遠い記憶の私へ 後編
翌日、麦畑の麦はなくなろうとしていた。
大きな農業用の機械で麦が刈り取られていく。
金色の大きな麦は姿を消し、あとに残るのは残骸だ。
今はちょうど収穫の時期だったから、そのうち遊び場がなくなるのはわかっていた。
祐一はもうこなくなっちゃうかな……魔物はどうなるんだろう……。
あたしは消えていく麦の海を前にそんなことを考えていた。
右手にはしっかり剣を持っているが、このままでは使う機会はないかもしれない。
「もうここで遊べなくなるね」
振り返ると、いつの間に祐一が立っていた。
考え事をしていて、いつの間にか昼を過ぎていた。
「遊び場がなくなるけど、仕方ないよね。ここはもともと農家の人の土地なんだから」
「うん……」
あたしたちがここで遊んでたのは、背の高い麦があたしの姿を覆い隠してくれるからだった。
悪魔と呼ばれて、人に避けられ続けたあたしは、人目につかないところで遊ぶしかなかった。
ここ数日は楽しかったけど、現実を忘れたわけじゃない。相変わらずあたしの友達は祐一しかいないんだ。
「祐一」
麦畑をじっと見ていた祐一が、あたしの呼びかけに振り向いた。
「祐一はどこに住んでるの?」
「えっと、あっちの方」
祐一はいつも来ている方角を指差した。
「祐一の家で遊べないかな……ここはもう入れないし、人のいるところには行きたくないから」
「舞の家は?」
「あたしの家は何にもないから。祐一の家に行きたい」
祐一はもう一度麦畑の方を見た。
その顔はどこか心配してるように見えた。
「魔物は大丈夫かな、誰かが怪我したりするかも」
「大丈夫だよ。……それに今麦畑に入ったら怒られるよ」
「だったら注意するよう呼びかければ……」
「何て言うの? 麦畑に魔物が来るから気をつけてくださいって? 誰も信じてくれないよ」
そう、誰も信じてくれない。
魔物の存在を知ってるのはあたしと祐一だけなんだ。
そのあたしたちが魔物の居場所に入れないならどうにもならない。
祐一は何か迷っていたけど、やがてあたしの方を向いた。
「わかった、僕の家へ行こう。今ちょうど別荘に来てたんだ」
別荘か、何だかわからないけど面白そう。
あたしは祐一の後ろについていった。
ウサギさんの耳がぴょこぴょこと揺れている。
途中で人の多い商店街を通っていった。
街の人たちはあたしたちに奇異の視線を向けている。
正確にはあたしたちではなく、あたし一人だ。
原因はあたしの力か、それともウサギさんの耳なのか。
どちらにしろあたしはもう慣れちゃったけど、一緒にいる祐一まで変な目で見られてる……ごめんね祐一。
祐一は周りの視線を気にする様子もなく、商店街を出て行った。
そのまま道を歩いてすぐのところに家はあった。でも……。
その家はどこかおかしかった。人のいる気配がしない。
それどころか、人が住んでいるような形跡もない。
窓は完全に閉め切っていて、カーテンがしてあり、夕方になろうかというのに電気がついていない。
「祐一、本当にここなの?」
あたしは祐一の方を向くと、祐一は青ざめた顔をしていた。
目の前にあるものが信じられないかのように。
「そ、そんな……」
「祐一?」
祐一は家の玄関へ走っていきドアを開けようとしたが、カギがかかっている。
今度はドアを乱暴にノックした。
「お母さん! 誰か開けてよっ!」
祐一はドアを叩きつづける。
あたしは祐一の体を押さえつけて止めた。
「やめて祐一っ!」
祐一は少しの間、抵抗したけどすぐに止まった。
息切れして呆然と立っている。
目の前にある建物は確かに祐一の家のようだ。
でも誰もいない。まさか祐一に内緒でどこかへ行った? そうは思えないけど、でも……。
「嘘だ! こんなの嘘だよ!」
見ると祐一は涙を流しながら叫んでいた。
