを振り返った。


「・・・・・・リス、ですか?」


佐祐理は、少し驚いたように目を開き、祐一を見る。祐一は、待ってましたという表情で笑うと、小さく頷いた。二人の座るベンチの後ろに、切り株のようなものがある。その上に、茶色で小さなリスが、何事もないかのように毛繕いをしていたのだ。


『逃げないな・・・・・・気付いてないはずはないんだが、餌付けされてるのか?』


野生の動物に、やたらと食べ物を与えるのはよくない。だが、すでに餌付けされている動物なら、それもいいだろう。


『むう、それならここはやはり・・・・・・』


祐一は、自分のおかずを見下ろした。


『豆・・・・・・なら、食べるかな?』


下手に調理されているものより、生の方がいいだろうし。そう思い、豆のひとつをつまんで、もう一度振り返った。


リスは、転がってきた豆を両手で押さえると、それを抱えるようにして持ち上げた。そのまま、左右をぴぴっと見回す。そして、ぱくっと口の中に押し込んだ。片方のほお袋が、ぷくっと膨らんだ。

佐祐理は、なんだか嬉しそうな笑顔でそのようすを見ている。微笑んで、祐一が声をかけた。


「どう?」

「え、ええと・・・・・・そうですね」


佐祐理はぱっと自分の弁当箱から、同じ豆をとりだした後・・・・・・しばし悩んでから、思いきったようにそれをリスの足許に放った。

リスは、それを再び両手で掴むと、口の中に押し込む。反対側のほお袋が、同じようにぷくっと膨らんだ。

 暫く面白そうにその様子を見ていた二人だったが、リスは、両方のほお袋を膨らませたまま、つぶらな瞳で、きょろきょろとまわりを見回すと、タタタッと森の奥へと走って行ってしまった。

 それを少し残念そうに見送った後、昼食を終えた二人は、同じハイキングコースを、更に先に向かって歩きだした。







木々のアーチから漏れる陽の光が、朝の爽やかな光から、午後の柔らかな光に変化している。その複雑な形の影が、歩く佐祐理の横顔を移動していく。


『むう、麦わら帽子が似合いそうな感じだな・・・・・・・』


こういうのもいいな、と祐一はぼんやりと思う。自然の移ろいの中で、かすかな微笑みを浮かべた、柔和な横顔・・・・・・。


『・・・・・・これが、本当の倉田佐祐理なんだろうな・・・・・・』


昔の佐祐理なら、こんな表情はしなかった。本音を隠して、自分が咎人だと信じて疑わなかったころなら、ますますそうだろう。今の佐祐理も、自分の前では普段はこんなに無防備で柔らかな表情は浮かべない。

将来・・・・・・誰の前でもこの表情が佐祐理を彩る表情となる時が、きっと来るだろう。

 祐一は佐祐理を変えた男の顔を思い出し、僅かに嫉妬した。


『むう、あいつは何時も佐祐理さんのこういう顔を見ているという事か』


祐一は、佐祐理の横顔を眺めながら、少し悔しかった。







やがて、小高い丘のようなところを越えると、二人の耳に、せせらぎの音が聞こえてきた。


「やっと川につきましたね」

「うん」


祐一は手を繋いだまま、佐祐理の先に立って奥へと進んだ。

そこは、不思議な空間だった。
 ほとんど谷とも言えないような浅い場所にもかかわらず、周りの丘と木々に切りだされた箱庭のような印象。先ほどまでのアーチから、一転して抜けるような青空が二人に降り注ぐ。

箱庭の中央を流れるせせらぎは、陽光を照り返して、宝石のように輝いていた。川原まで短い下草が、潤いを湛えた絨毯のようにしきつめられ、ところどころから、小さな花が顔を覗かせて二人を伺っていた。川原は上流だけあって石の粒が大きく、形もバラバラだが、それがかえって自然美を醸し出している。
 草の絨毯の上を歩く佐祐理は、体重なんて無いんじゃないかと思うほどに、軽やかだった。祐一は内心で感動していた。

