陸上の推薦で東京の大学に行っていた郁だったが、去年のインカレ直前に足首を捻挫して企業推薦を勝ち取れなかったまま今に至る。つまり現在はニートでありフリーターの大層なご身分なのである。どうだ参ったか! 「いや参らねーし」 どれだけふんぞり返っても、親のスネをかじっている事に変わりはない。それがわかっているから郁も少しばかり頬が赤いのだろうし。 「それにしても、ようやく郁か帰ってくる気になって、父さん嬉しいよ」 「べ、別にお父さんの為に帰ってきたわけじゃないしッ」 「うんうん」 照れる娘と全てを受け入れてくれる父親、いい図じゃないが。というかもう少し頻繁に帰ってくればよかったのに。 実際篤が笠原家に実習でお世話になっていた二年間、彼女の姿を見たことは一度もない。篤の帰省とブッキングしていたのかもしれないが、それにしたって男兄弟の中にぽつんと花咲く紅一点、もっと頻繁に実家に帰ってやれよとは言えない初対面の辛さがあった。しかも雇い主の娘だし。変態認定受けてるし。 「でも郁。あなたこっちに帰ってきたって、仕事なんて早々ないわよ?うちの手伝いしてくれるのかしら?」 「それは……おいおい。農協とかも空きがないの?」 「今はないみたいだぞ」 「え〜」 田舎は人手不足とタカをくくっていたのだろう。当てが外れた感の彼女は、ううっと唸りながら天井を睨みつけた。 すると突然、パチンと両手を合わせた寿子がにこやかに提案を持ち出した。 「あ、わかったわよ!お母さん、凄くいい就職先見つけたわ」 「え?何なにドコ?」 途端に輝く郁の顔。現金な態度だが、不思議と可愛らしく見えるから女の子の魔力とは恐ろしい。 だが本当に恐ろしいのは、酸いも甘いも噛み分けても尚、独自ドリームの中で軽やかに生きる寿子だった。 「郁、篤君のお嫁さんになればいいじゃないの!」 「……!?」 「何寝ぼけたこと言ってんの!?」 思わず変な声が出そうになった。 「いいじゃない。そしたら篤君はずっと北海道にいるし、郁は可愛いお嫁さんになれるし、一石二鳥じゃないの」 「お母さんにはもう息子が三人もいるでしょうが!」 「たまには違う色も揃えてみたいっていうか?」 もしもし、絵の具と間違ってませんか? 「だってこの人、変態なのよお母さん!あたしと同じ名前を子牛につけて乳搾りするのが楽しみなんだから!」 「違う、それば間違ってる!」 激しく間違った認識を直そうと篤も声を上げた所で、寿子には完膚なきまでに叩きのめすひと言をぶち込まれて立ち直れなくなった。 曰く、 「男の人は少なからず変態なのよ?」 という事はあなたの夫もですかと、激しく問い正したい気持ちを無理やりねじ伏せるのに、なかなかの努力がいったのは秘密だ。 ※ 「変態で登録するけどいい?」 「俺、君より年上だってわかってる?」 ――――この人、しつこく変態呼びするのが嫌味だって、わからないのかな? いつの間にか家に馴染んでいた新しい従業員は、年上で真面目な人らしい。 まあ郁がこの男の嫁になるかどうかはさておき、これから一緒の家で生活していくのだから連絡先ぐらいは交換しようという話になったのだ。 「だって他に名前知らないし」 「聞けよ!てか変態が名前のわけないだろうがッ」 「きっとこれ以上相応しい名前なんてないと思うのよね」 真顔で力説すると、篤は心底嫌そうな顔をした。無理もない。郁だって電話帳の登録名を「変態」にされたら投げっぱなしジャーマンの刑である。 とりあえずフルネームを聞いた。 「どうじょうさん」 「久しぶりに苗字で呼ばれたな」 「みんな名前で呼ぶの?」 「大抵は」 「ふ〜ん……」 「郁ちゃんは、郁ちゃんでいいか?」 「え。なんかキモイそれ」 「なんでだよ」 なんでと言われましても呼ばれ慣れないからでしょうが。 体育会系であるからして「笠原」が郁を呼ぶ名前になっていたから、改めて「郁」に「ちゃん」をつけられるとむず痒い。まるで女の子自分がみたいで、ちょっぴりドキリとしてしまった。 しかし抗議の声については、諦めろ、と一刀両断された。 そんなやり取りをしていた、数日後――――……。 「……あ?ぇ、え?……やッべえ〜……」 トラクターに乗りながら、顔面蒼白で呟く篤に遠くの方から寿子が声を掛けた。 「篤く〜ん!郁、知らない〜!?」 「見てないですけどー!」 「車が一台ないから、使ってるのかと思って〜」 「ていうか普通に話しませんか」 「あら」 トラクターを止めて、走って寿子のところまで。 何せ牧草を刈っていたものだから、だだっ広い場所なのだ。まあ周りに何も無いから声はよく通るのだが。 「車を運転するのはいいのよ。でもあの子、とんでもなくペーパードライバーだから心配で」 「ほぼ一本道だから大丈夫じゃないですか?」 「ん〜……。なんでもないといいんだけど」 「……」 ただの過保護の思い過ごしではなかろうか。 