青が遠くなった空は、その分澄んでいて濁りがないのが好き。
キンと冷えた真冬の空に白い塊を浮かべ、代わりに目の覚めるような空気で肺を刺激した。低血圧だけど、窓を開けて朝一番のこれをやらないと気合いが入らないのだ。
あんまり長い間そうしていると、後ろのルームメイトから情けない抗議が入った。日頃から体温の高い親友は、起き抜けの寒さに滅法弱い。新陳代謝が無駄に高いんだから、動きなさいよ、とは言えなかった。

昨日は夜半に抗争があった。そのおかげで郁も、郁を起きて待っていた柴崎も若干寝不足である。しかして本を守るための名誉の寝不足と思えば、なんとなく我慢もできるだろう。
「笠原、あたしもう出るから」
ん、と短く返事をしながらのろのろと起き出す。すらりと長い脚をベッドから降ろして立ち上がると、すでにドア口に立っていた柴崎の手前まで寄ってきて、へにゃりと気の抜けた笑顔。
「いってらっしゃい、柴崎」
「行ってきます、笠原」
たったこれだけのやりとりだけれど、お互いが時間違いで出る時の暗黙の約束のようなものになっている。だがこれがあるから、何かがあっても帰ってくるのはこの部屋なのだと信じていられるのだ。
まだ寝癖の残る柔らかそうな栗色の頭、柴崎の背ではその天辺に届かない代わりに、郁の桃のような頬を摘んだ。即座に上がる作った悲鳴に笑って、今度こそドアを開ける。
そうしてもう一度呟く、いってきます。このささやかな幸せがいつまで続くか分からないけれど。いつかあの男に攫われる幸せだとしても、今は自分の為の物だから――――。









仕事が始まれば時計は感覚ではなくて、確認するものになる。陽の光の量や柔らかさ、空気の匂いとか。そんなものが遠くに感じる。
今でこそ東京に馴れたが、実家に住んでいる頃は環境のおかげもあってか、四季の折々がもっと身近に感じられた。
新緑の勢いに伸びる青。生命の躍動激しい灼熱の橙。新たな芽吹きをひっそりと囲う優しげな赤。そして無音なる白の季節。一年はそうして巡って振り出しに戻るが、ひとつとして同じものはなかった愛おしい月日。
そしてそれを想うと同時に蘇るのは、小さかった頃の記憶だ。
思えば人の中が苦手な柴崎は、よくひとりで、あるいは親兄弟と近所の日本庭園で遊んでいた。他人の中にいれば好き嫌いの感情が湧く。それを上手くかわしていく技術も度量もなかった幼い日、ただ泣いていた自分はなんて子どもだったのだろう。
その頃に比べれば今は――――。

そんな事を徒然と思い出しながらぼんやりと書架整理をしている、そんな途中で見慣れた栗毛の後ろ姿を眼下に発見した。それだけで広角が柔らかくなる。

笠原郁という子は本当に向日葵のような子。

ひたむきに前だけを見て、自然と周りを明るくしてくれる。どんな季節が通り過ぎようと彼女を枯らせる事など出来ず、男前な乙女は関わる人達を守り、また人に護られる。
かく言う柴崎だとて、出会った頃はこんなにも大切な友人関係を築けるとは思っていなかった。否、友情は作るものではなく、繋がる事だと教えてくれたのは彼女だ。


声を掛けようとして、出かけた声が引っ込んだ。
首を傾げながらレファレンスをしていた郁の表情が、一変して明るくなる。その視線の方向には堂上――――。
郁に気づいた堂上が訓練速度の歩みで近づくと、何やら身振り手振りをしている郁にため息をつきながら、レファレンス中の利用者を美術書架まで案内した。辛うじて柴崎にも行方が追える。
堂上は利用者に話しかけながら二冊程の画集――――書架の位置からして、美術作家のカタログ・レゾネだと思われる――――を引き出し、それを渡した。利用者はパラパラとページを捲ると、破顔して何度も頷いている。納得するものが見つかったのだろう、軽く頭を下げると、早足で自習室の方へ向かった。
郁と堂上はしばらくその後ろ姿を見守っていたが、不意に堂上が郁をひと睨みしたのが見えた。慌てる郁。そんな彼女に何か小言を言った後、堂上は柴崎の大好きな栗毛に掌を弾ませた。頬を染めて俯く、郁。


