雪像は無残、勿論先っぽを削がれたおっぱい雪像を急遽別の物に作り直すも間に合わず、当然のように目指した温泉旅行券獲得は夢の泡と消えてしまった。
そして後に残ったのは、郁と篤の深い溝だけである――……。













「……おはよう」
「……オハヨウゴザイマス」
それでも郁を職場に送迎する習慣は変わるわけでもなく、ただただ気まずい雰囲気で車中を満たしながら粛々と篤はハンドルを握る。
郁も郁とて、朝と迎えの挨拶ぐらいしか言葉を発しない。それ以外はむっつりとひたすらに窓の外を睨んでいるのだ。そんなに睨んでも見えるのは遥か遠くまで続く雪原と雪山と、悪戯に運転手を脅かす蝦夷鹿、キタキツネぐらいのものなのに。
「いってらっしゃい」
「はい」
目線を合わせることもなく職場の通用口に消える彼女の後ろ姿を眺めながら、篤は深い深いため息を零した。

喧嘩の原因はわかっている。いや、これは喧嘩ではない。一方的に郁が怒って取り付く島もないわけだが、篤の方も配慮に欠けていたことは確かなのだ。
だからっておっぱい雪像に罪はないだろう。
郁が自分の貧乳具合を気にしているのは、なんとなく察している。だからって雪像に嫉妬とか、ありえない。ありえないけど……。
「――――はぁ〜……」
その事が郁を傷つけたのは確かで、だからどう弁明すればいいのかわからなくて困っているのだ。
雪像事件から約一週間強。その間、クリスマスにプレゼントした、ハートモチーフのついた指輪を外さないでいる事が辛うじて篤の挫けそうな心を支えているが、それが消えない保証などどこにもない。
もし、郁が指輪を外してしまったら――――……。
想像しただけで、苦しくて胸が締めつけられた。







毎日がこんなに憂鬱な事って、今まであっただろうか?
昼休憩に入ってロッカーからバックを取り出す。お弁当、水筒、それから携帯電話。篤からのメールなんて……ないに決まってる。
その代わり珍しい人から不在着信があった。その名前を見たら、いてもたっても居られなくて、すぐに通話ボタンを押していた。








「……おせぇな……」
車中の篤の呟きは真っ暗闇の空に瞬く間に吸い込まれた。雪の上に降る夜空はその白さとの対比も相まって、とてつもなく深く恐ろしく感じる事がある。
どうせならこの気持ちも不安もわだかまりも全て吸い込んでくれればいいのに。
郁がいつまでも隣りにいてくれるわけじゃない、そんな怖さを今実感している。些細な事で溝ができ、距離が空き、恋愛はなんて脆くてあっけないのだろうか。
身体を繋げていれば少しは違うのだろうか?いや、たぶん変わらない。心が繋がっていないと、何にもならない。
だから早く仲直りしたいのに、きっかけを見つけられないままズルズルと来てしまった。
自分の情けなさに心底嫌気がさしている。
もう一度郁と手を繋げるなら、なんだってする。笑顔の花を咲かせる為ならどんな事だってする。だからチャンスが欲しいんだ――――……。

だが思っているだけでは何も変わらない。言葉にしなければ何も伝わらない。

ぼうっとしながらハンドルの上で手を組んでいた篤の意識を引き付けたのは、窓を叩く音だった。
郁か?
しかしようやく出てきた彼女を迎える為に助手席側にに身を乗り出した篤を待っていたのは、郁ではなく、郁と一緒に働いている顔見知りのおばさんだった。少し落胆しながら窓を開ける。
「こんばんは」
「はい、こんばんはぁ。堂上くん、郁ちゃんの事待ってんのかい?」
「はあ、一応……」
この人が出てきたなら、そろそろ郁も出てきそうなものなのだが。
だけれども、そうではなかった。
「あらまあ、連絡してなかったのかねぇ?あの子なら仕事終わった途端、すぐ出てったんだよぉ」
「――――え?」
「友達とご飯食べに行くって言ってたわ」
友達と。
「そう……ですか」
礼を言ってから、のろのろと車を走らせた。
行く宛など頭に浮かばないけれど、このまま家に帰る気分にはなれなかった。



友達と飯を食いに行く。
郁の事だ。気まずくて会話する機会を逸したまま、篤に言いおくのを忘れたのかもしれない。
それとも篤にわざわざ報告するまでもないと思ったのか?
友達が女友達とは限らない。もし男だったら――――。

