毎度見る光景だが、最初は驚いたのが次第に真面目にマジマジと見てしまうものがある。慣れとは恐ろしい。
牛の肛門に深々と片腕を突っ込んでいた獣医が、ため息をついて克宏に告げた。
「だ〜めだ、こりゃ。受精しとらんね」
「またですか……」
落胆してしまう。無理もない。
笠原家で飼っている乳牛は約二百頭。今年はそのうち三分の二強を人工授精したのだが、今年は受精率が芳しくない。二度目の種付けを迷う所だ。
「今年の種付はお宅、ご長男に持ってかれたんでないの??」
「いや〜、ははは。全くお恥ずかしい」
獣医の言葉に苦笑いする克宏だが、たぶん心の底では嬉しいのだと、篤は思っている。









「結婚?」
突然降って湧いた大兄の宣言に食卓の席で居合わせた一同が目を丸くすると、照れたように頭を掻きながら、うん、と続ける。
「ほれ、ずっと付き合ってたのがさ、いるじゃん?そいつと、その……」
「ああ、あの娘か!それは目出度いね」
何せとうに三十路の坂を越えた大兄だ。いつ結婚してもおかしくないぐらい長年寄り添っていた彼女がいるのは周知で、相手の方とも家族ぐるみでお付き合いをしている間柄だった。
その彼女と結婚。目出度い。
「それが、デキちゃって」
「……!」
その日の食卓に激震が走った――――。



「でもさ〜?、大兄のは確信犯だと思うのな」
中兄が牧草を寄せながら呟いた。同じように郁と篤も作業をしながら、目線だけで応える。
「キッカケがなくてダラダラしちゃってただけだから、いんじゃね?」
「そんなもんかなぁ〜……、あたしの考え方、古いのかな?」
「お前がデキ婚とかしたらお袋が憤死するから止めとけよ、篤も」
「なんであたしが!」
「なんで俺も!」
仲良く声が重なった所で顔を見合わせると、お互い気まずくなって一気にソッポを向いた。
未だ頬が赤らんだままの篤がイクの頭を撫でながら、ぼそりと呟く。
「お前は好きなヤツとか関係なく、妊娠させられちゃうもんな。それでも幸せなんだろうなぁ……」
「……」
乳牛としての寿命はだいたいにして六年から七年。その間絶えず妊娠し続け乳を出し、酪農家に仕事をくれる。家畜とはまさに文字通りで、短い生涯の間にどうにか心地よい住処を作ってやるのが人間側のせめてもの配慮だろう。
そんな時、ふと我が身の幸福を思う。
仲の良い家族、きちんと生活出来る環境。
そして自由な恋愛。
決して甘いだけではなく苦くて辛い時もあるけれど、それでも選びとる自由を袂に持つ。
あとは勇気を出せるかどうか。
いつまでも頭を撫で続ける篤の顔をイクがべろりと舐めたものだから、唾液でベトベトになって思わず喚いた。大好きな子牛の唾液でも、嫌なものは嫌らしい。
その様子に郁もつられて笑う。ぼんやりした想いはそのままに、いつそれが育つのかわからないけれど。









「というわけで、中兄ちゃんと小兄ちゃん、それと篤くんは離れに移ってもらいますからね」
何が「というわけ」なのだかさっぱりわからないが、あたふたと荷物をまとめて追いやられてしまった三人である。
離れと言っても本当に隣同士の建物で、ただ単に風呂がないだけの平屋だ。台所はあっても料理をする三人でもないから、勿論食事は母屋で食べる。
「いや〜悪い悪い」
移住の元凶、大兄に引越しを手伝ってもらいながらしぶしぶ移動をしたそれから三日後、大兄の奥さんが母屋で暮らす事となった。









元々大家族の上に男兄弟の多い笠原家だから、いずれは誰かの結婚によって人数があぶれる事はわかっていた。わかっていたが、離れに行っただけで欠けた感が結構半端ないなというのが郁の感想だ。
自分の進学で家を出たのとはわけが違う。
ひとり増える事の変化と、三人減る事の違和感。この時自然に篤を笠原家のメンバーとして数えていた事に気づいて、郁はブンブンと頭を振った。
「郁〜、もう時間よ〜」
「え?わ、やば!行ってきま?す」
最近郁も農協のレジカウンターでバイトをし出したのもひとつの変化だ。しかし行き帰りの運転を禁止されている身の上なので、そこを篤に頼んでいるのが申し訳なく感じる。あれでも仕事に真摯で忙しそうだから。
その篤はと言えば、郁が声を掛けるよりも先に車で準備をしていた。
「ごめ〜ん、お待たせ!」
「社会人なんだから五分前行動を身につけろよ」
なんだかんだ言っても篤は優しい。
「はぁい」
しゅんとしながら返事をすると、頭をぽんと撫でられた。篤はこういうスキンシップが好きなのだろうか。





「お疲れ様でした〜」
「お疲れ、郁ちゃん。ちょっと飲みに行かない?」
「あ〜、と……すいません」
「門限とかあるの?」
「いえ、そういうんじゃないんですけど」
「じゃあいいじゃん、行こいこ」
仕事帰りに誘われる事も、まま増えた。だけれど酒に弱い上にまだまだ同僚の顔も覚えられない身だと、正直言って楽しめないと思うのだが……うまく断りきれなくて。
そんな時は、
「郁ちゃん!」
すでに通用口の外側で待機していた篤がタイミング良く声を掛けてくれるのだ。
「あれ、郁ちゃん、篤と知り合い?」
「あ、はい。迎えに来てもらってて。お先に失礼します!」
そそくさと車に乗り込んで、相手にため息をつかれる。
「――邪魔したか?」
「ううん、凄く助かった!」
「職場で飲み会ん時は、ちゃんと家電に入れろよ」
未だに篤のスマホは牧草ロールから救出されていないのだ。新しい携帯を持てばいいのだけれど、携帯ショップまで行くのに片道一時間強運転することを考えると、なかなか腰が重くなるものだ。
「飲み会になっても、ちゃんと迎えに来てやるから。でも飲みすぎるなよ」
「――うん」
付き合っていないのに律儀に送り迎えをしてくれる。
いつだったか小兄に頼んだら、その日はなぜか篤の機嫌が悪かったっけ。



ねえ、周りからはどう思われているんだろう?
あたし達は、お互いをどう思いあっているんだろう?


分からない。
分からないけれども、行き帰りの車中が嫌ではないのだけは確かだった。






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