いち・討論


 机の上にカップが二つ。

 もうもうと、湯気の昇っていたコーヒーも、今ではすっかり冷えて湯気もたたなくなっていた。

「やっぱ『セレブレイト?』じゃねえか?現代(いま)っぺえし」

「なぁに言ってんのよ。それだってもう、十分古い曲じゃないの。……何年前のだっけ?それ。

 ――ともかく、いい?こういうのは、やっぱ古き良き格式に乗っ取って、堅実に『ウェディング・マーチ』よ。大事な事なんだから」

「いや〜。でもそりゃ、金持ち(ボンボン)のだったら、荘厳かつソウルフルって〜のでもイイけどよ。別に何百人と集まるでもねぇし。だったら、しっとりと恥らう乙女心――って〜か」

 ――さて、北川と香里。この二人が何を熱く討論してるかと言うと……

 場所は美坂家。ダイニング・テーブルの対面に座り、テーブル上に広げた紙には幾つものミミズ文字。読める者が読んで、かろうじて読める程度のシロモノが整然と描き連ねられていた。

 二人のやり取りを横でほけ〜っと観察していた栞には、卓上の紙に何やら『教会』だとか、『入場曲』だとか、『ドレスのレンタルor購入』、『披露宴』と、どうにも、とある儀式を彷彿とさせる単語が確認出来た。

「……北川さん……お姉ちゃん……」

 半ば呆然とした顔のまま、二人を呼び、両者の顔をゆっくり交互に見比べる。

「……結婚するの?」

 その言葉に香里は、瞬時にして顔を紅潮させるとテーブルを叩き立ち上がった。

「バッ!!ぜっ――ったい、違うわよ!!ナニ言って!この娘は!」

 一気にまくしたてられる罵倒。つばが飛ばないのが不思議なくらいだ。一方の北川はニヤケ面に悪戯っぽい笑みを浮かべたまま答えた。

「ちげ〜んだなぁ。これが……」 本心か、最後に「残念ながら」と聞こえないくらいの声量で付け足す。

「え……?でも……これって……?」

 香里の剣幕にすっかり気圧され、要領を得ないままの北川の答えに、頭上にいくつかの『?』マークが飛び交う。二人はそんな栞からスッと意識を逸らし論闘を再会した。

「――で、だったらいっそ『さよなら大好きなヒト』とか。ごく最近ので纏めときゃ問題ないんじゃねぇのか?」

「大有りよ!!ナニ!?その短絡的で安易な発想は!しかも『さよなら』って!!あの二人の式なのよっ!?

――精一杯、考えるのが!私たちに出来ることでしょ!」

「お……おう。しかしな……なら、どうするよ?曲。もうこれだけで一時間費やして、話が止まってるぞ」

「――……これほど、曲の選定で四苦八苦するなんて……」

 ふぅ。と一息ついて二人は、頭を抱えた。

「曲……ですか?結婚式ですよね……」

「んん。ま、そうだね」

 顔を上げた北川の顔つきは、栞に対する時だけ悪戯っぽさを取り戻す。その反面、口から聞けるのは慎重で、歯切れの悪い言葉。栞は意を決して口を開いた。

「『てんとう虫のサンバ』はどうです?」

 ――……渋い趣味である。









結婚行進曲



に・ブルー 



紫煙が満天の夜空へ吸い込まれて行く。

 星々は瞬いている。

「はふぅ……」

 タバコの煙と一緒に重い溜息を漏らす。この際、『あう〜っ』でも『えうー』でも可だ。はたまた作風を変えて『るふぅ』でも問題ないが、『あはは〜〜っ』だけは違う。要は、この鬱な心持を表現出来れば言葉はどうでもよい。

 少しでも、この沈鬱な気持ちを、空へ吐きだせるなら――

(ナニがいけなかったのだろう?)

 心中、誰にともなく尋ねる。もう何十度と。

 確かに、今思うと急いた感は否めない。年不相応な上、祐一はまだ大学生に過ぎないのだ。

 しかし、だからといって、ここまで事態が急展開するなどとは……お釈迦様でも――だ。

 ……まさに『青春』と呼ぶに相応しいあの冬から、四年。祐一は高校卒業をキリに一旦親元に戻ったものの、再びこの町に戻ってきた。電車で一時間程の大学に、幼馴染でもある名雪と通っている。ただ、いい加減祐一もいい年である。まぁ――いろいろと下世話な心理も働いて、今は一人、アパート暮らしをしていた。

 と言っても、名雪はしょっちゅう祐一のトコに遊びに来るし、秋子さんも時折食事やヂャムの配達や、祐一がサボリがちな家事の為に訪れる。祐一も祐一で、なんだかんだで水瀬家に足を運ぶことは少なくない。

 それは――従兄妹であり、叔母と甥の関係上、至極とはいかないまでも、まぁ、在りえなくもない。珍しい事でもないだろう。

 問題は、だ。その関係が今、いとも容易く崩れ去ろうとしている事にある。

 人によっては、物事が白黒ハッキリしてないと納得出来ない者もいれば、あやふやな状態を好む者もいる。

 祐一は後者であった。若い、と言う事かもしれない。

 今や祐一は大手を振って飲酒出来るし、こうして喫煙も出来る。成人(エックス)指定ビデオも借りれるし、ピンクな映画を凝視しても、まぁ――だれも咎めないだろう。

 だが、一般的に『青年』と言う呼称の範囲は三十までを指す。然るに、祐一はまだ、青い。成人=大人と言う解釈は、否定こそ出来ないが、おいそれと肯定出来るものでもないのである。人生六十年。

(ナニが間違いだったのだろう……?)