「祐一、落ち着いてっ! 何があったかちゃんと説明してっ!」
祐一に前を向かせたけど、一向に落ち着かない。
「ここは僕の別荘なんだよ。お父さんもお母さんもいて……僕も遊びに来てて」
祐一はあたしにしか聞こえないような声で話した。
そこで何かに気がついたようにハッとする。
「そういえば僕、夏休みの間に遊びに来てたんだ。もうすぐ学校が始まる……なんでここにいるんだ?」
「祐一?」
「僕は家に帰ったはずなんだ、舞の電話がきたあと。なのに何で……」
祐一が何か呟いている。
「舞、僕はどうしてここにいるの?」
その目にはあたしの姿は映ってなかった。
ただ呆然と目の前の空間を見つめている。
あたしは祐一の問いに答えられなかった。あたしにも事情が飲み込めなかったから。
祐一は突然その場から走っていった。
来た道を引き返している。あたしは後を追っていった。
絶対見失わないように走っていった。
このまま姿が見えなくなったら、二度と会えなくなる気がしたから。
ウサギさんの耳を揺らしながら走り続けて、たどり着いた場所はあの麦畑だった。
もう麦は刈り終わったらしく、そこにあるのは畑の土だけだった。
広い麦畑。そこにいるのはあたしと祐一だけだった。周りに人はいない。
……いや、二人だけじゃない、他にもいる。
背筋に寒気が走った。あたしはいつもの気配を感じた。
そして次の瞬間、魔物の黒いシルエットが、あたしの隣りにいる祐一の体を貫いていた。
あたしはその過程を眺めることしかできなかった。
音はしなかった。いや、実際はしたかもしれないが、あたしには聞こえなかった。
目ははっきりと見えていて、まるで無声映画のようだった。
祐一が腹部から血を出して倒れる様がはっきりと見えた。
あたしがつけていたウサギさんの耳は、血を浴びて赤く染まった。
赤い夕陽に赤い光、そして赤い祐一……。
広い麦畑の土の上に祐一が倒れる。そこであたしは我に返った。
「祐一!!」
祐一は苦しそうに息をしながらもこっちを見る。よかった、生きてる。
「動かないでっ! すぐ病院に連れて行くからっ!」
祐一は黙って首を振った。
……そんな、もう助からないってこと? 嘘でしょ。
「あはは、バカだよね僕……ここにいちゃいけないのに……」
「しゃべらないでっ! 絶対助けるからっ!」
祐一の体からは血が大量に流れている。
あまり詳しいことは知らないけど、出血が多すぎると死ぬって聞いたことがある。
あたしから見ても祐一は死ぬって容易に理解できた。
嫌だ、そんなの認めない。でもどうすれば……。
あたしはその場から動けなかった。
「ねぇ舞、僕の体……まだあったかいかな……」
あたしは祐一の手を強く握り締める。
「大丈夫だよ……祐一……暖かいよ……」
「そう……」
そのときの祐一は確かに笑っていた。
あたしはいつかと同じように祈った。祐一が助かるよう強く祈った。
でもあたしの祈りは届かなかった……。
お母さんを助けた力は、祐一を助けることはできなかった……。
どれくらい経っただろうか。その間何をしてただろうか。
辺りがすっかり暗くなった中、私は一人で座っていた。
後ろには魔物の気配がする。
ふと地面に目をやると、剣が落ちている。まるで誰かが用意したかのように。
私はそれを拾って、魔物を斬りつけた。
偽物の剣で叩いた感触じゃない。金属がぶつかりあう音が響いた。
手応えはある。魔物は手負いになった。
私はとどめをさそうと剣を水平に振ったが、寸前のところで魔物は姿を消した。
……逃げられたか。
私はあの魔物に大切な何かを奪われた。それが何なのかは思い出せない。
でも魔物に対する憎悪ははっきり覚えている。これだけ激しい感情が気のせいであるはずがない。
私は魔物に何かをされたんだ。
心の中で憎しみの炎が燃え上がっている。
絶対に許さない……必ず倒す!
