遠い記憶の私へ 前編
「舞、起きてよ舞」
……誰かが私を呼んでいる。
うっすらと目を開けると、目の前には女の子が立っていた。
視界に入ったのは、ワンピースを着た小さな体と細い足。……顔は見えない。
こういうときは上を向けばいいのだけど、なぜか視界は動かせなかった……。
……体が動かない。まるで長い眠りから覚めたみたい……。
「あっ! やっと起きた。よかった……」
驚きと安堵の入り混じったような声。
その声は耳に入らない。頭に直接響いてくるようだった……。
「えっと、はじめまして、かな。こうして話すのは初めてだよね」
……誰だろう。
知ってるような知らないような……。
「……誰?」
私はどこにいるかわからない声の主に問い掛けた。
たぶん目の前にいるだろうけど、顔が見えない……。
「あたし? あたしは、まいだよ」
まい……私と同じ名前……。
「そう、同じ名前」
……心を読まれた……。
「舞の考えはわかるよ。だってあたしは舞の力だから」
「力……それじゃあなたが魔物……」
「うーん、そうとも言うね。その代わり、あたしは舞のお母さんを助けたんだけど?」
……そうだ、この力のおかげでお母さんは助かった。
あのときのことははっきり覚えてる。
「本当に全部覚えてるの? まだ忘れてることがあるでしょ」
……忘れてること?
それは思い出さなきゃならない?
「思い出して。祐一と初めて会って、そして別れてから何が起きたのか。今ならきっとわかるよ」
言われるままに私は記憶を探り始めた……。
夢を見てた気がする……。あるいはこれが夢なのかもしれない……。
背景はぼやけててよくわからない。
でも今まで私は眠っていた。これは確かだ。
さっき確かにあった場景を、もう一度頭に浮かべ始めた。
一つ一つの思い出を丁寧に……。
祐一と別れた翌日、あたしはいつもの麦畑に一人立ち尽くしていた。朝からずっと。
祐一がくる前は一人で遊んでたけど、今は遊んでない。
ボーっとしてるんじゃなくて、人を待っている。こないはずの人を。
きのう別れの挨拶をしたばかりなのに、あたしも別れを告げたはずなのに。
あたしは何を期待して待ってるんだろう……。
でも他にやるべきことはなかった。
祐一は唯一の遊び相手だから、他のみんなは誰も遊んでくれない。
あたしのすべてはお母さんと祐一だけだった。
そう思ってたけど、あたしの勝手な期待だったのか。祐一も他の人たちと同じだったのか。
あたしにもわからない。だから答えを確かめるために待ち続けてる。
もしかしたら気が変わって来てくれるかもしれない。そんなことを考えて……。
昼が過ぎて夕陽が姿を見せるころ、あたしはまだ待ち続けていた。
――待ってたってこないよ
心の中に誰かの声が響く。やっぱり自分でもわかってるんだ。
でもあたしは待つのをやめなかった。
祐一は特別だから、一緒に遊びたいと思えるのは祐一だけだから。
だから祐一がいなければどこで何をしても同じだ。
同じ孤独なら、待ってた方がいい。その方が希望を持てるから。
いつかきっと来てくれる、そんな叶わない希望を……。
――祐一を呼ぼう。きっと戻ってきてくれるよ。
また心に誰かの声が響く。
祐一を呼ぶってどうやって? あたし連絡先を知らない……。
でも呼べばきてくれるって誰かが言ってるんだ。じっとしてられない。
あたしは麦畑を飛び出し、電話ボックスを目指して走っていった。
電話ボックスでコインを入れたあたしは、そのまま動かなくなった。
祐一の連絡先は訊いてない。ここからどうしよう……。
――なに迷ってるの。さっさとボタンを押して。
あたしは覚悟を決めて電話番号を押した。
でたらめに押したものだ。普通ならつながるはずがない。
でも受話器からは呼び出し音が鳴っている。つながったんだ……。