 気持ちだけは間違いでなかったと言いたいトコだが、うだうだと悩むウチにその自信さえも今、瞬間に何千度もの熱を発する煙草の昇らせる煙と共に……。宇宙(そら)に霧散しようとしていた。

 祐一の左手薬指には、つつましく、遠慮がちに光る、いたく質素な指輪(リング)があった。











 さて。方や水瀬名雪――もとい、水瀬家。

「…………」

 粛々とした室内の空気。居間を薄く線香の白煙が覆い、机の上線香たての奥には白い花瓶に色とりどりの花。

 チーン……鈴(仏壇に添える鐘)が鳴る。

 室内の四人が揃って、花瓶に向かって眼を綴じ合掌した。その行為に宗派的な関係はない。花瓶は位牌の代わりだ。

 シュポンッ――やおら心地よい音。ビール瓶の口から泡が溢れ出す。一転、談笑が室内を支配した。

「うははははははっ!」

 男はグラスに注がれた黄色の液体をグイっと一口。力加減も忘れたかのようにグラスを机に叩きつけ、豪快に笑った。

 相沢 一志(かずし)(仮)。相沢祐一の父で、水瀬名雪の伯父で、水瀬秋子の義兄。その容姿と身に纏う威厳で判断すると、なんとなく『部長』といった印象の男である。何処となしに祐一を髣髴とさせる顔立ちに、見事な口髭を生やしている。

 相沢一志(かずし)は隣で酌をする名雪の肩に手を乗せ、口を開き……

「ぐははははははっ!」

 結局、笑った。「息子をよろしく」とか、父親らしい事を言いたかったのだが、既に言葉にならなかった。

「あはは……」

 名雪は困ったように愛想笑いを浮かべ、空になったグラスにビールを注いだ。

「あんのバカ。

 ……しっかし、こうしてみるとヘンよねぇ?ワタシラ、元から姉妹なのに今度は『親族』になるンでしょ?』

 少し離れて談笑するは、水瀬秋子と相沢 夏喜(なつき)(仮)である。ゆっくりとビールを飲みの、久方ぶりになる姉妹の会話であった。

 相沢 夏喜(なつき)。相沢祐一の母で、水瀬名雪の伯母で、水瀬秋子の姉だ。

 ……つくづく、小難しい関係である。

 なんかいきなし男泣きを始めた自分の夫を冷めた眼で見やる。やはり、彼女もどことなしに祐一に印象が似ている。無論、妹である秋子との方が、良く似てるし、秋子の娘の名雪にもどこか印象を同じくしている。あるいは、祐一と名雪の間に子供が生まれ、それが大きくなったなら、彼女のようになるのやもしれない。娘の場合に限定されるだろうが……

 秋子同様、年不相応な美貌を称える女性であった。その反面、ジーンズに白のワイシャツというラフな出で立ち。実質、性格もラフだ。その昔はよく、『じゃじゃ馬』とか『はすっぱ』とか言われたものだ。

「不思議ですね……」

 秋子がビールグラスを傾け、トロンと下がった瞼、同意する。……根底に染み付いた丁寧な言葉使いはもはや彼女の地であり、例えアルコールであろうと、それを揺るがす事はなかった。

「あ〜のボンクラ息子によく、そんな甲斐性があったモンよ。ま、それを受けちゃう名雪(なゆなゆ)も凄い度胸だけどネ〜!!」

 と、豪快に笑う。ケタケタと。こうして、一志(かずし)の豪快な笑いと比べてみると、彼の笑いはいささか渇いてたように感じられる。思えばアレは、どこか悲しみに浸った『(おとこ)美学(びがく)』めいたモノやもしれない。

 ――背中で泣いてる男の〜(ルパ〜ン♪ルパ〜ン♪)――ってヤツだ。

 本来、それは娘を持つ父親の抱く感傷であるが、ある種、名雪の父親役でもある一志(かずし)であるが故だろうか。

「ねぇ、名雪ちゃぁ〜ん(な〜ゆなゆ〜)?祐一のキメ技は、なぁんていったのぉ?」

 空になったグラスをマイクの代わりに、夏喜(なつき)はじりじりと四つん這い、名雪ににじり寄った。目元が笑っているのに、顔に降りた影は濃く、テコでも動きそうに無いタチの悪さが全身から雰囲気で感じられる。

「あは……あはは……お母さぁん」

 と秋子に助けを求めるが……

「名雪……答えて。祐一さんは……なんて?」

 『――貴方までもか!!』名雪の背景(バック)にそんな文字が浮かんだ……よ〜な気がした。たぶん。

 名雪の左手薬指にもまた、質素につつましく、それでも柔らかに光を反射する指輪(リング)が、あった。





 


 
 夜道に零れる家の灯り。漏れる談笑。

 ……チッと舌打ちした。声で判別()かる。これはあいつらだ!

(もう聞きつけてきたか……クソ)

 祐一は夜道を引き返した。電柱の灯りを、月夜の淡い光からも逃れるように、こっそりと。

 考えに詰まり祐一は秋子さんに相談にきたのだ。

気持ちは間違いではなかった。間違いではなかったが……やはり早った。その結論から、なるたけ穏便に、結婚の延期をそれとなく、名雪に持ち掛けねばならない。大事である。最悪、破綻にも繋がりかねない、大事である。

 故に、独りでは如何(いかん)ともし難たい。だから誰よりも名雪に近く、恐らくイチゴサンデーを除外して唯一名雪を説き伏せられるであろう存在、水瀬秋子の協力は必須であった。

(いけない。非常にいけない)

 当の祐一、名雪を無視して、話だけが先走っている。それは事実だ。

 北川潤、美坂香里はその代表格。とある歌の『しゃしゃり出てくるリボンを付けたてんとう虫』。あるいは『接吻(くちづ)けせよと(はや)したてる虫たち』である。そして今、予測でしかないが、相当に高い確率で――相沢夫妻もそのつもりでこっちにやってきたのだろう。

 暴走して先走る事態が、いよいよ加速してゆく。

 ――あれは、ナンだったろう?その時の記憶は熱に浮かされ朧で、背景すらも不鮮明。記憶に深いモヤがかかって、歯痒いくらい。

 覚えてる事の流れと言えば――

 1・名雪にプロポーズした。

 2・どういう経路か、香里に知られ、話は北川にまで渡った。

 3・香里・北川が共同で式の準備を始めた。(秋子さんが「了承」したが故だ)

 4・今、自分の父母がこっちまで来た。(恐らく式に出席する為に)

(……勢いだった。頭がぼうってなって、熱くなって、名雪が綺麗で……でも、それがいけなかったんだよなぁ……)