――――嗚呼……。


いつかこうなると分かっていたのに。郁が入隊してきてから今日まで、最初からこのふたりが交際に至る事が道づけられていたのを知っているのに。
昨夏、大事件を乗り越えて実った恋心を祝福したのは自分。心の底から祝福したはずだったのに、今はいつか郁を攫っていくであろう堂上がこんなにも憎いだなんて。
所詮向日葵は太陽を好む。太陽だけに手を伸ばし、その方向しか見ないのだ。決して決して郁は柴崎の方を振り返らないだろう。
無意識に握りしめた拳に、爪が食いこんだ刹那、

「――――柴崎」
「……ッ」

ハッとして呼ばれた方を見れば、そこにいたのは手塚だった。

「なに?」
「般若みたいな顔してたぞ、お前」
「は……ッ?こんな美人捕まえて般若だなんてアンタねぇ!」
一瞬でも素を見られた事が悔しい。悔しいのに、こいつだったからまあいいかだなんて。そう思ってしまう自分に驚く。
郁以外に、しかも男にだなんて、こんなの――――。
「また笠原か?」
ふたりはまだ美術の書架で何かを話し込んでいる。レファレンスとしても特殊な分野だからか、後学のアドバイスをしているのかもしれない。
それ以上に柴崎を複雑な想いにさせたのは、郁を見る堂上の視線の柔らかさと、堂上を見る郁の視線の熱さかもしれない。どこまでいったらお互いがそんな眼差しで相手を想いやれるのか。
そしてふたりはお互いしか見えていない、まるで太陽と向日葵。
「――――」
その間に割り込むわけでもなく、柴崎にあるのはただ郁にこちらを向いて欲しいという欲ひとつ。
まるで恋に似ているけれど、これは恋じゃない。理屈抜きにして、ただ郁の一番いい笑顔を一番側で見たいだけ。それだけで、柴崎は赦された気になれるから。


いつの間にか朴念仁の同期が隣りに立って同じ方向を向いていた。
「……別にね、堂上教官になりたいわけじゃないのよ」
誰にともなく、手塚なら相槌も打たずにただ聞き流してくれる事を知っているから。
「花は光に向かって育っていくでしょ?だから仕方ないのよね。あたしはどう頑張っても太陽っていうより月の役所だし」
「自分から月とか言うか、普通」
「夜の女王とか?まあ、間違いなく表舞台に出るような物には向いていないわよね」
月を仰ぐ向日葵などいない。項垂れ、月に見せてくれるのは萎れた姿。
情けない顔も泣き顔も、たくさん見てきた。泣き言も全部。
それでもやっぱり太陽には叶わない。一番の笑顔は、太陽にのみ捧げられるんだ。
「――――俺は月も、好きだけどな。綺麗だし誇り高い感じがして」
隣りの男の言葉に唇を噛んだ。チクショウ。素っ気ない声音が、逆に響く。
「綺麗っていうけど、近づきすぎたらホントはクレーターでボッコボコなのよ」
「見慣れりゃどうってことないだろ。中身の方が酷いしな」
「…………結局慰めてんの、貶してんのアンタは」
「笠原は気にしない」
「…………」
だからなんだって言うのだ。そんな事はわかっているのに。



こちらに気づいた郁が大きく手を振って合図してきた。嬉しそうに、一番の笑顔で。その様子を堂上が苦笑しながら眺めている。
柴崎も小さく手を振った。向日葵は、月にだって優しいから。
「ほらな」
やや得意気な声音が癪に触ったが、黙っておく。そのまま知らん振りして笠原の元に歩を進めた柴崎は、だから手塚の呟きなど耳には入って来なかった。




「向日葵は周りに元気をくれるけど、いつも優しく見守ってくれてる月も、好きだよ」


その想いも、まだ遠く――――。







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