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合意が取れたからと言って、じゃあ致しますかといけるほど現実は甘くないものである。 まず彼女は実家住みだし、篤は彼女の実家の離れに住み込みをしている点。しかも変に気が利く彼女の兄たちと同居しているから、どちらかの部屋で、という訳にもいかない。 ではご休憩所という手段もあるのだが、可愛い彼女のハジメテをそんなチープな場所で奪ってしまうのもいかがなものか。そもそも田舎過ぎてご休憩所の類いを見かけた事がないのだが。 そして極めつけが天気だ。 ここ数年の北海道に置いて真冬の悩みと言えば、急激に発達する爆弾低気圧に他ならない。 おかげで猛吹雪による交通麻痺もさることながら、決して軽くはない大雪のせいで除雪が追いつかないわ老朽化した建物が潰されるわで、踏んだり蹴ったりなのである。真冬だからとて、いつもならパウダースノーにしかならない雪も、この時はかりは水分を多く含んだ雪しか降らないから厄介なのだ。 大雪と一概に言うが、実は雪が多い時は気温が僅かに上昇している時だけ雪の降り方が多いと篤が知ったのは、まさに北海道に住み始めてからである。 そしてこの時ばかりはシフトも関係なく、家族総出で雪投げをしなくてはならない。何せ酪農家には人間の家族の他にも、家畜と言う家族を抱えているのだから。 つまり、今の所ふたりにとって最大の敵は、思い通りにならない天気なのだ。 せっかく温泉宿に予約を入れても悪天候でキャンセルしたのが今までに二回、これはもう暫くお預けしておれという天からのお達しなのだと思わなければやってられない。いや、ホント、勘弁して……。 「何考えてるの、篤さん?」 せっかく郁の部屋で話をしていたのに、一瞬ぼうっとしてしまった。勿体ない。 隣同士でベッドに腰掛け、今まで置いていた距離を埋めるようにぴったりとくっついて。おかげで郁のほのかな花の香りが篤の鼻を擽って仕方ない。誘われるように首筋に顔を埋めたい所をぐっと我慢して、代わりに手を握って指を絡めた。彼女の実家で無体は御法度。ていうか、更に事業主の娘さんだし。一方間違えれば解雇だし追放だし。 ふたりきりの部屋のドアを少し開けておくのも、エチケット以上に意味があるのだ。さもなくば、ドアを閉じた瞬間に郁の全てを奪ってしまいそうで。 「ほら、また」 困ったように眉を寄せながら、遠慮がちに頬をつつかれた。付き合って暫く経っても、積極的に自分からスキンシップをとるのが恥ずかしいのか苦手なのか。だがその初々しさもなんとも言えず堪らないのだといくら伝えても、きっと理解はしてもらえないのだろう。 「雪、酷いな」 「そうだね……」 「来月んなったら、俺、ちょっと忙しくなるんだ」 「――――そうなの?」 「でも温泉、いつか行こうな」 ふふふ、と忍び笑い。 「行けるかな〜。大兄ちゃんの結婚式のが先になるかもね」 デキ婚の大兄たちは、とりあえず籍だけ入れて結婚式を挙げていない。義姉は子どももいるししなくてもいいと言ったけど、大兄が身内だけのでもちゃんとしようと密かに年末から計画を練っていたのだ。六月のジューンブライド。 その頃には乳牛の出産時期も終盤に差し掛かっているだろうし、落ち着けば近場なら結婚式を挙げられるという目論見だ。 そして遠慮をしていた義姉も、やっぱり嬉しそうにしてドレスを選びに行っている。十分小さくて細いのに、綺麗にドレスを着るためにダイエットをするんだと張り切っていた。 「結婚式、羨ましいか?」 「そりゃまあ、一応オンナノコなんで」 上目使いで篤を伺ってくる郁が可愛らしい。その左手薬指に控え目に光る華奢な指輪をこっそり撫でた。篤が贈った初めてのプレゼント。 いつかここに本当の証が嵌ればいいと思う。恐らく郁は嵌めてくれるだろうけれど、こればかりは最後までわからないから。 強風がガタガタと窓を揺らす。外はまだ真冬の気温だけれど、こうしてぴったりと寄り添っていれば気温など関係なかった。 ――――ずっとこうしていたい。 ただ寄り添うだけでは物足りなくて身体に不都合が生じるけれど、何も言わず他人と隣り合わせになって居心地がいい奇跡は何物にもかえがたいものである。 「郁」 ため息のように呟けば、同じような応えが来る。 明日も明後日も、ずっとずっとその先も。 この幸福が続きますように。 「――――今、なんか聞こえなかったか?」 「えッ?……え〜と……」 珍しく泳ぐ郁の目線。 耳を澄ませば、微かな喘ぎ声。これは――――。 「夫婦って、凄いよね……」 郁の感嘆は隣部屋の兄夫婦へのもの。 だがしかし、その感想は明後日の方向だと思うぞ……? だけれどそう思う反面、これなら彼女の実家であったとしても胸のひと揉みぐらいなら許されそうだな――――などと思う篤。 ゴクリと喉が鳴った……。 ※ 郁から貰った、初めて作ったと言うバレンタインチョコを口に放り込みながら、篤は黙々と書類を書いている。 年度末に向けて色々と忙しくはなるが、これも夢への足がかりと思えばなんともない。 ――――ただひとつ。 将来に対する不安は消えてなくならなかった。それと同時に、郁との未来を考える。 郁にはまだ何も話してはいない。 話すのが怖い。納得してくれるとは思うが、絶対の確証がないだけになかなか口が重かった。しかし話さないわけにはいかない。 結局 うやむやなまま、時間だけが過ぎていくのだった。 ※ 「郁、今度はこっちの仕上げしてちょうだい」「はぁい」 塩コショウに少しの醤油。ざっと炒めて小皿にとり、味を見る。――――何かが足りないような……。 「ちょっとお味噌入れてご覧なさい」 「あ、そか。ありがとう、お母さん!」 今年に入って、時間があれば郁も台所に立つ場面が増えてきた。切ったり剥いたり、難しい事はまだ出来ないけれど、基本となる下地は着々と身についてきた気がすると自画自賛。 「郁もエプロン姿が板についてきたわね〜」 寿子が郁に家事を身につけさせる思惑には素直に乗れないが、覚えておいてきっと損はないだろう。 「そうかな?お店でもつけてるし」 「お家とお店じゃあ違うでしょ」 核心的な事はお互い避ける。それはあまりにもデリケートで不確定な事案だし、そもそもそういう約束めいた事すらない。今は寄り添っているだけで精一杯なのだから。うん、今はそれだけで幸せ――――。 「ところで篤くん、車決まったのかしら?」 「……は?」 今なんと言いましたか? しかし郁の動揺など全く気にかける様子もなく、寿子は鍋の火を止めて氷水で粗熱を冷まし始めた。煮物は冷めてから味が染み込むからだ。 「だって車買わないとどこも行けないじゃない」 逆に疑問顔で返された。 「え?だってうちに車あるじゃん」 「うちの車、いつまでも貸してあげられないじゃない」 「……意味わかんないんだけど……」 まるで……まるでこの家から篤がいなくなってしまうかのような言い草ではないか。 なんだそんなの、全然聞いていない。篤は何も言っていなかったのに、郁の知らない所で何かが進んでいるような。 「あなた、聞いてないの?」 聞きたくない。それは、きちんと篤の口から聞かなければならない事柄だ。だから――――。 「篤君、春から独立するのよ」 足元がぐらついた気がした。 今、なんて? 耳を塞ぎたいのに情報だけは勝手に入ってくる。 ここから車で五分ほど離れた所にある稲嶺牧場が、離農の為に廃業する事。 牛は何頭か残していくので、それを住宅込みで全て篤が引き継ぐ事。 これは去年の春の段階である程度決まっていたという事――――。 郁にとっては寝耳に水だった。 そんな事、篤は一言も言ってくれなかった。 春からも今までと変わらず、一緒にご飯を食べて一緒にテレビを見て、呼べばすぐ届く距離にお互いの存在を感じられたのに。 「あたし、――――ちょっと部屋に上がるね」 「調子でも悪くなったの?」 「うん……」 歯切れ悪く台所を出ると、自室に入った途端スルリと脱いだエプロンを手荒く壁に投げつけた。 |