まるで自分が名雪の事を綺麗だと感じたことさえも間違いだったかのよう。今の祐一には、自分の中に是非を定める事すら、困難であった。

と――

「あれ?祐一さんですよっ。舞っ!」

「……祐一……」

 声は真後ろからした。驚き、俯いてた顔を上げ、振り返ると――川澄舞・倉田佐祐理の両名もまた、振り返った格好だった。()しくも、危うく普通にすれ違うトコだったのだ。

「あ……れ……?舞?佐祐理さん?どうして?」

「あはは〜っ!バイト帰りなんですよ〜」

「……帰るところ」

 高校時代の先輩だった。……あの冬に出会った。

 風の噂(北川情報網)によると、二人共進学したらしい。片や、舞は一浪の末に今はとある大学で獣医学を学び、方や、佐祐理は舞とはまた違った大学で経済学。二人は今、同居の夢こそ叶えられなかったものの、同じ場所でバイトをしてるらしい。


 
キィコ……キィコ……

 錆び付いたブランコの金具から、もの哀しさすら覚える金切り音。

 とつとつと雑談に興じながら、三人は近くの公園に足を伸ばした。佐祐理がいち早くブランコを発見すると、舞が追従する。二人は並んで、ゆっくりとブランコを揺らし始めた。

 楽しそうには見えないものの、祐一の目には、二人の間になんとなく『幸せオーラ』が立ち上っているようにもとれた。

「で?一体なんのバイトをしてるんです?」

「吉(ピー)家ですよーっ」

 牛丼かい。

 バイトの選択者の判別は容易である。しかし単純な心理だ。別段牛丼屋に勤めたからとて牛丼が食べ放題になるでもなしに……いや、別に食べなくてもいいから毎日牛丼に囲まれて暮らしたい、というなら話は別だが……

「しっかし……舞は確か就職するとか言ってなかったか?」

ブランコに腰掛ながら、佐祐理のように遊ぶでもなく、前かがみな体制、相変わらずの仏頂面な舞に訊ねる。記憶に間違いがなければ、確か祐一はそう聞いた。

「……佐祐理とか……皆が……行けって……。お金の心配は、まだ、私が心配する事じゃないから……って」

 未だ釈然とはしてないのか、歯切れが悪い口調でしどろもどろ。

「まぁ確かに、舞の場合、社会勉強も必要じゃああるけど、その前にもっと常識を学ばないといけないからなぁ――ってっ!」

 ズビシッ! 鋭いキレの手刀が祐一の首筋を強襲した。瞬間、祐一は呼吸を忘れた。

「……無礼者」

「ゲフ、ゴハッ……コミュニケーションだよ。何を今更……」

フン。と、傍目には解らないくらいの微々たる変化。それでも祐一にはそれがブーたれてるのだと解る。

「まぁ……それはそうとして、だ」

 呼吸不全から回復すると祐一はピンと背筋を伸ばして、夜空を仰ぎ見た。それから、斜め下、ちょっと無理のあるふうに舞に視線をやって、こう、訊ねた。

「楽しいか?」

「……うん」かみ締めるように答えた舞の顔は、変わり映えなかったが、祐一にはそれがやはり、満ち足りている笑顔だと思えた。

「そうか……。良かった」

 本心から、そう思う。だが祐一は自覚するでもなく、自嘲の笑みを浮かべていた。





さん・弱酸性(じゃくさんせい)



 栓を捻るとキュっと、首を絞める音。流れ出る水流が絞られ、やがてホースに残った僅かなお湯を滴らせるようになる。

 全身の穴と言う穴から、詰まった気を吐き出す。毛穴が開く感覚。ふと覚える開放感に、いっそ、風呂場の窓を全開に、思う様外気を取り入れたくなる衝動に駆られたが――そこは人が人たる尊厳と羞恥心をもってぐっと堪えた。

 ……本来、狂気とは、何気ない日常の最中に有る。誰だったかが、そう言っていた。今なら頷ける。賛同出来る。

 一糸纏わぬ姿に滴る水分。静かな風呂場にピトンと音を反響させる。白煙がもうもうと立ち込め、空を目指す。

 額と言わず、目元に張り付く濡れた前髪。大きめの鏡には肉付きのよい、男性らしく引き締まった身体があった。

(そういえば……俺のドコが好きなのだろう?名雪は……)

 その問いは、言ってしまえば愚問だ。

 好きと言う感情は一方的で、愛と呼ばれるものは相互的な感情。噛み砕けば、要はどちらも想いがそこにある。とある教師の引用を借りれば、『相』手の『心』を思う、で、『想』いである。

 婚約にまで達した彼らに求められるべきは『愛』であったが、それでも『好き』という感情を忘れて良いものではない。

 ……ここで、愛がどうの、好きがどうのと、杓子定規な定義を語るには、それらの想いは、あまりに個人差に激しく、元より意味が曖昧模糊としている。

 さて、問われるのは、祐一個人にしてみれば、祐一(・・)が、名雪(・・)を、好きかどうか…と言う事にある。

 人の感情の根底にある、最も基本的で単純な感情。それは、何にも変えがたい強さを持つ意思。

「……俺は、名雪が好きなのか……?」

 決意でもなく、揺れる思いで口にした問いは、湿った空気に絡め取られ、落ち、排水溝から流れ出ていった。



 ぴろがごろごろと咽を鳴らす。

 名雪のしなやかな指が、ぴろの快感に繋がる部位で踊っている。

 ふいと現れ、ふいっと消え……いなくなったかと思ったら、また帰って来た子猫。今では彼もすっかり青年だ。いや、もう既に祐一や名雪を追い越している筈だ。

 ……疑問に思う方も多いだろう。

 その『タネ』は新型ウィルス(SARS)を意識して作られた、時代錯誤なヤンキーがしてるような、堅牢なマスクの力である。

 端から見れば物々しい事この上ない姿。滑稽でもある。

 そこまでする必要があるんか?誰彼構わず、きっと尋ねるが――彼女は二つ返事で答える。「あるよぉ〜」と。

 彼女は猫が好きだ。まぁ、犬も好きだが……猫を拒絶してるのは、彼女の身体――体質。天は二物を与えず……そんな言葉もある。絶世とは言わないまでも、整った顔立ち。故にこそ、彼女は人に愛される。穏やかな性格もまた、然りだ。そんな呆けた印象と反比例する、抜群の運動神経。学校の成績=知能とは言わないが、学業成績は悪くなかったし、大学でもなんとかやっている。これ以上は我侭と言わざるを得ない。

 それに、こうして外見的な問題を度外視すれば、今や彼女の第一願望は満たされている。

(幸せだぉ〜……)

