「まだ夏休み取ってないのって篤君だけじゃないかい?」
「あぁ……、そう言えば」
出勤の郁を送って帰ってきた篤に、カレンダーを見ていた克宏が振り向きながら聞いてきた。
自分の事はわりとどうでもいい。まるで他人事のように聞き流しながら長靴を履いた。軍手をはめてタオルを頭に巻き、上着を羽織る。寒さ対策と言うよりも、虫対策の方が大きい。
「俺はいつでもいいし、いっそ取らなくても構わないですけど」
「そうもいかないよ」
牛舎の中に設えた簡易事務机の上で帳面を捲りながら、眼鏡を外してもう一度カレンダーを眺めた。
「明日からとるかい?夏休み」
夏というにはすでに過ぎた感じもするが、名目としての夏休み。それにしても急すぎやしないか。
「たまにはご実家に帰ってあげたらどうだい?君は感心な働き者だけど、ご両親の事も大事にしてあげないといけないよ」
「……そうですね」
考えてみれば前の会社を辞めた時も、北海道に立つ前日に事後報告した上に、こちらに来てからも正月ぐらいしか帰省していないのだろ。親不孝極まれりとはこの事。確かにたまには顔を出して、生存報告した方がいいかもしれない。
「じゃあ決まりだね。明日から一週間、夏休みを満喫したまえ」
「あ、有難うございます!」
「航空券は購入しておくから、時間だけ考えておいてくれ」
そうと決まれば、そういうわけなのである。






「で、チケットが今日のしかなくて、昼から夏休みになったの?」
いつものように仕事を終えると待っていたのは中兄で、車の中でようやく篤が急な夏休みを取ったことを知った。なんという急展開。二時間ドラマかよ、急ぐなよそんなに。
「俺じゃあお姫様はご不満かい?」
そういうわけじゃ、と言い訳しながらも、すでに篤の送り迎えが当たり前のようになってきたものだから、ぬぐい去れない違和感はあった。
おかしなものだ。
もうずっと兄妹でいたはずの兄達よりも、最近は篤といる事の方が多い。別段理由なんてない。多分。
「……」
いや、認めたくないだけかもしれない。
「帰りに飲みモン買ってこうぜ〜」
「――――あたし、紅茶……」
兄達の中では一番気が合う中兄との車中は楽しいはずなのに、今日はなぜだかつまらなく感じてしまった。どうしてだろう。
自問自答してみても、答えは出なかった。













暑い……。
飛行機から降り立った途端、湿度が違った。とてもじゃないが同じ国とは思えない。気温も違う。
生まれ育った土地にも関わらず、こんなにも余所余所しく感じるのは都会ゆえなのだろうか。あまりにも北海道がおおらか過ぎた。
すでに夕方に差し掛かっている。電車に乗って一路実家へと向かうが、車移動に慣れすぎて却って変な感じだ。
狭くて、息苦しい。
感覚がほどよく北海道に染まっているせいか、不思議な感じを抱えたまま電車に揺られ続けた。
何気に視線を落とした腕時計。もうこんな時間――……。
そう言えば郁にひと言も言わずに帰ってきてしまったなあ。
最近はいつも隣りにいる事が多いから、ひとりでいる事がなんだか落ち着かなかった……。
疲れているはずなのに、夜中に目が覚めた。
よくよく考えれば夜中の牛舎見回りの時間だと気づいて、ひとり苦笑する。たかだか二年強の生活が、余程骨身に染み付いているらしい。
もう一度布団と被り直すと、案外すぐに二度寝の安らぎが訪れた――――。






「郁、それ篤君のお茶碗よ」
「え?……あ」
言われてそそくさと篤の食器を戸棚に仕舞った。
そう言えばいないんだったなどと今更のような呟きを胸のうちで零しながら、頂きます、と手を合わせて食べ始める。
頂き物のいくらの醤油漬けは本来郁の大好物なのに、噛んでる端から味も食感も抜けていくような虚脱感を感じた。
いつもならばこの時間帯は両親と大兄のお嫁さんだけの食卓で、今までだって篤と兄達はなかなか一緒に食卓につく事はない。なのにどうして使わない食器を出してしまったのだろうか?
「ご馳走様でした」
時計を見て少し慌てる。いつもなら外から急げとかかる声がないのは、なんだかちょっぴり寂しいと思ってしまう。
仕方のない事なのだけれど。






