久しぶりに郁と喧嘩をした……。




始めは下らないことの掛け合いで、それが次第にエスカレート。気づけばお互い口を閉じたきり、そのままおやすみの挨拶もしないで背中を向けたまま寝てしまった。

そもそも原因はなんだっけ?

思い出せないぐらい他愛もない事だったような、なのになんで一歩引いてごめんのひとつも言えなかったのか。どうにも結婚してからそういう意地が出てきてしまうのは、きっと郁に全面的に甘えているからなのだろう。


比較的早く横になった筈なのに、なんだか寝た気がしない。

ぼんやりとした頭を枕に擦り付け、ようやく隣りに郁がいない事に気づいた。いつ起きたんだ?全く気づかなかった。

だいたい戦闘職種たる者、気配には敏いのもだ。熟睡していても何かしらの異変を感じて意識が浮上するものなのだが、結婚してから家では全く気づかなくなった。いや、よくよく考えれば郁と付き合い始めて、初めて一緒に夜を越えた日からそうだったように思う。


片手で郁の形が残る場所をなぞると、すっかり冷えきっている。季節柄もあるが、きっと割合早くから起きていたのだろう。何度もリネンの上に手を這わせ、郁の枕を抱き込みながらベッドの上に身体を起こした。――――大の男が寂しいだなんて。

思えば郁と出会ってからこのぶ厚い胸の内は、窮屈なくせに彼女の思い出から何から全て入れたくて堪らなくて、たくさんの郁で満たしてきたものだから僅かでも欠ければ脆くなる。

結婚してから小さないさかいは何度となくあった。その度に苦しくて情けなくてどうしようもない思いをするのだが、昔からのいらん事いいは一朝一夕で治るわけがない。最後は何をもって良薬となるか。

せめて印鑑とともかな不幸の紙切れがテーブルに上がってない事を祈るばかり……。


わざと大きな音を立てて寝室のドアを開けると、台所に向かっていた華奢な背中が揺らいだ。少なくともまるっと無視を決め込む訳では無いらしい。よかった。堂上もなんでもない風を装っているが、しゃがみこみそうな程心底安堵した。

「……おはよう、郁」

試しに声を掛けてみる。

「……おはようございます……」

いかん、口調が部下のそれだ。これはだいぶ凝り固まってガッチガチやで。

なんでこうなる前に素直に謝ってしまわなかったのか。毎回毎回同じような過ちを犯すわりには全然学習していない。それでいいのか三十路の俺よ。

さあここは勇気を持ってひと言謝っちまえ。「ごめん」て、ただそれだけ言えば元通り郁の笑顔を真正面から見られるんだから。

しかしてそんなに簡単に素直になれるなら、毎回喧嘩などしないわけで――――……。


さて、どうしよう。


リビングの椅子に座り文字通り頭を抱えていると、堂上の目の前にマグカップが静かに置かれた。進藤が土産に買ってきた、郁と色違いのカップ。熊出没注意のロゴが鮮やか。

漂う香りは嗅ぎ慣れたカミツレ、それを郁も同じようにお揃いのマグカップに淹れて堂上の隣りに腰を下ろした。

「……」

「……ごめんなさい」

言葉を探して己の手元に視線を落としていた堂上の先手をいって、郁が口火をきった。

つられて目線だけで真横の郁を伺うが、郁は真っ直ぐと前を見据えたまま。まだ視線を合わせる程軟化していないようだが、とりあえず謝れるだけ堂上よりもうんと上等だ。

「あたし、ちょっと言いすぎたから。ごめんなさい」

「……俺も」

謝ろうとして、不意にそれだけでいいのかと心に疑念が湧いた。同じように謝って、しかしそれだけでいいのか。

目の前には湯気を上げる、淹れたてのカミツレ茶。

そう言えばまだ付き合う前、初めてふたりで約束をして出掛けたのがカミツレの飲める店だったっけ。

あの日、何かが始まりそうで結局始まらなかったけれど、確かに上官部下の域を超えようとしていた。タイミングなど計らず小牧からの電話が鳴る前に思い切って想いを伝えていたら、もしくは違う事件の関わり方をしたかもしれないのに。

そして堂上は、何とか関係を進めて結婚まで出来た今でも、相変わらず伝えるべき言葉を出し惜しみして後悔ばかりしている。


――――変わらなければ。


堂上から何も返ってこないのに見切りをつけたのか、ひとつため息を吐いて郁が立ち上がった。

その手を、掴む。

「……!」

伝えるべきは、謝罪だけじゃない。

「郁」

このカミツレ茶を飲む度に、あの日の苦い気持ちを思い出せ。伝えたい言葉は、他に――――。


「……好きだ」

「――――え?」

「だから」


掴んだ先を引き寄せて、堂上よりも細い身体を抱きしめた。

この温もりを、この香りを、この柔らかさを染み込ませるように。

「好きだ。ごめん、ずっと言えなくて」

溜めていた想い。口に出してしまえばこんなに簡単なのに、想いが強すぎて気軽には伝えられなかった。だがそんなのはこちらの勝手な言い分で、郁は事ある毎に好意の言葉を堂上にくれたのだから。


「……どうしたんですか、急にッ」

いきなりの告白に真っ赤になって目を白黒させていた郁が堂上の肩を押すと、ようやく正面から顔を見られた喜びに堂上の顔が綻んだ。それを見て、ますます郁が恥ずかしそうに小首を傾げる。どんな仕草も可愛いだけだ。

「いや」

言いたいことはたくさんあるけれど――――。

「きちんと郁に言わないとなって思って」

「熱でもあるの?」

「なんでだよ」

「だって、今まで絶対言ってくれなかったのに」

「いいんだよ、俺が郁を好きだって伝えたかっただけなんだから」

いよいよこちらまで恥ずかしくなる。

この話はこれで仕舞いだと切り上げるつもりが、もじもじしていた郁が立ち上がりがけに堂上の頬に唇を落としていった。

「――郁!」

「篤さんがあたしを好きなら、あたしは篤さんの事大好きだから、あたしの方が勝ちね!」

「……ッ」

嗚呼もうホントに――――……。

軽やかに台所に舞い戻る背中にニヤつきながら、やっぱりこいつには敵わないなと改めて思った朝。




そして今年も、カミツレを飲みにいく約束をしよう。





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