 意図的に、思いにして、自分を満足させておく。

 時に胸を過ぎるモノ哀しい気持ち。その一つに、切なさ、と言うのがある。

 一際細い彼女の薬指。銀の輝きが左手の指に収まった日以来、祐一と会っていない。何日会っていないかも、ハッキリ覚えている。

 約束、制約、と言うよりも――ある種の共感。一緒にいよう、と願い合う気持ちを込めた指輪は無論、片時も外さなかった。

「ウナァ……」

 ふと物思いに沈んでいた名雪を、ぴろが現実に連れ戻す。ぴろは動きの止まった名雪の指に顔をすりつけ、続きをせがんだ。

「……うん」気持ち重げに応えるが、指先に集中させるだけの意思はなく、代わりにぴろのクリーム色の身体をキュッと抱きしめた。

 まだ祐一と心一つ、通い合わせてなかった頃は、想像だにしなかった幸せのカタチが今、こうして再現されている。だのに心は切れんばかりに痛むだけ。

 ()いたいよ、と口にしたい気持ちを堪える。感情任せに想いを口にする事が無駄な行為であるのを理解してたし、一方的な気持ちの押し付けが相手の負担になる事を名雪は知っていた。視界の隅に、電話の受話器が神経に障った。

 ぴろが名雪の腕の中で暴れる。階下では、談笑が消え入るように収まり……名雪はぴろを開放すると余分な毛布を取りに、一時期『真琴』という少女に借用されていた、現在物置と化している部屋に向かった。

 ギシギシと闇に埋もれた廊下が軋んだ。





 翌日。

 窓からの陽光は行く筋ものラインを描き、彼女を祝福せんとばかりに降り注ぐ。

 雀の囀り、カラスの鳴き声。睡魔に重い頭に、それらは雑音でしかなく、爽やかな筈の朝は気だるさだけが優先していた。

 結局そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。加えて北川が当然のようにお泊りしてる。

「うっ……」

 どれだけ眠たかろうが、美坂香里の意識は一瞬にして覚醒レベルまで引き上げられ、結果、至って正常な反応として、小さく悲鳴を上げた。天地がひっくり返っても有り得ないとしていた光景が、今、眼前にある。

 無防備な寝顔……は、腕枕に突っ伏す姿から覗けなかったが、ゆっくりと、規則的なようで不規則な寝息。世界が刹那に色彩を反転、それは爽やかで微笑ましく、優しい朝だった。

 彼女等姉妹の両親は、気を利かせて昨夜からどこかへ出かけていた。無用な配慮である。家に栞が残ってて、どうして、そんな間違いを犯せようか?

 と――

「ぐごぉぉおぉぉ……ごぉぉぉぉぉ……」

 擬音のような、咽の奥から搾り出した声。咽を枯れさせてまで、呼吸が旨く行えていないと身体機能が訴えている。

 それは――香里の気分……ふと沸いた、恥らう乙女ナンタラをぶち壊すのに、十分な効果を持っていた。

 ンごんっ!!

 高く振り上げられた、硬く握られた拳。寸分の迷いなく机を打ち据える。北川の身体が撥ね、イビキがおかしなタイミングで途切れた。

 ゴツン、と、解けた腕に見捨てられ、額から机に墜落。「んがはっ……!」ドラスティックな悲鳴があがった。



「ふぁあ〜……ふ。おはよう、お姉ちゃん、北川さん……」

 昨夜、一番最後まで起きていたのは彼女である。クリーム色した、ややダボついた感のあるパジャマで目元をこすり、朝っぱらから元気にいがみ合う二人に何気なく挨拶する。

「な、ん、でっ!貴方がここにいるのよっ!

「仕方ねぇだろう……?気づいたら寝てたんだし……悪かったと思ってるよ」 

 釈明する北川は相変わらずで、まだ意識の覚醒が終わってないのか、半眼に、作ったニヤケ面を浮かべてる。

 朝から煩い。気分が害されたのは確かだ。が、事実を確認せずに憶測だけで事を見過ごした自分の判断が一因してると思えば、なんとか仲裁者の役目を担う気持ちにもなれた。栞は喧騒を横目にキッチンへ向かい、ヤカンに水が残っているのを確認するとコンロにかけた。

 トースター、目玉焼き、コーヒー。質素で在り来たりながらも、それらは三種の神器よろしく、三つ揃うと見事なまでに『朝』を演出する。

 一杯目のコーヒーを、温度を無視して早々に飲み下すと、香里は洗顔に向かった。

「……てっきり、私、北川さんは最初から泊まるんだとばかり思ってました」

「俺もだよ」

「…………流石に、その言動は図々しいです」

「そうさな。冗談だし、そう目くじらたてないでな?」

「…………」

 不思議。よりによって秀才を絵に描いたような姉の彼氏が、こうも掴み所がない終始お道化たような人なのだろう……?いくら、人が他者に自分にないものを求めるとは言え、栞の目には北川はまるで掴み所がなさすぎた。海月(クラゲ)のようだ。

「何処まで進みました?話は」

 チーンと音を立ててトースターがアピールしたのが三十秒前。栞はまず、白いお皿をテーブルに二つ、香里と北川のぶんを並べ、パンをトースターから皿に移す。

「ん?栞ちゃんは食べないのかい?」

「私は後で」

 栞はニッコリ笑って、北川に返答を促した。

「さあ……?これでいいのやら、悪いのやら。素直に業者に頼んだ方が早いとは思うケド……」

「どこまで話をしたんです?」

「まず、式の形式だな。水瀬家に特定の宗教傾向はないとして、まぁスタンダードにウェディング。場所は近場で幾つかをピックアップして、披露宴会場も同様。他には、取りあえず式や披露宴の詳細設定くらいだなぁ。

 ま、結局のトコ、俺らで勝手に決定は出来ないし、秋子さんや名雪、祐一とも打ち合わせだろう。招待客や、引き出物、予算とかもあるだろうし、業者ともかけあって、削れるトコ、改善する箇所、あるいは増やす事柄……」

 つまり結論から、半分は彼らの苦悩は無意味だ、と言う事になる。最終的に業者に任せるとすれば、圧倒的に素人意見な彼らの提案は、削られてゆく一方だろうから。しかし決して無駄とは言い切れない。