スマホがない。あるのは牧場ロールの中。
これほど携帯ツールがなくて困る事などあっただろうか?
東京では普通に連絡ややりとりて使わざるを得ない。
北海道では敷地内と敷地内が遠すぎて使わざるを得ない。
そう考えると、おかしくなってひとりでニヤニヤしてしまった。
ああ、だけど……。
今手元にあったら、きっと暇つぶしにかけちまうだろうな。今なにやってる?とか。
声が聞きたいとか恋人同士みたいな事は思わない。
ただ何をやっているんだろうと気になるだけだ。






「これね、まだちょっと早いんだけど。お裾分けであげるね、郁ちゃん」
「わ〜!ありがとうございますッ。喜びますよ、篤さん」
「喜ぶって……。ああ、堂上君?」
逆に聞き返されて、ハッとした。
「ぅ。そ、そうです……」
そういうえばまだ帰ってきてないんだった。
せっかく篤の好きなビーフジャーキーを貰ったのに。
早く帰ってこい、馬鹿篤。





「わ〜、珍し〜。兄貴がいる光景〜」
朝起きたら、普段一人暮らしをしている筈の妹がリビングにいた。
記念記念と呟きながら、なぜスマホで兄の寝起きを写メるのか説明して欲しい。そんなに珍しいものでもなかろうに。
「それにしても、相変わらず彼女のひとりふたり出来なさそうな、面白味のない顔よね」
「女がふたりもいたら二股だろうが」
「そんな甲斐性もないくせに」
憎まれ口を叩きつつも、自分の分と一緒に起き抜けの篤の分までコーヒーを淹れてくれるのが静佳という妹だ。
「父さんと母さんは?」
日曜日の今日は父の会社が休みだろうが、看護師をしている母はシフトで動いているから分からない。
両親共働きのお陰で、小さな頃は静佳と過ごす事が多かった。だからか、兄妹仲は他よりもいい方だと思う。笠原家もどっこいだが。
「ふたりしてコンサート行ったけど?」
「だよな〜……」
久しぶりに息子が帰ってきたからと言って、別段何かするような親じゃないのは知っている。知っていたが、せめて朝食ぐらいは用意していってもらえると有難かったのにな。
仕方なしにトーストを二枚焼いて食べる。飲んだ牛乳は……エラく薄い気がした。
なるほど成分調整牛乳とはこの事か。いつも笠原家は自宅用に少しよけて、それを沸かして飲んでいるから気づかなかった。これは……牛乳の甘味を知らないで牛乳嫌いになる子どもが増えるわけだ。
ついでに言うなら初めて子牛を産んだ乳牛の、初乳で作る牛乳豆腐のあまりの美味さに言葉を失った実習初年度である。
「そんでお前は、せっかくの休日にわざわざ面白味のねぇ兄貴の面を拝みにきてんのか。そっちのがつまんねぇじゃねーか」
「ンなわけないでしょ、馬鹿兄貴!だいたいいくらスマホに連絡入れても返ってきやしないから、心配してあげてたんでしょうがッ」
「あ……」
そのスマホは、いまだどの牧場ロールに包まれているのかわからないままである。出てくるのは来年か?
「悪かったよ。ちょっと紛失しちまって」
「はぁ?だったらさっさと新しいのに替えればいいじゃない!」
「金がかかるから嫌だ」
「金使うオンナもいないくせに、何言ってんのよ。そうと決まったらショップに付き合ってあげるから、さっさと支度して」
篤の意見などまるっと無視だ。昔からこういう所は変わらない。
まあ確かに北海道だと、近場のショップまでかなり車を走らせなくてはならないから、替えに行くのがめんどくさいというのもあった。いい機会なのかもしれない。
どうせここからだから、行き先は目星がついた。
「……あ。なあ、静佳。ついでに頼みたい事があるんだが」
「何よ、気持ち悪い」
心底嫌そうな顔で見られたから、本当に気持ち悪い顔をしていたのかもしれない。
人はそれを、思い出し笑いという……。