急にドキドキしてきた。まさかつながるとは思わなかったし、何て言えばいいんだろう……。
呼び出し音がしばらく鳴り続けるけどなかなか出ない。
少し経ってから誰かが電話に出た。
「はい、相沢です」
……間違いない、祐一だ。声を聞けばわかる。
きっと今は部屋に一人で、大人の人を呼んでも誰もこないから仕方なく出たんだろう。
「祐一? あたしよっ」
「……舞? どうしてここが……」
祐一は戸惑っていた。
連絡先を教えてないのにどうして電話できるのか聞いている。
あたしにもどうしてだか説明できない。
でも今はそんなことより祐一を呼び戻す方法を考えないと……。
「ねぇ、助けてほしいのっ」
「どうしたのさ」
「……魔物がくるのっ」
……自分でヘタな嘘だと思った。
いくら子供だからってバレるに決まってる。
でも一度言ったからには引っ込みがつかない。あたしは嘘をつき通すしかなかった。
「だから守らなくちゃ……ふたりで守ろうよっ」
でも祐一はやっぱりだまされてくれなかった。
はじめから嘘だとわかってるようで、あたしの必死な訴えを軽く流している。
「待ってるから……ひとりで戦ってるからっ」
そう言って一方的に電話を切った。
祐一は、戻ってくるとは言ってくれなかった。
それなのにどうしてあたしは自分から電話を切ったんだろう。約束は得られなかったのに……。
たぶん拒否の言葉を聞きたくなかったんだろう。
戻ってくるとは言われなかったけど、こないとも言われなかった。
拒否される前に電話を切れば、信じることはできる。
一方的にかわした約束、でも祐一は心配になって戻ってくれるかもしれない。
絶望に晒されたくなかった。淡い希望を持って待ち続けたかった。
自分でもわかっていた。それは現実逃避だということを……。
あたしは電話ボックスの中に座り込んだ。祐一にもらったウサギさんの耳が力なく垂れていた。
翌日、昼間の太陽が照らす中、あたしは麦畑で祐一を待っていた。今日は来ないかもしれない。
それでも明日来るかもしれない。明日がだめでも次の日がある。それがだめでもその次が……。
そうやって希望を持っていたかった。
家に帰ることはできなかった。
道端を誰かが通るたびにあたしは麦をかきわけて確認した。
魔物なんて口からでまかせなのに、祐一が戻ったときのために木刀を買ったあたしは、自分でおかしくて、悲しかった。
「あ……」
あたしはその姿を見て、唖然とした。驚きのあまり声が出ない。
無理もない、いるはずのない人が、きてほしいと願っていた人がそこにいたんだから。
「舞、元気だった?」
いつの間にか夕陽が出ている。
その人は夕陽の光を浴びて、赤く輝いていた。
きれいだった。あたしはその姿に見とれていた。
「うん……祐一くんは?」
あたしはひとつひとつ言葉を選んで話していた。
初めて会ったときのように、くん付けしている。
「もちろん元気でやってたよ。だからこうして戻ってきたんだ」
「……また、一緒に遊べる?」
「魔物がきたんでしょ? ふたりの遊び場を守らないと」
「あはは、そうだね」
あたしは少し吹き出して頷いた。自分で言い出したのに忘れてた。
頭の中では、居もしない魔物とどうやって戦うか困ってる。
それは嬉しい悩みだった。
「舞、その木刀」
「あ……」
あたしは右手に握ってある木刀に目をやり、一瞬考えたあと、祐一に差し出した。
「ごめん、祐一のぶん買うの忘れてた。これ祐一が使って」
忘れたのも無理はない。目的は魔物と戦うことじゃないんだから。
それに祐一がこんなすぐに戻ってくるなんて信じられなかったから。
あたしは、祐一が戻ってくるまでいつまででも待つつもりだった。
心の中にある疑念を振り払いながら、孤独と悲しみに耐えながら、自分が一方的に交わした約束を守ってくれると信じて、くるはずのない人を待ち続ける……。