「〜〜♪」

 よぉく油の温度を上げて、両手にそれぞれ一つずつ、フォーク・ボールを投げるような手つきで、握る卵をシンクの角に振り下ろし適度な亀裂を入れる。フライパンの上に素早く両手を翳し、指だけで巧みに卵を二つに割る。黄色の核を中心に、白濁色のゲルが落ち、すぐにジュウと音をたてた。

「……で、曲は、どうなったんですか?」

 昨夜、一番最後まで起きていたと言っても、早々に栞は自室に篭っていた。押し殺した話し声が消えた後に、居間の暖房を弱に設定しに顔を出し、それからスグに寝付いたのである。期待を裏切られた落胆と安堵が、それまで意識すらしなかった眠気を最大限に引き出し、意識の即時暗転に一役買ったのだ。

「曲ぅ……?」

 不快そうな口調に視線をやれば、香里は滴る頭髪を、顔を傾け、右肩に下ろして拭っていた。眉根には深い皺が寄っている。

 禁句(タブー)だったのだ、と栞は理解した。地雷を踏んだのである。踏んだ足を上げる事はつまり、地雷の爆発に繋がる。栞は口を噤んだ。自分は踏んだまま地雷を解体する程のスキルを持ち合わせていないし、ましてやその地雷を作ったのは豊富な知識を持ち、時として辛辣な言語レパートリーを要する姉、香里なのだ。レベルの違いは明白だった。到底どころか絶対に、勝てそうにない。

「そんなの……!」

「あ〜……どうどう……」

 激昂しかけた香里の口火を、北川が遮り、なだめた。床に降ろされたテーブル大の紙上のミミズ字は、昨日の倍以上に増え、その字に重なる×の数はほぼ、増えたミミズ字の数に比例していた。

「あ、天気予報の時間です」

 栞はスキを狙って意識した独り言。リモコンを取った。占い、とは言わないのがこの姉妹、この家庭であった。

 運命などというものを受け入れた日には、怒りの行き場は失われ、抗う気持ちも萎えるから。

 ――栞の小さな身体は未だ、抗いようもない理不尽に侵され続けている。変わったのは戦う意思が芽生え、強く、なった事。隔たりは、時が解決したのではない。勇気がもたらした結末の一つだ。

『今日の天気は日本全国に渡って晴れるでしょう』。液晶テレビが言った。ブラウン管と表記できなくなってゆく時代。

 数年前まで信用にすら足らなかったものの、ここ最近の気象予報庁は概ね、賃金に見合った然るべき仕事をしている。

 どこぞのビル屋上からの閑散とした街の映像に、空気のようなしっとりとした音楽。ニュース番組は終わった。

「っと、ヤベ……俺今日は講義が一時限からなんだった」

 北川はハっとし、その割、しっかりと出された朝食は平らげ、席を立ち上がった。香里が席に着いたのは、丁度入れ違いのタイミングだ。

「どうするよ?今日も、来ていいんか?」

「さあ?」

 答えになってない答えを返す。

 外光をふんだんに取り入れるように作られた大きな窓、サッシ。自然光だけでほのかな朝を演出する。居間の電気はつけられておらず、太陽が少し翳っただけですぅ……と暗くなる。テレビの光が眼に見えて目立った。

 聞き取れない歌。日本語ではない。穏やかに、目立ちすぎず、隠れすぎず、流れる曲。リズムは緩やかなテンポを保ち、やがて撥ねるようにバイオリンが幾重にも奏でられる。

 最近そこそこに聞く機会の増えた曲であった。いくつかのCMが使用している。そしてこのCM……とあるシャンプーの宣伝をするこれは、実際の芸能人夫婦が子供への想いを語ってゆく流れになっている。

 それは……雰囲気だけで、想いというものを噛み()めずにはいられなくなるような、優しさに包まれていた。

「――……これよっ!!」

 ガタンと立ち上がり、拍子に椅子が倒れるのも気にせず、香里は叫んだ。

 かくて慌しい朝に、彼らは充足を満たしたのである。





よん・本人達の問題


 
 仲良し四人組。未だ健在。

 同じ大学。名雪と香里は申し合わせ、祐一は適当な動機で、北川は誰かを追いかけて――この大学へ。

 長いような土日祝日を経て、顔を合わせた彼らは心持、ぎこちなかった。ちなみに香里だけは、その場にいなかった。彼女の受ける講義が今日はないせいもあり、香里は折を見て、秋子さんを訪ねる予定だ。秋子さんの仕事の都合は、不思議と訪問者の都合に合うようになってるので、考慮から除外しておく。その代わりに、余計な突っ込みは一切しない。

「久しい気がするな。お二人さん」

 一時限の講義を終え、携帯電話で連絡を取り、意気揚々と向かった待ち合わせ場所。オブジェクト然とした時計の広場の一角に認めた、彼等の表情は優れなかった。いつもの他愛ない時間潰しも一切交わされず、重い沈黙。俯きがちな視線。音をたてないよう意識した、押し殺した呼吸。

 (いぶか)しげながらも、きっかけとばかりに第一声。挨拶をする。

 応えたのはため息交じりの「ああ……」と、上の空な生返事。名雪に至ってはナンの反応も示さない。

 予感した。これは、報告の余地がない。と。

 結局ロクな会話も交わさず、彼らはそれぞれの講義に向かった。







「え?今、なんて……?秋子さん……!」

 案の定、水瀬秋子は自宅にいた。彼女の他に居間で動くものは、窓越しに蝶を捕獲せんと暴れるぴろくらいだ。

 香里は憤りを露に机に身を乗り出した。冷水を浴びせられたかのような、それはとても堪える一言。

「様子を見ましょう、と言いました」

 いつもの穏やかな微笑みで、水瀬秋子は再度、告げた。

「だって……なんで……っ」

「本人達が、決める事ですから。私たちが騒ぎ立てるのはお門違いです」

 笑みであるのだが、その口調は幾許か苛立ちめいた感情を覗かせている。

「……どういう事ですか?」

 食い下がる香里。一昼夜の心労に見合った素敵な提案、と自負していたのだ。理由もなく無碍に扱われて、気分がいい筈もないし、納得出来る道理もない。「どうと言う事もないわ」と、要領を得ない返答を秋子は返す。実際、秋子はこれといった考えは要してなかった。ただ香里が嬉々として結婚式のラフ・プランを語ったのに対して、漠然と危機感を抱いたに過ぎない。線路の遮断機、その警戒音のようなものだ。