川のふちまで来た佐祐理が、祐一を振り返る。祐一は慌てて佐祐理の横に駆け寄った。川の中は、透き通ったな水が煌めきながら流れていた。しゃがみ込んだ佐祐理は、片手を水の中に入れる。

「はえ〜、やっぱり冷たいですね」

「上流だし、流れが少し速いからね」


水面から煌めいた光が、佐祐理の顔を輝かせている。


「佐祐理さんは・・・・・・川、初めて?」

「はい・・・・・・、お父様は、こういう所に遊びに連れて行ってはくれませんでしたから」

「じゃあ、来てよかった、かな」

「・・・・・・はい!」


ここの景色は、本当の自然じゃない・・・・・・と、祐一は思う。当たり前の話だが、ここは人の手が加えられたキャンプ場だ。少し周囲を見渡せば丸太で作られたロッジが見えるし、火を起すためのコンクリートブロックで作られた囲いもある。

 だけど、それでもいいと思えた。現に佐祐理はこんなに喜んでくれているのだから。


佐祐理は立ち上がると、しゃがみ込んでパンプスを脱いだ。


「どうするの?」

「中に入ってみますね」


その言葉と同時に、バシャバシャと水の中に歩きだした。


「危ないよ、佐祐理さん……足許をよく見て」

「大丈夫ですよ〜」


佐祐理は、川の中ほどまで来て、祐一の方に振り返った。川は浅く、佐祐理のひざ下、10センチくらいのところに水面が来ている。佐祐理は、軽く両手を上げて、くるくるとその場で一回転した。

パシャパシャと、水が優しくはねる。


「あははははははははは」

「佐祐理さん、気持ちいい?」


祐一も立ち上がっておしりの砂を払うと、佐祐理に声をかけた。


「やっぱり、プールとは違いますね〜」

「そりゃそうだよ。プールは水が流れてないし、底も砂利とかじゃないし・・・・・・」


 祐一さんの言う通り、ここはプールじゃない、当たり前です。でも、それだけじゃない気がするのは、何故だろう?

そういうのと、違う。この、内に感じる感覚は、なに?


「俺も、そっちへ行くよ」


祐一の声に、佐祐理は顔を上げた。祐一もスニーカーを脱ぎ、ジーンズの裾を折り曲げている。準備の整った祐一は、バシャバシャッと水の中に入った。

そのまま、佐祐理のそばまで・・・・・・


「わ! たったっ!」


 急ぐ余り、祐一は足許の岩を踏み外した。そのまま、前のめりに倒れ込みそうになる。


「祐一さん!」 


その体を、佐祐理が慌てて支えた。おかげで祐一は何とか転ぶのを免れた。佐祐理が、祐一の背中に腕を回して、ギュッと祐一を抱きしめている。


「あ、あの、佐祐理さん・・・ありがとう」


少し赤くなって、祐一は体勢を整えた。佐祐理も祐一に抱きついたまま、同じく体勢を元に戻す。


「ははは、なんだか格好悪いね・・・・・・」

「ふふふふ、そうですね、舞が見たら幻滅するかもしれませんね」

「ちょ、ちょっと佐祐理さん?」

「あははは〜、じゃあそろそろ水から上がりましょうか」


 佐祐理は祐一をからかうと、慌ててる祐一を置き去りにして川から上がっていった。







 二人が川で遊んでいる所を、かなり離れたところから見ている三人がいた。


「え、えう〜〜〜〜〜〜〜」

「・・・・・・どうせ私は彼氏がいませんよ」

「あ、あの、二人とも、そんなに落ちこまなくても良いと思うんだけどなあ」


 なんだか祐一と佐祐理の雰囲気にすっかり当てられてしまい、栞と美汐はすっかり拗ねてしまっていた。あゆが懸命に慰めているのだが、どうも当分は復活しそうもなさそうである。