鮮やかな青から、抜けるような澄んだ色の空色になってきた。
牧場の柵にもたれながら、ぼんやりとそんな事を考える。これからもっと薄くなっていくであろう秋晴れの空は、同時に寂しさも運んでくるのだ。そう、ちょうど今ポッカリと空いた郁の胸の内のような感じ。
篤が帰省してからもうだいぶ経った気がする。実際には四日いないだけで、たいして経っていないのだけれど。
今日はバイトがない。いつもの日曜日なら、こうして柵にもたれていれば仕事をしている篤に何気なく会えるのに。
今日は代わりにイクが柵の近くに来てくれた。神経質そうな素振りもなく、人懐っこそうに寄ってくるのが可愛い。人を信用しているのは、きっと日頃から篤がそういう風にイクと接している証だろう。
「今日は何もする事ないのか?」
「大兄ちゃん……」
振り返ると、オレンジのツナギを着込んだ大兄がゆっくりと歩いてくる。
「牧場内は長靴履けっつってるべ?泥で可愛い靴汚れんぞ」
「いいもん。別にどこも行かないし」
どこにも行けないし。心の中だけで呟く。
再びイクに向き直って体を撫でてやる郁の隣りに並んで、大兄もイクを撫でた。
ゴツゴツと節くれだった働く男の手はデカイ。同じように篤の手も武骨だが、いつも何かの折に宥めるように元気づけるように頭を撫でてくれる手は、思いの外優しい。
「……なぁ、郁」
「ん?」
改まった様子に小首を傾げて応えた。
「なんつーかさ、……親父とお袋が、お前と篤が結婚したらいいとか言うけど、あんまり真に受けんなよ?」
「……」
「郁は女の子だから北海道に残って欲しいの、俺もわかる。同じくらいあの人方が、篤にこの町で酪農してくれればいいなって思ってるのも知ってる」
北海道という広大な土地のせいか、道外に子どもを出す事を渋る親は多い。何かあった時に車で駆けつけられない場所に行ってしまうのが不安なのだ。
だから郁が東京の大学に行く時も、最初は大反対された。子どもひとりで何かあったらどうするのだ、と。特に親戚もいない土地で、頼るものもないから余計。
北海道はそういう概念が強い。
だから両親は、郁と篤が一緒になって酪農家になってくれればいいと思っている。たまに言われる言葉の中に僅かな本心を混ぜて、恐らく願っている。
「お前と篤の気持ち無視してまで実現する事じゃねーしさ、深く考えんなよ」
ぽん、と郁の頭を撫でてくれた手。やっぱり、違う……。

「――――ねえ、大兄ちゃん」
「あ?」
「お義姉さんのどこが好き?」
唐突な質問に一瞬目を見開いた大兄だったが、郁の表情を見て感情を抑えた。
「どうした」
聞いた刹那、僅かに眉が歪む。なるべく気持ちを殺している時の郁の癖だ。だからあえてもう聞かなかった。
「理由なんてねぇよ」
「……」
「そういう御託を並べてるうちに、気ぃついたら好きになっちまった。そんで隣りにいるのが当たり前になってたんだからさ」
これでいいか?と見返せば、なぜか郁の大きな瞳が潤み出して狼狽えた。
「ありがと。うん……わかった、ありがとね」
「おい、郁――」
大兄の静止も聞かず、郁は逃げるようにその場を去った――――。






「……ッは、」
自室に着くなりドアを閉め切り、そのままズルズルとドア越しにへたりこむ。
もう堪えられなかった。自分の気持ちを確かめてしまった今、どうしようもなくなって涙が溢れた。
たぶん篤が好きなのだ。いつの間にか一緒にいる事が当たり前になっていて、離れている今がこんなにも寂しい。
もやもやとしていた気持ちに名前がついて、






――――郁は決意をする。




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