 あの音は……非常に良くない。流石に警戒を促すものであるから、人々が危機感を抱かなかったら無意味なのだが……。空襲警報の重厚な音。遮断機の淡々としつつも胸騒ぎを覚えずにいられない鐘の音。勘……で片付けるにはあまりに根拠がなかったが、故にこそ、勘と、直感と呼ぶのである。

 法令上、結婚を可とする年齢は男性が十八、女性が十六となっている。人々の愛に寛大なのかもしれないが、寛大と放任主義は紙一重で近しい。統計ではどうなのか知らないが、早りすぎた勢い任せの決断が幾多もの間違いを生じさせてる事実は見渡せば確かに在る。

秋子は小さく呼吸を整えると、香里に向き直った。

「有り難う。本当に……。でも、私は何よりも、あの二人の意志を尊重したいの」

「だったら……」二人が交わした約束はナンなのだと問いかけかけて、止める。「いえ……」と、言葉を濁し、取り繕う。

 「うなぁ」と、蝶を取り逃がしたぴろが苦々しげに鳴いた。





 



「一体全体、どうしたんだ?暗いぞ、お前……」

 三時限目を消化し、北川は祐一を呼び出した。名雪の相手は後で香里に一任する方針である。

「ああ……?」手前のせいだ、と心中で悪態つくが、次いで脳裏に浮かぶ辛辣な罵詈雑言の汚さに戦慄し、祐一は口を噤む。

「んだよぉ、折角俺と美坂からハッピーなお知らせがあるって言うに。いや……?プレゼント、と言っても良いな。うんうん」

 持って回った表現。その『プレゼント』とやらの内容は想像に難くない。億劫な気分に輪がかかる。

「お前、まぁだ香里の事、『美坂』って呼んでんのかよ……」

 んなチェリーっぷりでよく、人の恋沙汰を引っ掻き回せるな……!苛立ちは募るばかりだ。

「……棘があるな。しかも痛い……」揶揄するような半笑い、北川は済んでのとこで友情を保持した。一言『絶交』と唱えるだけで脆くも崩れ去る友情の薄っぺらさが、彼らの間にあるとしたら、それは長い月日を無為に過ごしてきたか、時間が足りなかったかのどちらかだ。

 昔の人は拳で語ることさえ出来た。それに比べ、物怖じし、言葉を飲み込んでしまう彼らの『友情』とやらは、数値化するとかくも脆弱に映ることだろう。

「んん?どうしたってのさ。言ってごらんなさい、この北川潤に」

 胸に手を当て、ずいと迫る。祐一はそっぽ向いて、拒否の意を示した。

 押せば引き、引けば押したくなるは人の情。……が、北川が抱いたのは悪戯めいた感覚だった。いつも悪化してから気づくのだが、真実大事な時に真摯になりきれない自分を、北川本人は不器用だと認知していた。

 場を掻き回し、強引に笑いに変えようとする道化。どんなに哀しくても、その顔に取り繕ったメイクは笑顔を絶やさない。

 そんな自分になりたかったのではなかった。楽しく有りたかっただけなのだと、後悔の後に思う。

 大事な大事な時、必要なのは勇気だ。迷った時に決断を下す引き金(トリガー)。きっかけに過ぎないそれは、とても強い力を、時として与えてくれる。一度放たれたならば、後は流体力学よろしく、流れか想いかに委ねるだけでいい。

 今が、その時だ……!

「祐一っ!」

 初めて口にする友人の名は、口調でこそ忌々しげであったが、新鮮さと、胸の取っ掛かりが外れる清々しさがそこに。

「……」驚いたような、意外といった顔で北川を眺める祐一の顔。北川は二の句を探すのに手間取った。

 沈黙。なにをどう言えばいいか?勢いに乗り後れ、焦りが生まれた。

「……なんだ?」焦れた祐一が、少しバツ悪そうに訊ねる。

 北川潤は、大きく、息を吸い込んだ。決意を決めると一歩、踏み出す。

 トン……と、軽い衝撃。音がしたかも定かではない。ノックするような、力を抜いた手で、軽く祐一の胸を小突いた。それからニッ、と軽く笑った。

「本当に困ったら、頼ってくれよな?」

 飾り気もない。決め手には程遠い。目だけは、真っ直ぐに祐一と視線を交わしている。

「あ……ああ」

 やっとこさ絞り出すように、やはり抑揚のない声、応えた。北川はふいっと背を向けすたすたと祐一から離れていった。

「きた……潤っ!」

 背後から聞こえたそれは――薄く、強固で、容易には壊せない隔たりがパリンと乾いた音を立て、霧散した音。

「……ありがとな」

「親友でしょ〜?」背中を向けたまま、片手を空向けて挙げる。

 祐一からは見えなくなったトコで、北川は再度深呼吸をした。今更になって、足がガクガクと、音を立て笑った。





 湿気(しけ)っていた。空も、空気も、彼女の顔色も。

「はぁ〜……」

 行動派な彼女、香里は早速、名雪の様子を見るため、こうして講義が終わる時間を見計らい名雪を誘ったのだ。

「どうしたのよ……不景気な顔ねぇ」

 パラつく雨は窓に点々と注ぎ、水滴となっては重力に抗う事も適わずズリズリ落ちて行く。

 窓の外ではせかせかを行きかう人の群れ。頭より少し高い辺りには、色とりどりの傘が咲き乱れる。

 古めかしいジャズが流れ、周囲の他の客のハナシは、盗み聞くことも出来ないし、されることもない。

「さっきまで、すごくドキドキしてたんだよぉ……」

「あら?それって……?」

「祐一と一緒にいたんだけど、なんだか……苦しくて」

「で?今も?」

「うん。苦しいよ……」

 名雪に、その違いは判別出来なかった。切ない気持ちと、紅潮する感情。

「今更何してんのよ……初々しいったら」

 自分の事を完璧に棚に上げた言動である。それは当の本人も自覚していた。ただ、自分は少なくとも彼女よりは冷静に振舞えると思っている。

「……うん」

 名雪の感受性は十分に豊かではあったが、あるいは、それがいま少し過敏であったなら、いつか祐一に(いだ)かれた時の感覚から、その感情を判別出来たやも知れない。まぁ、そうでないのが、彼女の美徳ではあったが――

 一度、黙考してみる。名雪の態度をよく噛み締めて。

 名雪と祐一は婚約に至る関係の筈である。が、目の前にいる名雪の態度はまるきし、恋に目覚めたばかりの少女であるかのようだ。

(私たちは酷い考え違いをしてるのかしら……?)

