乳牛が牛乳を出せなくなると、廃牛になる。牛乳を生産出来ない牛を生かしておいても、酪農家にとっては損にしかならないからだ。 篤が酪農研修を経て廃牛解体を目の当たりにするのは、これで二度目。一度目の、なんとも言えない気分は言いようがない。 別に己が手を下す訳では無いのに。 廃牛の解体は、だいたいが業者がやってくれるものなのだが、一度目は今後の勉強の為にと自ら見学を申し出た。 二度目の今回は何も聞かれずに立会いを促された。やはり複雑な気分になったが、意地が篤の脚を石にして動くのを拒んでいた――――。 「お疲れさん」 ぽん、と肩を叩かれて、ようやく自分の肩に力が入っていたのかを知った。痛い程ガチガチになっている。その肩を、背中を解すように優しく撫でながら、克宏はゆっくりと言葉を選んだ。 「私達酪農家は、最初から最後まで与えてもらってばかりだね……」 「――――はい」 克宏の言葉には色んな感情が入り交じっているようだった。 乳牛も長く一緒にいれば情も湧こう。それが乳が出ないという、人間側の都合で勝手に生死を奪ってしまうのだ。やりきれない……。 「ちょっと早いけど、郁ちゃんの迎え行ってきますね」 「うん、頼んだよ」 こんな日は、無性に彼女に会いたい。別に付き合っている訳では無いけれど、隣にいてくれるだけでなんとなく癒される気がするから。 軽トラに乗り込みながら、この感情の理由を考える。 たぶん考えるまでもない。周りが当たり前のように郁と篤をセットにして話をするから気付かないフリをしていたけど、それも難しくなってきた。 隣りにいれば手を繋ぎたい。肩が触れれば抱き寄せたい。目が合えば、……キスをしたい。 衝動を持つのは簡単なのに、抑える事が難しくなって募っていく。いつまで隠していられるだろうか。 もし告白をしたら、その勝算は――――。 コンコン 突然窓を叩かれてハッとした。 いつの間にか郁が通用口から出てきたのだ。 「おかえり」 「ただいま。珍しいね、考え事?」 「あ、ああ。……今日、廃牛になった牛の……」 「ああ、解体するって言ってたもんね」 シートベルトをしながら郁はまるで世間話をするように喋る。 「あんまり気分は良くないよな……」 「そうかな?だって仕方ないもん」 あまりに素っ気ない郁の言葉に、思わずまじまじと彼女の顔を見た。 恐らく生まれた時から酪農家の娘である郁にとって、廃牛の解体は身近にある出来事のひとつなのだろう。それにしても感情がこもってなさ過ぎた。 「悲しくないか?」 「それは嘘になるけど、だからどうってことはないかな。だって乳牛はペットじゃないんだよ」 至極真っ当な意見だ。だが抗いたい気持ちの方が強い。 「だって貰ってばかりじゃねーか、生きてても死んでからもッ」 「あのね、篤さん。じゃあ生きてる間、あたし達と牛達の関係はなんなの?どうして名前をつけないかわかってる?」 「……」 「別れのない出会いなんてないんだよ?別れるのが嫌なら出会わなければよかったのに、仕事はそういうわけにいかないの。それが酪農家ってもんじゃないかって、あたしは思う」 郁の言葉は正論だ。だからこそ篤の胸に痛く刺さった。 結局まだ酪農というものを、自分に都合よくしか考えていなかったのかもしれない。 そう言う意味では篤よりもよっぽど郁は酪農家だ。 別れのない出会いはない。 じゃあ郁は、自分と出会った事をどう思っているのか。 とても今は聞けなかった……。 ※ 再三言うが、笠原家の離れに風呂はない。 その場合母屋の風呂を借りるのだが、連携が上手く行かないと事件が起こる。 「お母さ〜ん、今お風呂って誰も使ってない?」 「使ってないはずだけど、どうだったかしらねぇ」 「じゃああたし入ってくるね」 最近は風が冬に向けて冷たくなってきた。こんな日はゆっくり湯船に入りたいものだ。 