「思い出した?」
その問いに私は何も答えなかった。
目をじっと見開いたまま身動き一つしない……。
不意に涙が頬を濡らし、私はそれを手で拭った。思い出の中の祐一が死んで、私は泣いてたんだ。
「祐一が消えたショックで何もかも忘れちゃったんだよ。男の子の名前も、魔物と戦う理由も」
男の子の名前はもっと前に思い出してる。
最後に魔物と戦った日、一緒にいた人がそうだったんだ……。
でも魔物と戦う理由は……。
「考えたことなかった? どうして自分は魔物と戦うのか」
私の考えを見透かしたかのように言った。
……見透かして当然か。もともと私の一部だったらしいから。
「最初に魔物の存在を口にしたのは、祐一に戻ってほしいから。結局本物の祐一は戻らなかったんだけどね。あの祐一はあたしの力と、舞の弱い心が生み出した幻だった」
そういえば最後の祐一は様子がおかしかった。
……いや、おかしいのは祐一じゃない。
自分がいないはずの場所に突然呼び出されたら誰だって混乱するか……。
「で、次は祐一と一緒にいるために魔物という共通の敵を呼び出した。最後は、名前も忘れた男の子の敵討ち。……魔物と戦う理由がいつの間にか摩り替わったの」
そうだったんだ……。
知らなかった、いや、思い出せなかった……。
もっと早く思い出してれば、佐祐理も傷つかずにすんだかもしれないのに……。
「どうして思い出せなかったかというと」
……また私の思考を読んでるみたい。
「舞の心が弱いからだよ。祐一が目の前で消えていくのを思い出すのはあまりにも辛すぎた。舞は悲しいお話は嫌いだから」
…………。
「あたしはわかってほしかったの。魔物もあの日の男の子も幻だって。だから魔物を、あたしを憎まないでほしい。あたしは舞と一緒じゃないと生きられないから」
……どうして今思い出したの?
私は無言で力に問い掛けた。
「それは、祐一や佐祐理がいるからだよ」
「え……」
「舞が戦いをやめて、三人の穏やかな暮らしが続いた。魔物への敵意も薄れていって、それでやっとあたしの呼びかけに応じてくれた」
ずっと私に呼びかけてたの……。
私が戦ってるときも……。
「やっとあたしを受け入れてくれた……ずっと呼び続けて疲れたけど」
そう言って笑った。
顔も見えないし笑い声も聞こえないけど、笑ったように思えた。
「長かったよ、十年間……舞もあたしも辛い日々が続いた。目が覚めたら、あたしはこれから舞と一緒に生きていける」
目が覚めたら……。
やっぱりここは夢だったんだ……。
現実には……祐一や佐祐理がいるよね。
「それじゃ最後に自己紹介。あたしは、まいだよ」
女の子はしゃがんで私の顔を覗き込んだ。
いや、違う。自分の顔を私の視界に入れたんだ。
やっと見えたその顔は、確かに子供のころの私そのものだった。
背中まで届く長い髪。そして祐一がくれたウサギさんの耳……。
「私は舞、川澄舞……。よろしく」
よろしくという挨拶は、確かに私がまいを受け入れたという証だった。
「舞、どうした」
声が聞こえる。聞きなれた声。
さっきとは違う現実感。リアルな背景。そして目の前にはリアルな祐一の顔……祐一だ。
一人でソファーに横になってたら眠ってしまったらしい。
毛布がかかっている。きっと祐一だろう。
「……どうもしない」
「悲しい夢でも見たか?」
悲しい夢……。
頬に手をやると、涙がにじんでいた。
夢の中で泣いていたんだ、はっきり覚えてる……。
「大丈夫……」
それだけ言って上体を起こした。
三人で暮らしたアパート。窓からはオレンジ色の夕陽の光が差し込んでいた。
祐一はあのときと同じように夕陽をバックに背負っていた。
今は幻じゃない。本物の祐一だ……。
床に座りながらソファーに肘をついて私の顔を眺めている。
「約束しただろ、悲しいときはそばにいるって。だから一人で泣くな」
そう言った祐一の姿が、思い出の祐一と重なる……。
――心配しなくても、僕はずっと舞のそばにいるよ。
あのときの祐一の言葉を思い出した。
あれは私の力、つまり私自身が熱望した言葉だ……。
夢を思い出すと、また涙がこぼれて、あわてて顔をそらした。
「舞……」
ぽかっ!