だがこの時の寿子の予感は、無常にも現実となる――……。 「も〜、やだ〜!」 半泣きの叫びは夕暮れ空に消えた。 気分転換に車を借りてドライブと洒落込んだ午後の事。 しかして東京では運転はおろか、免許を取ってからハンドルを握った回数など片手で数えられる程度の郁だ。颯爽とドライブするイメージだったのが、実際は肩に力が入りまくりのガチガチ徐行運転である。しかもスーパーペーパーにありがちな視野狭窄状態で、救いは見晴らしのいい道路が続いていたという事だ。 しかし慣れた頃に待っていたのは落とし穴。 ほんの少しの余裕が油断に繋がり、突然道路脇から飛び出してきたキタキツネに驚いて、大きくハンドルをきってきまったのだ。 『小動物は躊躇わずはねましょうね。優しさは却って事故を招きますから』 一瞬、遠い昔に教習所で言われた言葉が蘇った。――――だからって気持ちよく轢けるか! いくら両脇が牧草地に挟まれた道だからと言って、いきなりハンドルを真横にきれば車体は道路から飛び出す訳で。 結果として郁の運転する車体は道路脇へ綺麗にダイブしたまま、二時間以上が経過してしまった……。 エンジンはかかる。しかし道路へ上がるには高低差があり過ぎて登れないどころか、登れるかと吹かせたせいでタイヤが濡れた泥面にハマるのみ。ひとりでは何も出来なかった。 携帯で助けを呼ぼうにも、克宏は隣町に泊まりの用事で行っていないはずだし、兄達は軒並み農協のイベントの手伝いに出掛けている。きっと酒が入っているだろうから、使い物にならない。自宅に電話したところで寿子は無免許だ。トラクターは運転できても敷地内しか許されない。残るは――変態の文字をなぞる。 馬鹿にした手前、本当は連絡して弱みを見せたくなかった。 だが既に空が色を変え始めている。イベント準備から兄達が帰ってきたとして、だけれどこの道とは反対方向だ。万に一つ、誰かがこの道を通っても、道路脇に沈んだ軽自動車など視界から外れている位置のせいで見つけてもらえないかもしれないのだ。 背に腹は変えられない。さっきから車外をキツネが彷徨いている。怖い。助けて。そんな気持ちが郁の指を後押しした。 プッ、プッ、プッ――――――― 『おかけになった電話番号は、電源が入っていないか電波の届かない場所にいるか――――』 「うわーーー!」 あまりの絶望に思わず叫んでしまった。 おしまいだ。このまま暗くなれば今以上にこの車を発見するのは困難になるだろう。 おしまいだ。備えがあって遭難する人がいないように、飢えをしのぐものは何一つもっていない。終わった。 絶望に打ちひしがれながら、助手席で膝を抱えて蹲った……。 その時――――。 ――――コンコン 不意にガラスが叩かれる。 「郁ちゃん?」 それからまだ聞き慣れない声が自分を呼んだ。 思わず顔を上げて、不覚にも泣き出しそうになってしまった。 「へ、変態ぃ?ッ」 「だから変態じゃねぇっつの」 助手席から郁を救い出した篤は、軽々と細い身体を抱き上げてたちまち車外へと連れ出してくれた。 「なんでここ、わかったの?」 「車の鍵貸して。――――よし、行こう」 郁を抱えながら道路まで上がると、そこには一台のママチャリ。 「寿子さんがすげぇ心配してて、でも最後の車は郁ちゃんが持ってったから自転車こいで探しに来たんだぞ。有り難がれ」 言葉は押し付けがましいのに、身体を支える手は優しい。 座布団を括ってある荷台に郁を腰掛けさせると、篤は自転車をさっさとペダルを漕ぎ出してしまった。慌てて篤の腰に腕を回す。 初めて触れた身体は硬くて厚くて、でも……物凄く温かくて安心できた。 「ケツ、痛くないか?」 頭を預けた背中から声が響いた。すがさず首を振って答える。そうか、と落ち着く声がまた響いた。 胸がドキドキする。でも手を離したくない。車で十分弱走った道だ、自転車なら相当漕ぐだろうに。それでも嫌味ひとつ言わずに、平気な顔をして郁を迎えに来てくれた。 ――――長い帰り道で、沢山くっついていられて、嬉しい。 不意に湧き上がる気持ちにびっくりしながら、少しずつ音が煩くなっていた心臓のリズムに合わせて心が宛もなくカウントをきる。なんのカウントなのか、自分にもわからないけれど。 少なくとも悪い気持ちではなかった。 「――ありがと、篤さん……」 呟いた小声は頬を切る風に攫われて届かなかったかもしれない。 だけれどそれでよかったのかもしれない。 芽生え始めそうな蕾を抱えるには、今の郁はまだ不安定過ぎるから。 「そう言えば、なんでスマホに出なかったの?あたし鳴らしたんだけど」 「あ〜……、牧草刈ってる時に落とした。たぶん牧草ロールん中」 「えー!じゃあ発酵してテープとるまで牧草ロールの中?」 「そう」 「篤さんて、結構抜けてるんだね……」 ほっとけ。そう呟いたこの人の耳が赤く染まっていたのは、見なかった事にしておこう。 |