バレンタインデー―――― それは恋人達の守護聖人・聖バレンタインティヌスの殉教の日に信者が寄せる崇敬が元になっているという ※ 「つまり、別にキリスト教徒でもないあたし達は、祝わなくていいと思いません?」 憤慨やる方なしというていで、郁が給湯室の一番大きな茶菓子受けに大袋のチョコ菓子を無造作に入れる。ドサドサッ。ポロリとひとつ落ちて、それを拾うと忌々しく天辺に積んだ。 「そう言いながら、お前だって手作りのひとつぐらい作った事があるだろう?」 かく言う堂上は、中学の時分に静佳に手伝わされて嫌というほどテンパリングをさせられた思い出が苦々しい。何が悲しくて野郎に贈るチョコを作らされるのか、意味がわからない。 しかも堂上の所に転がってくるチョコは、義理チョコひとつないのだ。 「あるわけないでしょう!」 「ないのか」 図書基地を訪問してきた時の両親の印象だと、嬉々として菓子作りを教え込みそうな母親なのに。そうではないのか。 「ずっと部活動ばっかりやってたから、手作りする暇とかないですもん」 そっちかいッ。 「渡した事ないのか?」 思わず核心をつくと、みるみる郁の表情が険しくなっていく。地雷か、剥き出し過ぎるだろソレ。 「堂上教官には関係ないです」 「そうだな。俺も聞きたいわけじゃない」 「馬鹿にして!どうせ成果なんてありませんでしたッ」 「――人がわざわざ触れないで置いたのに、結局自分から言うのか」 呆れながら吐くため息。だけれどもその幾ばくかは無自覚に、安堵の色をしていた。それに気づいて内心顔を顰める。 別にコイツが過去に誰かにチョコ持参で告白してたとして、なんだというのだ。すでに玉砕上等、夜露四苦だったのは宣言済で、だからそんな場面があった事は想定済みである。 それでも今まで、郁が誰の手の色にも染まらずまっ更なまま堂上の前に現れてくれた事に、認めたくはないが安心したなどと何様のつもりだろう。郁の権利は郁だけのものであるのに。 「義理チョコだって、特殊部隊では女あたしひとりなのに、なんでみんなの分用意しなくちゃならないんですか!」 憤る気持ちはわかるが、お徳用チョコを握りしめながらではそれもどうだろう。去年のホワイトデーだってみんな律儀に返していたし、郁もバレンタインデーのムカツキを忘れて嬉々としてありがたく頂戴していただろうに。対価を考えたら十分以上じゃないのだろうか。 そんな思いが顔に出ていたのだろう。 「お返しがあればいいってもんじゃないんです!なんでアタシひとりで用意しなくちゃならないのかって話なんですッ」 怒らりてしまった。オンナゴコロはいと難しけり。 「まあ確かに、業務部とか他の部署は女性職員が人数いるしな」 「そうなんです。他にも女性職員いたら、今年はどの徳用チョコにするのかとかも相談出来るんですよ!」 「徳用は譲らないのか」 「まかりません!」 そこまで宣言されると却って清々しいけどな。 だがしかし、バレンタインデーだけではなくあらゆる場面で、もうひとりふたり特殊部隊に女性隊員がいれば郁の負担も減るのにな、と思う場面は多々ある。あるが、そんなに簡単に増やせるものでもないから、やはり当面は郁ひとりで紅一点を担っていかねばなるまい。 だいたいそんなに女性隊員を増やされても、指導する堂上が困るじゃないか。郁みたいなのがあとふたりでも増えたら、こっちの胃がもたないっつーの。 少し想像してみてため息が出た。ここは猿山じゃない。歴とした関東図書基地であるのだから、やっぱり増殖は却下。 「なんですか、これみよがしなため息とかついて。感じ悪いですよ!」 「いや、別にこれは……」 インスタントコーヒーを淹れながら、なんとか郁の意識を逸らせないかと考える。 「だいたいチョコとか、貰っても嬉しいんですか?堂上教官て甘いの苦手じゃないですか」 「お前が飲むようなコーヒーもどきじゃなけりゃあ、俺だって普通に甘いモン食うぞ」 「え?。何それ、お酒も飲めるのにズルイ!」 「……それとこれとは話が別だろうが」 ダメだ、郁と話をしているとどんどん脱線してしまう。 「お前だってな笠原、チョコとか貰ったら嬉しいだろ?」 「餌付けですか?」 「餌付けで俺の話聞いてくれんなら、やらんでもないが」 実際は絶対自分の直感で動くやつだから意味が無いだろう。これには本人も思い当たる節があるようで、気まずそうに何度も茶菓子受けを持ち直したりしていた。 こういう素直な部分は憎めない。郁の長所であり、たちまち短所に早変わりしてしまう部分でもあった。 「……教官なら、餌付けしなくっても――――」 「ん?」 「な、んでもないですッ」 聞き返したわりに、しっかり聞いている。続く言葉が聞けたのなら、堂上はどう出ようか?どう、出て欲しい? 「とにかく!チョコはあげるばっかりじゃなくて、貰っても嬉しいんです!」 おお、奇跡的に軌道が戻った。 なるほど、だから昨今は友チョコなんぞが流行るのか。 男同士の発想ではありえない。というか、何が悲しくて男同士で菓子を交換せにゃならん。罰ゲームか。 だがしかし、 「つまり、笠原もチョコか欲しいんだな?」 「えッ」 たちまちカーッと染まる頬を隠してももう遅い。自分が貰えなくて愚痴っているとか、ガキか。ガキだが、それが笠原と言うだけで妙に納得してしまうんだから、堂上も大概だ。 仕方ねぇな、と前置いて茶菓子受けの天辺でバランスを取っていた袋包を摘むと、無造作に開けてしまった。 「あ?!」 「うるさい。……ホレ」 非難しようとする郁の口元にその菓子を突きつけた。今年のお徳用チョコは、チョコをサンドしたウエハースに更にチョコレートがかかっている。 一口ではややデカイか。 そう思い直して半分に折ると、片方は堂上自身が食べて、もう一方は郁の口に持っていった。釣られて素直な口は開き、ポイと放り込まれた。 郁が動揺で朱に染まる。それも次第にチョコと一緒に溶けていくと、動揺の代わりに違う感情が身体の内側に芽生えた。 「……甘いな」 「……甘いですね」 「これで満足か?」 「は?」 「だからチョコ。欲しかったんだろ?」 「……」 熱で指先に溶けたチョコが絡み付いている。それを舐めとった。舐めながら、これも関節キスって言うのかなどと考える。考え過ぎだ。意識した方が負けだ。 負けだと思いながら、一度考えるとなかなか頭から離れてはくれなかった。耳に熱が集まりだしそうだ。 「でもこれ、あたしが用意したチョコですけど……」 違いない。 「じゃあ今度は、俺が買ってやるよチョコ」 「いいんですか?」 「あの、お金の形した奴とかでいいんだろ?それともきのこか、たけのこか」 「も?、すぐ子ども扱いする!」 「ガキなんだから仕方ないだろ」 そう言いながら給湯室を出た。後ろからは茶菓子受けを持った郁かついてくる。それがなんだか可笑しかった。 「みなさん、今年のチョコですよー!」 郁が配属されてから恒例行事となった光景に目を細めながら、堂上は自席につく。そしてボールペンを持とうとして、右手の指先が目に入った。そっと握り拳を作る。 ガキとでも思っていなければいけない理由があるのは、堂上の方だ。 だからまだこのままで。この関係でいなければならない。 聖バレンティヌスの加護を受けるのは、まだまだ先の事だった――……。 |