一度昏い思いに囚われると、そこからはブレーキが効かないものだ。

郁、今どこにいる。
それを知る権利は、まだここにあるのだろうか――――……。



どんよりとした泥濘に飲み込まれそうな刹那、篤の携帯電話が闇の中に光った。
液晶のディスプレイには、郁の名前が浮かび上がっていた。
「郁か?」
震えそうになる声は、張る事でなんとか誤魔化せたと思う。何せ久しぶりにサシで会話をするものだから、変な緊張があった。
しかし郁からの返答はない。代わりにガヤガヤと騒がしい音を耳が拾う。かなり賑やかな感じだ。
この小さな町で、この時間に人が集まる場所などたかが知れている。というか、居酒屋自体が片手でも余るぐらいしかないから、特定するのは簡単だろう。
「郁ッ」
もう一度名前を呼び掛けるが、返答がないままプツリと通話か途切れる。



その場所がどこかわからないなどと、悠長な事は言っていられない。
居てもたってもいられなかった。



湧き上がる不安がアクセルを吹かせる。唸りを上げたタイヤが雪道に深く轍を作りながら、滑る町道を急発進した。







「そんでぇ〜、そゆときってさぁ〜、あさこはぁどーしてんのぉ〜?」
ぐでんぐでんのクラゲになりながら居酒屋の脂色ローテーブルに突っ伏した郁は、いよいよ呂律も怪しくなってきた。頬をぺたりとつけているという事は、少なからず涼を求めているのだろう。果たして自分が酔っ払っている自覚はあるのかしらん?
初めて一緒に酒を飲んだ柴崎は、だがしかし郁の予想を上回る下戸っぷりに驚きとめんどくささを禁じえなかった。こりゃあ堂上になんと言われるか、今から覚悟をしておいた方が良さそうだ。
「ちょっと郁、アンタそろそろアッシー君呼びなさいよ」
ぐでんぐでんになっていく郁のカバンからスマホを取り出して目の前につきつけると、物凄く嫌そうな顔をした。
仲違いの理由はもう散々聞いた。だからと言ってこんな郁をどうやって家に帰すかというと、そこは専属タクシーを呼びつけるしかない。柴崎もそれなりに酒を飲んでしまったから、車で送るわけにもいかないのだ。
「アシって、いくらあたしのあしがデカイからって、しつれ〜!」
「ええい、この酔っ払い!あたしが代わりにかけてあげるわ!」
「ら、らめぇ〜!あしゃこらめぇ〜!」
一度は通話をタッチしたものの、そこはさすがにリーチの差で奪われた。チッ。
「ど〜してそゆことしゅるのぉ〜」
「アンタ、そんなフラフラな状態で家に帰りつけるわけないじゃないの!あたしももう運転できないんだからねッ」
「じゃああしゃこんち、とまりゅ」
「今日は実家に泊まるから、だ・め」
「けち〜!」
「なんとでも」
「あしゃこのけちんぼ!しょんでとくしたぶん、おっぱいにためこんでりゅからこんなにおっきいんでしょッ」
「胸のでかさは関係ないっつーの!」
完全なる酔っ払い。
しかし胸を揉まれても可愛いとか思ってしまうのは、郁だから……いやいや百合の気とかねーし!つまり柴崎自身も酔っているという事だ。
傍から見ればさぞカオスな光景だろう。
スラリとしたモデルのような童顔女性が泣きながら、友人と思しき美女の胸を揉んでいる。揉まれている方もまんざらではない様子で、見守っていた周囲の客全員が固唾を飲みながらそっと横目で観察していた。イケナイ彼女たちの世界に横槍を入れる者など――――……。


「いい加減にしろ、この酔っ払いども!」


――――いた。

「きゃあ」
「あ〜ん、あしゃこォ」
突然乱入してきたその男は、素早く会計を済ませるとふたりにコートを着せてモデル風の方を抱き上げる。当然の如く暴れる女性をものともせずにもうひとりの腕を掴むと、さっさと店の外に消えていった。
あとに残された店員と客はぽかんと口を開けたまま、きっちり五分が過ぎたあたりで我にかえり、決まり悪げに酒を飲み始めたという。





店を出ると、路駐していた軽トラックの助手席に郁を放り込んで柴崎を見る。
「送るか?」
ぶっきらぼうに問うと、柴崎はあっさりと首を振った。
「郁にも言ったけど、あたしの実家ここから近いんで」
「そうか」
「あとですねぇ、もう少し彼女の不安なトコ察してあげて下さいな」
「……」
「堂上さん、あたしが郁に選んであげた下着みました?」
「!」
柴崎が大兄嫁行きつけの下着屋に勤めているのはこの間の買い物でチラッと見たが、郁が下着を買ったのまでは聞いていない。と言うか見てさえいない。見ていいのか?めちゃくちゃ見たい……!
「その様子じゃ見てないんですね。あの子ね、別にアンタとそう言う関係になるのは嫌じゃないの。でも不安の方がおっきいだけ」
しかし堂上には、その不安とやらが全く検討がつかないでいる。
この前のおっぱい雪像が直接の原因ではないのか?
その証拠に一度だけ誘った外泊デートには、恥じらいながら応じてくれたではないか。その時は郁の中で不安よりも期待の方が大きくて、今はその逆という事なのだろうが……。
「ひとつだけヒントあげますね。郁、貧乳で申し訳ないって何度も呟いてましたけど?じゃ、あたしはこれで」
「なんだよ、それ……」
酔っているとは思えない軽やかな後姿を眺めながら、小さな溜息を零した篤は運転席に乗り込んだ。