でもそんな日はこなかった。祐一はすぐにきてくれたから。
「舞、君の武器はそれ?」
「うん」
「僕のとずいぶん差があるよ」
祐一はあたしの持ってる武器と、自分の木刀を見比べていた。
祐一のはただの木刀だけど、あたしのは銀色の刀身が光っていて本物の剣みたいだった。
この剣は街の商店街にある骨董品屋でもらった。
きのうの帰りに祐一の分の武器をさがしに商店街を歩いてたら、店先にこれが並んでいた。
あたしが物欲しそうにながめてると、店主のおじいさんがタダでくれた。
あたしみたいな人に使ってほしいって。だからこの剣はあたしが使うことにした。
祐一には悪いけど木刀でがまんしてもらおう。
どっちもオモチャにはちがいないんだけど。
「気にしないで。祐一は男の子なんだから、あたしを守ってよ」
「舞のほうが運動神経いいんだけど。なんだか僕が守られる側の気がする」
情けないなぁ、男の子なのに。
強がりでも守ってやるって言ってほしかったな。
「だったらどっちが強いか試してみる? 魔物もきてないみたいだし」
「危ないよ。隠れん坊ならともかく、これじゃ怪我するかも」
「じゃあ隠れん坊やろうよ」
あたしはそう提案した。
祐一と遊べるなら何でもいいし、それに待ってても魔物なんてこないから。
魔物がこないことは祐一には言っちゃだめなんだけど。
「……そうだね。今日は遊ぼうか」
あたしは胸が熱くなる感覚があった。
祐一と遊ぶのは三日ぶりくらいだけど、久しぶりな気がした。
「あ……」
そう言った瞬間だった。
あたしと祐一の間を突然何かが駆け抜けていった。
あたしたちは一瞬呆然とする。
その直後、祐一が木刀を持ってる右手の甲から血がにじみ出ていた。
かすり傷みたい。カッターで間違えて指を切ったときみたいだ。
「祐一っ!」
「あ、大丈夫。魔物がきたみたいだね」
「う、うん。そうだね」
妙に落ち着いている祐一とは対照的に、あたしは戸惑っていた。魔物って本当にいたんだ……。
そこには確かに存在した。
夕陽に照らされた金色の麦畑に、不自然な黒いシルエットが浮かんでいた。
そこだけが光を拒否しているかのように……。
「どうしよう、これじゃ遊べない」
「何言ってるんだよ。ふたりでこの場所を守るんだろ」
祐一はそう言って木刀を構えていた。
そうだ、これはあたしが言い出したことなんだ。ふたりでこの場所を守るって。
祐一はそのために戻ってきてくれたんだ。
「そうだね、がんばろう」
魔物がいたことに疑問は持たなかった。
あたしは常識的にありえない力が使えるんだから、いるわけないとされている魔物がいてもおかしくない。
祐一もこんな状況であたしを避けずにいてくれる。それが嬉しい。
「あ、祐一」
魔物は消えていった。
正確には消えたのではなく、どこかへ帰ったのかもしれない。
目の前にある黒いシルエットがだんだん薄くなって、気がつけばそこにはいつも通り、麦を照らす光があった。
「どこへ行ったのかな……人がいる街に出て行ったら危ないかも」
あたしは少し危機感を感じて祐一に呼びかけたけど、祐一はあくまで冷静だった。
「大丈夫、魔物はここにしかこないよ。僕たちがいるこの場所にしか」
「どうして、あたしたちが一緒じゃないと魔物はこないの?」
あたしのこの問いに祐一は答えなかった。
考えてみれば祐一にそんなことがわかるわけないか。
あたしにもわからない。魔物って何なのかな……。
わかることは、魔物がいれば祐一も一緒にいてくれることだ。
魔物がいなくなれば祐一もどこかへ行っちゃうのかな……。
だったらあたしは魔物にいてほしい……。
「暗くなってきたし、そろそろ解散しようか。魔物もいないし」
祐一に言われてあたしも暗くなりはじめてることに気づく。
「そうだね。それじゃまた明日」
明日もきてくれるよね?