 彼女等の関係は、自分たちの一歩二歩、どころか十歩は先にあると、香里は認知していたのだ。

「何だろう……?何でだろう……?」懇願する事はなかったが、思わず手を差し伸べたくなってしまう表情だった。

 香里は沸き上がる衝動をぐいっと、最大限の忍耐力を持って制し、冷淡を装う。

「それは、私に聞く事じゃあないわ」

 そう……。二人の問題。それが、解った。

 よく言うではないか。少し古臭いが、『恋の病は お医者様でも草津の湯でも』と。

 再び恋を始める?結構じゃないか。誰もが急ぐこの道を、振り返って、また歩く事が出来る。大切な思い出は、想いは、その分だけ、増える。

人の生が巡る季節に例えられるなら、彼らはまだ、うだるように暑く冷静さとは凡そ無縁な夏の只中に有る。何度と無く、涼しげな夜を経ようと、夏は暑い。そして、熱い。 ちなみにクーラーなぞ、論外だ。

 放っておいてもやがて秋が来て、冬は来る。ならば、春を春として春らしく、夏を夏として夏らしく、今を。

 今を大切にすら出来ぬ者が、果たして明日を大切に出来るか?

いつか、その明日だとて『今日』に変じてしまうのだ。




 
 ルルル……プルルルルルル……

 数度の呼び出し音の後、

「名雪!?」受話器の向こう、緊迫した様子で秋子の声が耳に届く。

 緊張に眩暈すら覚えていた祐一は、『名雪?』と確認する言葉でなければ、危うく秋子と名雪を間違える処であった。

「いえ。祐一です」

「あ……御免なさいね……」

「もしかして、帰ってないんですか?」

 もしかしなくともそうだろう。確認の意味と、話の流れの円滑化の為にそう訊ねた。ちらりとテレビの上のデジタル時計を見やると、既に22時を回っている。相変わらず20時には就寝する律儀な睡魔の権化たる幼馴染にして、この時間にまだ帰宅していないと言う事は異常と言える。

 胸がザワリと、肌がちりちりと、ざわめく。

 自分が探しに出て、思い出の場所とやらで名雪が待つ。そんなドラマチックな場面を想像してしまい、それをナンセンスと心中で失笑する、どこか冷めた自分を忌々しく感じた。

「香里さんにも電話したんですが……6時に別れたそうです」

 6時。換算して18時。既に4時間が経過。あの従姉妹に放浪癖や方向音痴といった特殊能力(スキル)はなかった筈だ。ましてや、問い質して聞いた店名は商店街にあるもので、地の利は間違いなく名雪にある。最近では100メートルを十秒台で駆け抜けるとも聞く彼女ならば、あるいは変質者の類に遭遇しようとも強靭な脚力で逃げ果せると……信じたい処であった。

 それでも不安は拭えない。現にこうしてまだ家に帰らないのだから。第一に、彼女は女の子である。根拠はなかったが、そういった面で心配したりするのが男だ。

 でなくとも、祐一は心配したろう。男がどうとか、女がどう以前に、祐一が、名雪の心配をするのだから。

「探してみます。一時間、いや、三十分置きに連絡します」

 告げると、秋子の返答も待たず受話器を置いた。壁にかけたコートを引っつかみ、一緒についてきたハンガーを乱暴に引き離し投げ捨てる。玄関に殺到し靴を履くのももどかしく感じながら、踵を踏み潰し引っ掛ける。

 ぴ〜ん、ぽ〜ん……ゆっくり押し、ゆっくり離す。そういった行為を連想させるチャイムの音。それは隣でも階下でもなく、祐一の部屋のチャイムであった。

 そのままの勢い、ドアを開く。ゴンと、鈍い音がした。「うにゅ」と聞きなれた声の漏らす悲鳴が聴けた。





 

「心配した」と口にするでもなく、「心配したんだぞ」と恩に着せるでもなく、

 ……祐一は名雪の両肩に両手を乗せ、安堵に、体中の緊張が抜ける感覚に立ち眩みを起こした。

「よかった……秋子さんから電話があったぞ……」

 俯き、名雪の肩に乗せた腕に体重を乗せる。「痛いよ……祐一」言われて、あやうく崩れ落ちそうな自分を立て直す。

「悪ぃ……。まあ、アレだ。上がってけよ」

「うん……」

 やはり覇気……は、彼女には元から無かったが、元気のない声。名雪が応える。

 まず秋子に連絡。受話器越しに、ハッキリ聞き取れる安堵の吐息が印象的だった。

「後でちゃんと送ります」と告げる。秋子は名雪に代わってくれと言い、祐一は素直に従う。

「はい。私。うん……うん。ごめんね……」二、三言葉を交わす。怒られてる様子はない。再度祐一に代わる事なく、電話は切られた。

「なんて?」訊くのに、「ん?大した事じゃないよ」と名雪は軽く首を横に振る。

 夕飯に買ったコンビニ弁当の加熱終了を、レンジが訴えた。

「腹減ったろ?半分こにして喰おうぜ」

「あ……いいよ」再び首を左右に振る。

「だめだ。目の前で食えと、俺にそんな残虐な事をさせるつもりか?お前は」

「あー……」困ったように笑い、「じゃあ、なにか作るよ」。

 普段から秋子の料理ですっかり舌の肥えた彼女に、コンビニ弁当は酷と言うものだろう。祐一も実際、順応するのに一週間を要した。最近のはよく出来てるとは言え、グレードがあまりに違いすぎる。

 名雪はまたぞろ首を左右に振って、唸る。視界に求めたものが見当たらないと悟るや、諦めたか、小さなアパートの質素なキッチンへ向かった。ベージュのタートルセータに、オリーブ色のフレアスカートと言った出で立ちで包丁を握り、笑顔する様は、ちょっとしたサスペンスである。



 下世話な話だが……いや、至って普通な作用、としておこう。

 大なり小なり、好意を寄せる女性の、料理を作る後姿はやはり、心温まるものである。砕けて言えば、そそる。

 エプロンというアイテムについて語るまではしないが……

 祐一も一時、それまでの苦悩を忘れ、テレビそっちのけで名雪の後姿に見入っていた。そして名雪は、その視線に気づいており、なんともやりづらさを感じていた。同時に胸の鼓動は速まるばかりだ。