郁はどうやら半分ぐらい覚醒している様だ。
ぶすっと唇を尖らせて頬杖で顔を支えながら真っ暗闇の車外を睨みつけている。そんなに見たって周りには何もないのに、ただただ篤と視線を合わせたくないのだろう。
正直気まずかった。しかし色々話を聞くのなら、狡い手だけれどアルコールで感情の制御が効きにくい今を逃したら、恐らくこの先もずっと平行線を辿るだろう。それは耐えられなかった。
「――――なあ」
「……なぁに」
「ごめん」
「にゃにが」
「だから俺の事怒ってんだろ」
「……にゃんでそう思うの?」
「いや、だから。……雪像のせい?」
己の行動を思い起こし、そして柴崎の言葉と照らし合わせたらそれしか出てこなかった。
確かにあの雪像は見事にたわわな巨乳を型どっていたさ。だがしかし所詮は雪像で、いくら郁が貧乳だからとて、その裸体の神々しさの足元にも及ばないだろう。ただし未視聴だけれども。
「……しょれだけじゃにゃいもん」
だが郁の不機嫌は治らないまま。ますます顔を背けてしまうものだから、じっくり話をする為に国道を外れた雪捨て場に車を滑らせた。そして焦れた篤が郁の肩を引き寄せる。
郁は、しかしポロポロと涙を零しながら抱き締められる事を拒むように、両腕を突っぱねる。
「言ってもらわんとわかんねぇよ!何にムカついてんだッ」
「だから篤しゃんはきょぬうの方がいいんでしょ!」
「どこをどうしたらそうなるか!」
「雪像もエッチなでーぶいでーも胸の大きい娘ばっかりだし、牛のおっぱいも毎日揉んでるじゃないの〜!」
「……!」
雪像は篤の一存ではないからなんとも言えないが、AVについてはたまたまだ。そして運悪く郁に目撃された現場で観ていたのは、中兄の洋物である。
「牛にまで負けてあたし……」
「違う!誤解だそれは!牛の乳は最近変なシコリがある気がしたから、気になって撫でてただけた!」
ホルスタインに惚れるのは乳じゃねえ、臀部のラインこそ至上!
きょとんとした表情で篤を見返してくる郁があまりにも可愛い。
久しぶりに抱き締められる距離にいてくれる彼女に、篤の感情が振り切れて、気がついたら唇を奪っていた。
「ん……ッ」
「郁……郁、好きだ」
触れるだけの口づけを何度も重ね、吐息に混ぜて滅多に告げない感情を伝える。いつもなら気恥ずかしくて言えないが、今言葉を惜しんで郁の信用を失くすぐらいなら、篤のプライドなどちっぽけなものでしかない。
「あつ、しゃ……あ!」
郁のか細い悲鳴が上がったのは確信犯。
なぜなら郁のコートの下に忍ばせた篤の掌が、服の上からささやかだが柔らかな膨らみを包み込み、ゆっくりとその形を確かめていたからだ。
「郁……可愛い」
「ぁ、……ちっちゃくて、ごめんなしゃ……」
「郁の胸じゃなきゃダメなんだ」
「でも」
この気持ちをどうすれば伝えられるのか。
郁の胸を触ると気持ちいい。揉むと興奮する。それを――――……。
ゆっくりと震える郁の手を取る。
「――――!」
郁が息を飲んだ。衝撃か驚きか、その両方なのか。
「……わかったか?」
確かめる篤に、真っ赤に頬を染めた郁が頷いた。
郁の手が触れているのは、篤自身。そこは熱さと硬さで篤の興奮を如実に伝えた筈だ。
次第に篤の指が大胆になり、キスが激しさを増していく。最早ここが軽トラックの中である事を失念し始めた頃、篤のスマホが着信を知らせた。このタイミングで!
「……はい?」
やや不機嫌になったのは致し方ないだろう。相手は大兄で、今どこにいるのかと問われた。時計を確認して、ようやく結構な時間が経っている事に気づいた。
ヤバイ、危なく軽トラにも関わらず止まれない所だった。
「今から帰るわ」
そう言って電話を切ると、まだぼんやりと夢見心地の郁に触れた。とうとう、ガラス細工ではない生身の一部に。嬉しくて思わずにやける。
「続きは、今度な」
「……」
恥じらいながらしっかり頷いた郁に気分を良くしながら、約束のキス。
名残惜しく離れてエンジンをかけ始めた篤だったが、ライトを点けると周囲の光景に絶句する。
車の外は、鹿、鹿、鹿――――……。

いつの間にか軽トラックは、蝦夷鹿の群れに囲まれていたのだった……。



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