そんな願いをこめて言った。
「うん。また明日」
祐一は期待通りの返事をくれた。
それから二週間ほど経っただろうか。
祐一は毎日あたしのいる麦畑へきてくれた。
あたしが麦の中で待っていると、祐一は夕陽をバックにどこからともなく現れてくる。
あたしはそんな祐一の姿に慣れてきた。
待っている最中に不安になったり、やってきたときに安堵のため息をつくことはなくなっていった。
祐一は必ずくる。心からそう信じられるようになってきた。
魔物は毎日くるわけではない。
これまでで通算五回。三日に一度くらいのペースか。
この二週間であたしは体中の神経が研ぎ澄まされていくのを感じた。
音も立てずにやってくる魔物の気配がわかったり、祐一が遠くから走ってくる足音が聞こえたり。
特にそういう訓練をしたわけではないし、そもそもそういった分野を鍛える方法など知らない。
あたしは特別な力があるんだし、今さらそんなことを不思議がったりはしないけど。
祐一もきっとそう思ってくれてる。ただ人より勘が鋭い普通の女の子だって。
魔物との戦いでは祐一よりあたしの方が強かった。
もともと運動神経はあたしが上だし、最近は特に成長してるみたいだから。
武器もあたしが持ってる剣の方が強かった。
もちろん偽物だから、斬るというより叩くといった感じだけど、刀身の長さも硬度も木刀よりずっと優れている。
……今少しだけ足音が聞こえた。いつもより小さい足音、近くに祐一がいる。
「待ってた?」
「ううん、そろそろくると思った」
「ちぇっ、せっかく足音立てないようにしてたのに」
祐一は無意味な遊びをやっていた。
「魔物は今日は来ないみたいだね。隠れん坊やろうよ。今度こそ僕が勝つから」
祐一は魔物が来ないのを最初から確信してるみたいだった。どうしてだろう。
あたしも気配はわかるけど、あくまでも『もうすぐ来る』というときに感じる。
今日は来そうかどうかなんて最初はわからない。だからいつ来てもいいように毎日この場所で待ってるんだ。
魔物が誰かに害を与えないとも限らない。
最初は祐一と一緒にいる口実だったけど、今は魔物を倒すことに使命感のようなものを感じていた。
「そんなのわかるの? 魔物が来ないなんて言い切れる?」
だからあたしは反論していた。
祐一の方から遊ぼうと言ってる。少し前のあたしなら喜んで賛成したけど、魔物を放り出して遊ぶのは抵抗があった。
「何となくそう思ったんだけど……ごめん、舞と遊びたかったんだけどこれじゃ目的が違うよね」
祐一はそう言って木刀を構えた。
……あたしはわがままだ。
祐一と一緒にいたいから嘘をついたのに、その嘘を信じてくれたのに、今度はあたしが祐一の頼みを無下にしてる。
このままじゃ祐一とはあまり遊べなくなる。
魔物がもう来ないと感じたあと、つまり麦畑で遊べる自由時間は少ないんだ。
「ねぇ祐一」
「うん?」
「今度祐一の家に案内してよ」
初めてだった。家で遊ぶよう誘ったのは。
あたしを避けずにいてくれる祐一だからこそ誘えたんだ。
「どうして」
「だって、祐一と一緒にいたいし。たまには家の中でもさ」
祐一は歩いてそばに寄ってくると、くしゃっとあたしの後ろ髪を撫でた。それにつられてウサギさんの耳がふわふわ揺れている。
「心配しなくても、僕はずっと舞のそばにいるよ」
あたしは嬉しかった。
祐一のその言葉を信じていた。
言葉の意味を考えたりなんてしなかった……。
あとがき
どうも、作者です。
今回は前後編に分けました。
理由はただ単に長いからであって、ストーリー上は何の意味もありません。
舞の一人称がうまくいってるかどうかが不安です。
ナレーションでまで無口にするわけにはいかないので難しいですね。
Shadow Moonより
Natsu様からの投稿第二弾を頂きました〜
今回は舞ちゃんの過去に隠されたお話。 いったい何があったのか、凄く気になります。
祐一君と一緒に遊びたいのに、魔物と戦わなければならない使命感を持ってしまった舞ちゃんの心の葛藤が良いですね。
この後、どんな展開が待っているのか?
後編も楽しみにしています。
Natsu様へのメールはこちらへ。
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