「痛っ!」

 熱にうなされ、注意を散漫にし、手元を狂わせた。幸いに傷口から流れ出る血は薄らとしており、傷の程度を物語っている。

「名雪!?」過剰反応と言わざるを得ないだろう。素早い事で、祐一はもう既に名雪の左人差し指の傷をまじまじと、手に取って眺め回していた。近づいた祐一の呼吸が、むわっとした熱気が、名雪の指にかかる。

「……よかった……」ほふぅと安堵の息。「消毒液は……」祐一は視線を上げ――

 真っ赤になった名雪の顔は、熱に今にも溶けてしまいそうだった。

「あ……だい、じょ……だか、ら」

 わきわきとグッ・パーして、指の状態をアピールする。そのつもりが、指は悩ましげに祐一の手を這う。

 カチン。二人の指輪が音をたてた。

 ――衝動。

溢れそうな想いを。

重ねた唇に。

言葉にせずに。

 重ねあう。交し合う。


 
 穏やかな愛ではなくて、交し合う『好き』の感情。

 明日を創るのを夢見るのではなく、明日出逢ったお互いに、また恋をする。

 相手の全てを背負うにはまだ幼くて、相手の意思を無視して気持ちを押し付けあう程青くはない。

 絡み合う指のよう、少しずつ、なぞって、絡め、離し、また絡める。繰り返し。

 まるで駆け引きみたいな行為。

 腹の探り合い、と言えば滑稽だが、やがて互いの距離を、果てしなく(ゼロ)に近づける為に、今、一歩一歩を踏みしめる。


 
 漏れた吐息。

 『好きだよ』と口にするではなく、視線を交わした。







えぴろーぐ・パッハルベル


 
――病める時も 健やかなる時も 

楽しい時も 辛い時も

     共に助け 手を取り合い 二人で 歩いて行く事を 此処に誓いますか?――

 『……はい』

 ――汝ら夫婦に 人々の祝福があらん事を――


 
光を受けて星の如く、ちりばめられた輝き。

シルクのヴェールは風に揺れ、恥じらいを現す仄白いピンクのドレス、頬紅(チーク)。燐と胸を張って前を向く決意。

蝋燭の灯りが揺らめく教会(チャペル)の中で、名雪は綺麗だった。



結局、『約束』が施行されたのは十二分に月日が流れた後の事。

 小さな教会で、質素に式を挙げた。披露宴もなく、式の終了後は――直行である。

 呼ぼうにも、音沙汰のない相手も少なくなかったが、皆無ではない。

 ――香里と北川のプランは一部に限られたが、実施に至る。

 その一つが……



 軽快なバイオリン多重奏による調べ。

開け放たれた扉の向こうは光に満ちている。

曲に負けずと、喝采が起こり、米粒(ライス・シャワー)が舞う。

『パッハルベルのカノン』。

「ほれ、名雪」

 祐一が急かす。「わかってるよぉ」と拗ねた口調。群れに群れる一団に、名雪は背を向けた。

「香里に投げてやれば……?」こっそりと祐一が耳打ちするも、背を向けた格好で、それは無理と言うものだ。

 「がんばる」と名雪は鋭意努力を誓ったが、結局寸前でそれは卑怯だな、とやめた。

 ――貴方の想いが、いつか、誰かに届くといいね?――願い、背後へ放った。

「えいっ!」



節操のないようで、際どくもセンス良く、色とりどりの花を纏めた花束(ブーケ)が――

綺麗な弧を描き、空へ――

よく晴れた、雲ひとつない日の事だ。





「んおっしゃ!ゲットォ!」

ちなみに、あの日水瀬家を訪れた相沢夫妻は、命日に訪れただけであったと言う。

残念ながら、チケットの都合で出席は適わなかったそうな……

「わっ!?……あ……」

「あんの、バカ……」

「次の花嫁は北川クンだね〜」

 ――その顛末たるや、最早語るるに及ばず。 である。







 あとがき。



 修正前のは随分とルビ振ってましたが、こうして削ってみると、スッキリしつつも見辛くなったような?

 さて、直球勝負な今作ですが、まぁ、相も変わらず誰かの眼に止まる事も少ないでしょう。そうと解ってても、つい描いてしまう当たり、既に悲しい中年気分です。独り言気分、です。


 
解説参りましょう。さてはて、私の同世代の方ですと、恐らく今作に用いた引用の元ネタを知ってる人はいるでしょうかね?例えば――『てんとう虫〜』トカ。一様私は歌えたりします。全部は無理ですが。

 『ルパン』……は、大丈夫でしょうかね。

 『吉@家』は……ノリです。勢いです。舞ですし。

 後は……『今がソノ時だ』とか。あれはちょっと前にOVAで出た『真・ゲッター』初期の主題歌から。

 最後は、タイトルについて。です。

 当初、物語のタイトルには、そう……『カノン』を考えておりました。私にとって、近作は『Kanon』の終着点の一つである、その意であると同時、エピローグに使用したと、そのままな意味で。

 ですが、最終的に、現在のよう、『結婚行進曲』と至りました。何故なら、物語の大半を占めるのは、結婚へ至るまでの、祐一、名雪、北川、香里。四人の葛藤でもあるからです。それを、『行進』と解釈し、『結婚』へ続く『行進』の歌と。


 はぁ……何か、今作に至ってはイロイロと七転八倒した気もしますが、まぁ、こっちのハナシ、です。

 
  では、失礼をば。御目汚しして下さった方に、最大限の謝意を込めて。

03/05/14 修正版


Shadow Moonより

結婚式の準備に、周りの知人達の方が意気込んでしまい、当人達は醒めてしまう事ってありますよね(苦笑)。
知人達は良かれと思ってやっているけど、当人達は式が挙げられれば充分なのに。 それに凄く疲れるそうです。
そして、結婚前は緊張と不安で情緒不安定になりやすく、周りからのプレッシャーと合わさって大変なことになるとか(汗)。
さてさて、今回は祐一君と名雪ちゃんのハラハラしたSSをありがとうございました。
鬼様の心理描写の見事な作品は、読んでいてとてもためになります。 これからもよろしくです。

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