そそくさと脱衣場に入り、手早くトレーナーとジーンズを脱いでブラのホックを外している途中で、浴室から水音がして突然ドアが開いた。 「え」 「あ?」 ブラを緩めたままで郁は固まってしまった。 目の前には、湯でしっとり濡れた篤がやはり目を剥いたまま硬直している。 ガッシリとした筋肉質な身体つきを思わず観察してしまい……湯気が立ち込めているとは言え、しっかり見てしまった……。 「ッき……」 ぱさりと郁のブラジャーが床に落ちる。と同時に全力で拳を繰り出していた。 「きゃああああああッ!!」 「ぐはぁッ!」 一発ノックアウト。 急いで服をかき集めて身につけると、慌てて郁が脱衣場を出る。 全裸で伸びたままの篤が次に発見されたのは、実に十五分後に小兄が駆けつけて来た時だったと言う――――……。 「普通オンナがぐーでくるかよ!」 左頬の打撲とその後壁に後頭部をぶつけて出来たたんこぶを押さえながら、離れでビール缶を一気に煽った。 「そこは仕方ねーわ。アイツ、そういうのウブいから」 「大学ん時も彼氏いなかったみたいだしな。つー事は歳の数なんだよ」 それは……。 「もしかして、今まで恋愛経験なかった?」 恐る恐る聞くと、兄達は腕組みして唸った。 「相談とかは、まあ。でも玉砕専門なんだよな」 「猪突猛進とも言うね」 「後先あんまし考えねーで告白とかな」 なるほど。時々垣間見るもの慣れなさは、それだったのか。 たぶん郁がもっと恋愛慣れしていたのなら、違う形で篤もアプローチしたかも知れなのいが、予想外の反応に手探りしながら郁の反応を伺っているから。それは悪い訳では無い。むしろ嬉しい気持ちの方が大きいのだから、男と言うのはしょうもない生き物である。 「こうなったら嫁に貰うしかないな」 「え……!」 「なんだよ、嫌なんか。可愛いだろ、うちの郁は」 結局、シスコン気味の兄達である。だから彼女出来ないんじゃないのかとか言う話は黙っとく。 「可愛い、と思う」 「だろ?じゃあもういいじゃねーか」 「でも、……ちょっと、最近の廃牛の事でな〜……」 あの日の会話は今でも篤の心の片隅に引っかかっている。 廃牛を解体するのは仕方ないと言わんばかりの言い草。あまりに郁らしくない割り切り方は、逆に覚えた違和感は胸のわだかまりになりつつあった。 それを聞いて、ふたりは苦笑しながら唸った。 「それは……郁は優しいからな」 「優しい?」 「そう、優しすぎんだよ。だからわざとシャットアウトしなきゃやってられんの」 それは割り切る事とどう違うのか。 「例えば犬のハヤトがいるだろ」 ハヤトとは、子牛を授乳の為に母牛と離して別小屋に移している間、キタキツネが寄り付かないように番犬として飼っている秋田犬だ。大きくて頼もしい。 「ハヤトは家畜じゃなくてペットだよな」 「うん」 「だからハヤトには名前を付けた。付けたからにはペットとして全力で可愛がってるし、たぶん死んだらめっちゃ泣くのな」 「……」 ペットの為に泣く郁なら容易に想像出来た。それがなぜ牛では仕方ないのか。 「家畜は俺達にとって家族みたいなもんだけど、あくまで家族じゃない。生きる為の糧だ。持ち物だ。だから愛着を持たないように名前をつけない。だからって何も感じない訳じゃない」 解体に立ち会った克宏。同じく付き合った篤を労う彼こそ、たくさんの複雑な感情を抱えていただろう。 だけれど今、解体にまで付き合うのが彼なりの愛情なのじゃないかと思えた。最初から最後まで、生命の責任を持つために。 「郁はああ言うけど、絶対解体には付き合わないぞ。見てられないし、もたないから」 「……」 「でも自分の感情に相手を引きずり込むのは嫌なんだよ。だから割り切るフリをする。ホントは内心一番嵐になってんのは、たぶん郁なんだ。そういうアイツも、認めてやってくんねーかな」 少し困ったような、そんな中兄の顔を見て、堪らなくなった。 今、凄く郁を抱きしめてやりたくて。 |