 その日の夜持ってきた材料で簡単なバーベキューを作っていた。なんだかんだで遊びまくっていた二人は、気がついたら夜もすっかりふけていたのだ。このままだとなにも食べずに明日になってしまいかけないと、簡単に作れるもので夜食といっても良い夕食を食べていたのだ。


「あははは〜、串を使った本格的なのは、明日やりましょうね」


 という事らしい。

 鉄板の上で音を立てて焼けている肉や野菜がおいしそうな臭いを周囲に満たし、食欲をそそっている。祐一は涎を垂らしそうな顔で鉄板の前に屈み、皿と箸を手に持ってまだ食べれないかなー、と待っていた。

 そんな祐一に佐祐理が微笑みながら釘をさした。


「駄目ですよ祐一さん、生焼けで食べたらお腹を壊します」

「ううう、これが据え膳というやつか」

「あははは〜、こういうのはおあずけって言うんですよ〜」


 何とも楽しげな一時。季節を外れているので自分たち以外には誰もいないから、騒ぎ立てても誰にも迷惑をかけないのだが、さすがに二人では騒ぐにも限界がある。二人は並んで腰を下ろすと、星空を見上げながら食事を楽しむ事にした。

 見上げれば満天の星空。まるでプラネタリウムにでもいるような雲一つ無い星空は例えようも無く美しい。誰かが宝石を散りばめたような空、という表現をしたが、それはこういうのを言うのだろうか。


「綺麗ですねえ〜」


 佐祐理は街では見られない夜空の美しさに感動していた。こういう時でしか見られない美しさだけに、感動もひとしおだろう。祐一も夜空の美しさに魅入っていたが、それ以上に隣で感動している佐祐理の横顔に感動していた。


「佐祐理さん・・・・・・・」

「はい?」


 振り向いた佐祐理の前に、妙に真剣な顔でこっちを見ている祐一がいた。その眼差しに佐祐理が息を呑む。


「あの・・・・・・祐一さん?」

「佐祐理さん、俺・・・・・・」


 祐一はごく自然に佐祐理の肩に手を回した。それがあまりにも自然で、流れるような動きだったので、佐祐理はそれに逆らう事を思いつきもしなかった。


「佐祐理さん・・・・・・」


佐祐理の背後には満天の星空と、輝く月がある。月明かりで闇夜にくっきりと浮かびあがるその姿は、それは・・・・・・切り取った一枚のポートレイト。


「綺麗だ、佐祐理さん」

「あの、祐一さん・・・・・」


佐祐理は、祐一の真剣な眼差しに、心を奪われていた。

聞こえるのは、川のかすかなせせらぎのみ。

この世界中で、ただ二人きりのような、感覚・・・・・・


そして、ゆっくりと二人の唇が、触れ合おうと近づいて行った。







 スターライトスコープを覗いていた美汐はその光景に興奮しまくっていた。


「そこです、相沢さん。さあそのまま一気に!」

「ちょっと天野さん、今一体どうなってるんですか!?」


興奮してる美汐の様子に栞が噛み付くように聞いている。栞の持ってきた双眼鏡は夜では役に立たず、僅かに望遠カメラが役に立つのみだ。赤外線カメラは焚き火のせいでまったく役に立たない。

