東京の会社勤めに嫌気が差したのが最初。
残業残業、それから接待。反吐が出る。
そんな折り、入社五年目を迎える前に会社を辞めて北海道へ飛んだ。たまたまインターネットで目にした新規就農研修生募集の記事に、これだと思ったからだ――……。







「篤く〜ん、牛糞寄せといて〜」
「わかりました〜!」
農協タオルで顔を拭いながらすっかり日に焼けた篤は牛舎の中へと入っていった。


北海道に来てからあっという間に二年目の春が過ぎようとしている。
新規就農受け入れの為の研修と称して何件かの酪農家の所で実習をしながらスキルを身につけていくわけだが、今世話になっている笠原家では研修終了後も従業員として住宅をも面倒見てくれる。即ち下宿させてもらっているわけだが、生粋の都会っ子で北海道に縁もゆかりも無い篤にとってはまさに天国のような職場であった。
笠原夫妻には息子同然に扱われて悪い気はしないし、歳が近くて話の合う男兄弟も三人いる。
最初は酪農業に不安もあったが、牛と触れ合って行くうちに愛着も湧いてきた。天職かどうかはまだ分からないが、会社勤めをしていた時よりも天と地ほどのやりがいを感じてるのは確かだ。
「イク〜、今日も元気そうだなお前は」
春に産まれた子牛のうち一頭に命名権を貰った篤は、以前暇つぶしにプレイしていたネットゲームのキャラクターの名前をつけた。それを聞いた笠原家の面々は苦笑いをしていたが、未だその理由は教えて貰ってはいない。
嬉しそうに篤の持っている哺乳瓶に吸い付いてすくすく育つイクは、他の子牛たちより若干大きめだ。その分食もよく、そして人懐こかった。
イクは篤が独立したら連れていっていいと言われているが、篤としてはこのまま笠原家の従業員でもいいと思っているのだった。









こちらの初夏はまだ肌寒い。
それでも各市町村の小中学校ではこぞって運動会が行われ、近くに住んでいる笠原の親戚宅でも今年小学生になった子どもの応援に、笠原兄弟と篤が誘われた。
「東京なら梅雨だもんな〜」
キャンプ用のテントを組み立てながら大兄が呟いた。
ちなみにテントを立てているのは篤たちだけではない。まだまだ肌寒い中で応援するのだ、陽射しがあれば外に出て応援し、風が吹けばテントの中で応援する。生徒数も少ないから余ったグラウンドを有効活用した、北の大地の知恵である(地域にもよるが)。
「そうッスね。こんなにカラッとはしてないし」
砕けた口調は信頼の証だ。
「でも北海道も蝦夷梅雨ってのがあるんだぞ」
「そうそう。すっげ短いけどな」
「ふ〜ん……」
手馴れたものでさっさと出来上がったテントのお礼に、自家製プリンを貰った。それが……。
「このクオリティ、パネェ」
思わず中兄が頬を染めながら生唾を飲み込んだ。篤も同様である。
ツヤツヤとした滑らかな表面は薄く黄色味がかり、天辺だけがピンと尖って滲ませたように綺麗な薄紅色をしていた。
おっぱいプリンが四つ。推定形の良いBカップ弱が、タッパーに入っている光景はなかなかシュールである。しかも半透明のタッパーなのが変にエロさを際立たせている。
「食べられるかな……?」
せっかくの頂き物ではあるが、一気に食ってしまうのは惜しい気もする。というかむしゃぶりつくのが申し訳ない気持ちになってしまいそうだ。出来ればひとりになって食べたい。
有り難くタッパーごと頂いた四人は、若干前屈みになりながら逃げるように乗ってきた車に取り乗るのだった。









「篤君、私はちょっと空港まで行ってくるよ」
「わかりました、気をつけて!」
なんの用事かは敢えて聞かなかったが、空港ならすぐに帰ってくるはずだ。大兄は隣りの牧場の応援に行っているが、何かあれば対処できるぐらいの技術も知識も身につけた。問題ないだろう。
そう言えば今日は寿子が珍しく鼻歌なんぞ歌いながら大量のご馳走を作っていたっけ。誰か来るのかもしれない。
「ビール飲みてぇ……」
無意識に呟きを零しながら汗をぐいっと拭う。
北の大地にも短い夏が来た。いくら短いと言っても、気温が上がればそれなりに堪える。そして人間ならば衣服なり環境なりで調整できるが、牛はそうもいかない。
和牛ならばある程度の気温でも耐えられるものの、あいにく乳牛は暑さに弱い。だから自分のだるさに気を取られて見落とさないように、牛の調子も慎重に見ていてやらなければならないのだ。篤の大事なイクも然り。
放牧している牛の様子を遠目に見ながら、柵の近くで草を食むイクを見つけて声をかけた。
「イク、暑くないか?具合悪くないか?すぐに俺に言えよ」
イクにとっても初めての夏だ。そのイクだって、来年の今頃には人工授精で出産した後はいよいよ乳搾りに入るのだから、あっという間である。
「実感湧かねぇよな〜……」
円な瞳でこちらを見る目は哺乳類特有の優しさがあった。
実感があろうがなかろうが、篤たちは乳牛に生かされている。ともに生き、ともに生活していくパートナーであり家畜だ。その事をしっかりと胸に刻んでいく。
「来年なったら、ちゃんと乳搾ってやるからな、イク」
噛み締めるように宣言した時だ。



「――変態」



どこからともなく聞こえた声に振り向くと、道路脇に克宏の車が停まっていた。その傍らにすらりとしたモデルのような女が立っている。
「変態よ、お父さん!」
もう一度、今度は先程よりも声を張った誤解に眉を歪ませていると、慌てたように克宏が女性の腕を引っ張った。
「何を言ってるんだ、郁」
「イク?」
今度は驚く篤の声が響く。
だいたいにして何も無い所だから声が響きやすいのだ。
「だってこの人、あたしの乳搾るとか言ってたのよ、この変態!」
「俺が変態なモンかッ」
「ああ……郁、お前の誤解だよ」
苦笑いしている克宏を、ふたりの視線が挟んだ。
「郁、篤君の言うイクっていうのはそこにいる子牛の事だ」
「子牛!?」
「篤君、初めてだったよね。これは東京の大学に通ってたうちの末っ子で、郁っていうんだよ」
「末娘!?」
笠原家にはまだ妹がいたというのか。北の大地で、とんだ大家族スペシャルである。
「まあまずは家に帰えってゆっくりしようか」
克宏から郁に視線を動かす。たちまち目をそらされて、ため息が出る篤だった……。






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