「泣いてなんかいない」
「ツッコミ早すぎだろ! 何も言ってないぞ!」
「言おうとした……」
図星だったみたいで、祐一は口を閉ざした。
いつも一緒にいてほしかった。十年前からずっと……。
今もそれは変わらない。
「ただいまー」
佐祐理の声がした。
買い物から帰ってきたみたい。
「お、佐祐理さんだ。ちょっと待ってろ」
私は立ち上がろうとした祐一の服をつかんで止めた。
今は片時も離れないでほしかったから。
今だけは……。
「ちょっと玄関まで行ってくるだけだろ」
「そばにいるって約束した……」
「あははー、ラブラブですねーっ」
ぽかっ!
「なぜ俺を叩く!」
「ちょうどいいところにあるから……」
「だめだよ舞、好きなら態度でしめさないと」
ぽかっ!
「佐祐理さん、頼むから煽らないでくれ。俺が叩かれる」
佐祐理は相変わらず笑ってる。祐一もなんだか楽しそう……。
この二人のこういうところは嫌い。私もちょっとだけ楽しいのが癪だ……。
「祐一、佐祐理……お願いがある」
玄関にいた佐祐理が急ぎ足でこっちへ来た。
「何? 佐祐理にできることなら何でもするよ」
佐祐理は嬉しそうだった。
「じゃあ牛丼は佐祐理さんのおごりでな」
「……牛丼は関係ない」
祐一は相変わらずだった……。この二人のこういうところは嫌いじゃない。
「今夜、一緒に学校に行ってほしい……」
「学校? 舞、お前まさか……」
祐一の表情が一瞬にして曇った。
たぶん魔物のことを思い出してるのだろう。
「隠れん坊、してほしい……」
祐一は拍子抜けした顔だった。
魔物じゃないことに安心したのか、突然の提案に戸惑ってるのか、たぶん両方だろう。
「じゃあ帰りに牛丼食べようか、佐祐理のおごりで」
佐祐理はもう帰りの話をしている。
一緒に行ってくれるということだ。
「いや、さっきのは冗談だ。女の子におごらせるのは悪いよ。俺がおごる」
「いいですよ。いつも祐一さんが舞におごってるんだし」
祐一も一緒に行くと言ってくれてる。
私のわがままに二人ともつきあってくれた。
「ありがとう……」
私は普段言わない言葉を口にした。
言わなくても通じると思ってたけど、言わずにはいられなかった。
はたから見ればくだらない頼みだろうけど、私はどうしても聞いてほしかった。
祐一と佐祐理だから何も言わずにつきあってくれるのだろう……。
「舞がありがとうって言った……。牛丼おごってもらうのがそんなに嬉しいか?」
「……そんなに食い意地はってない」
もう夜の校舎にくることはないと思ってたけど。
私たちは三人で一緒に隠れん坊をしにいった。
思い出と訣別するために。
あの日の私に祐一と佐祐理を紹介するために……。
――絶望に暮れないで。祐一は何年かかっても必ずあなたのもとへ来る。
――だって私は……未来のあなただから……。
旧校舎の教室の中、かつて麦畑だった場所。
そこでかすかに見えたあの日の私は確かに笑っていた……。
あとがき
どうも、作者です。
舞の過去を補完する話でしょうか。
どうも私は人の過去をいじるのが好きなようで。
こんなのでよければ感想ください。
無茶苦茶喜びますので。
Shadow Moonより
後編、ありがとうございました。
舞ちゃんの電話の後に現れた祐一君は、舞ちゃんの力が生み出した存在だったんですね。
大切な人を目の前で失い、自分が魔物と戦う理由を忘れてしまった舞ちゃんが切ないです。
でもこれからは、祐一君と佐祐理さんとの3人で心から笑い、幸せになって欲しいな。
今回も心温まるSS、本当にありがとうございました。
Natsu様へのメールはこちらへ。
戻る 掲示板