 だが、望遠カメラでは見えるのは月明かりに照らし出されている佐祐理だけで、祐一は上手く見えない。でも写真はしっかり撮影してたりする。


「うぐぅ、もうボクには二人は止められないよ」


 あゆは処置無しと、少し離れたところで肩をすくめていた。

 だが、ふと背後に人の気配を感じ、振りかえったあゆは固まってしまった。


「う、うぐぅ・・・・・・・」


 その人影は、あゆを見て首を傾げていた。


「どうしたの、あゆ?」







 まさに唇を合わせようという瞬間、佐祐理はいきなりニッコリと笑った。


「あはは、どうも魔法の切れる時間が来ちゃったみたいですね」

「え?」


 祐一は何を言われてるのか分からず、その動きが止まってしまった。その隙に佐祐理は立ちあがり、リュックの方に歩いて行く。


「あの、佐祐理さん?」

「祐一さん、本当のお姫様のご到着ですよ」

「へっ?」


 慌てて周囲を見ると、何と舞が川原の方に降りて来ているではないか。その背後にはなぜか頭を押さえている美汐と栞、ウグウグ唸っているあゆがいる。


「ま、舞、それに天野に栞、あゆまで?」

「うぐぅ、祐一君・・・・・・・」

「あゆは何もしてない、してたのはその二人」


 舞が二人が持ってたものを見せた。それを見て祐一の顔が引き攣る。


「な、お、お前らな〜!」

「えう〜」

「ううう、なんだか理不尽な気がします」


 祐一に怒鳴られて、栞と美汐はなんだか納得いかない物を感じながらも、素直に謝っていた。

 みんながわいわいやっていると、焚き火の方から佐祐理の呼ぶ声がした。


「みんな〜、バーベキューの準備が出来ましたよ〜!」


 見れば佐祐理が串に刺した材料を焚き火で炙っている。たしかあれは明日の予定では・・・・・・・

 ようやく祐一は、佐祐理が全てを知っていた事を悟った。


「あああ、佐祐理さん!」

「あははは〜、舞に今夜ここに来る様伝えたのは私ですよ〜」

「じゃあ何でそんなにいっぱい材料があるの!?」

「これは、三人が妙な事を考えてるって、香里さんに連絡を貰ったんですよ」

「「「「・・・・・・・・・・・・・・」」」」


 祐一と栞と美汐とあゆは顔を見合わせ、どっぷりと重い溜息をついた。どうやら自分たちはまだまだ彼女達にはかなわないらしい。

 その夜はバーベキューを食べながら、みんなで騒ぐだけ騒いでいた。


 そして翌朝。


「私がご飯を作った」


 舞がカレーを作って待っていた。全員分のカレーを見てみんなが驚きの声を上げている。


「ふえ〜」

「おお、カレーだ」

「舞さんって、料理できたんだ」

「え、えう〜〜」

「何処かで見たようなカレーですね」


 ただ一人、美汐だけが首を捻っていた。

 美汐がそれを思い出したのは、最初の一匙を口に運んだときだった。その煉獄の熱さを持ったカレーを口にしたとき、美汐は過去の忌まわしき記憶を呼び覚まされた。


「こ、これは、久瀬さんの!?」

「・・・久瀬に・・・ルーを・・・貰った・・・」


 舞は涙を浮かべて水を口にしていた。どうやら彼女も久瀬のカレーがどういうものか知らなかったらしい。

 後日、久瀬に舞が問い掛けた。どうしてあんなカレーを渡したのかと。彼の答えはこうだった。



「あれが僕の普通のカレーなんだけど」



 彼の味覚は、カレーに関してだけは完全に狂っているらしかった。


 こうして二人の一泊二日の旅は終わった。祐一は別に舞に折檻されたりはしなかったが、まる1日舞に付き合わされてあっちこっち引き回されている。舞を置いて行った代償は、なかなか高いものになったようだ。




Shadow Moonより

ジム改様、SS、たいへんありがとうございます。
祐一と佐祐理さんの2人だけの世界(笑)が形成されていて、とても ほんわかな気分になりました。
こういう内容もまた、新鮮で良いですね。
『ナイチチーズ』……良い響きだ(核爆)。 この三人も良い味を出していて面白かったです。
ラストで、ぶちゅっといかなかったのが多少残念(爆)ですが、心が和む、すばらしいSSをありがとうございました。

これからのSSも、期待しています。

読者の皆様へ
久瀬のカレーネタを詳しく知りたい方は、触覚屋本舗にあるジム改様のSS『水瀬家の晩餐会』をお読みください。


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