どうして教えてくれなかったの?

車を買う事を。
独立する事を。
離れて暮らすって言う事を――――。















三月に入れば何かと気忙しいのは、年度末のせいだろうか。
しかし今の篤が忙しい理由はそれだけではなかった。
稲嶺牧場は一応二月一杯で廃業となり、今は実質売地となっている。その売買契約だなんだと打ち合わせをして書類を制作。そのうちにバイヤーから篤の条件に合いそうな新古車の情報が入ったものだから、他の買い手がつかないうちに急いで隣町まで走ったり。
とにかくなんやかやで走り回っていた間、郁の送り迎えは中兄に頼んでいた。だからここしばらくはまともに彼女と顔を合わせていないのだ。
早く来月からの事を話したかったが、どうもあちらも何かあるのか、わざとタイミングを外されている感がある。考えすぎか。
スマホを操作しながら郁の事を思い浮かべて――――それから頭を振って画面の確認ボタンを押した。もうキャンセルは出来なさそうだが、後悔する暇があれば少しでも早く郁と話をすればいいだけだ。

ようやく諸々の目処がついたのが、ホワイトデー前日。
スマホを起動させたまま、篤は電話帳から郁の番号を呼び出して、しばし逡巡した後に思い切って通話ボタンを押してみた。


『――――はい』
「郁、俺。篤」
久しぶりにまともに聞く郁の声。
「今どこ」
『柴崎のトコ』
「買い物か?」
『じゃなくて、柴崎も休みだったから』
ああ、つまり柴崎の自宅に遊びに行ってるのだろう。郁ひとりということは、実家の方か。職場のある隣町まで、冬の季節じゃなくても郁の運転で行くのはかなりのリスクを要する。はっきり言って保険を見直させて欲しいレベルで。
「……まだ帰らないのか?」
この後の篤には少しの休憩時間があるが、それが済んだら夜まで牛舎のシフトが入っている。
『――――もう少しで帰る』
「迎えに行ってもいいか?ちょっと話があって……」
『あたしも。話あるから、迎えに来て』
「わかった」
待ち合わせを確認して、車のキーを借りる。この車を運転するのもあと数えるくらいかと思うと、どこか感慨深かった。


待ち合わせの場所に車を滑らせると、郁はすでに立って待っていた。
「待たせてすまんな」
「今日は暖かいから大丈夫」
いつものように軽トラの助手席に乗り込んだ郁。
じっとその動作のひとつひとつを確認するが、なぜか顔だけは窓の外を向いたままだった。まるでいつかの再来か、これはかなり機嫌が悪いらしい。
乱暴に髪の毛を掻きながら、しかし今日の篤は不退転の決意であるからして、なんとしても話を聞いてもらわねばならないのだ。その為には多少へそを曲げられたくらいで、こちらも不機嫌になってはならない。自分の葛藤も何もかもをねじ伏せて、あくまでも冷静にならなければ。
「――――郁」
「……」
返事がないのは端から織り込み済みだ。構わず篤は話を続けた。
「この前、三月になったら忙しくなるって言ってただろ」
「……」
「あれな、稲嶺牧場が廃業した後、俺がそこを買い取って新規就農するからなんだ。……だから今、準備とかでめちゃくちゃ忙しい」
こっちを見なくてもいい。とりあえず話だけでも聞いてもらいたい。
「来月……今月末には稲嶺さん家に引っ越す。あっちはちょっと離れた町で公務員してる息子さんと同居するんだって。家具とか生活用品を結構置いてってくれるから、あとは細々したもん揃えればいいだけだし……」
ここまで話すも郁の姿勢に変わりはなく、ずっと篤とは反対を向いたままだ。
少しだけ気持ちがしょげたせいで篤も一瞬俯いて、だが持ち直して頭を上げる。
そしたら――――。

「なんで教えたくれなかったの?」

ようやく合わせた視線の先には、琥珀の瞳に大粒の涙を浮かべて今にも零しそうになっていた郁が。
その涙を拭おうとして上げかけたが、思い直した掌は太股の上に落ちた。
この手はまだ、許されていない。まだ郁を慰める資格を貰っていないから。
「去年のうちからわかってたんでしょ?だったら教えてくれてたっていいじゃない」
喚くでもない極力抑えた物言いは、きっと郁自身も感情的になってはいけないことを理解しているからだろう。
「――――なかなか言い出せなかった」
「なんで?」
理由なんかこっちが聞きたいぐらいだ。ただ言いだしずらかっただけだから。
「……なかなかセックスさせない彼女は、もういらない?」
そうやって目を逸らされた瞬間、反射的に篤は引こうとしていた郁の手を握った。
「……ッ」
「なんでそうなんだよ、阿呆」
確かに関係を進められずに焦れていたのは事実だが、それとこれとは論点が全く違う。どうしてそう思ったかなんて思考の詮索は予想がついたが、逆にそんな風に見えていたのかと若干のショックと反省が同時に襲ってきた。
「もういいから、あたしの事なんて」
「もういいとか言うなよ。俺には郁が必要なんだからッ」
しかしきっといくら言葉を重ねた所で、郁にとっての真実には程遠いのだろう。
何を置いても、この複雑で繊細な彼女の気持ちがまず一番である。欲しくて、喉から手が出るほど欲しい郁の心を、まずはこちらに向かせたかった。
「いいか、郁?ちゃんと聞いてろ」
「……」
だんまりだが目は逸らされていない。良かった。胸を撫で下ろす。
そして小さく深呼吸をして、篤は真っ直ぐと郁を見つめた。
「郁……」
鼓動が駆け足になる。
「…………」
逃がしたくない。逃がさない。
「今じゃなくていいけど、その……俺と」
口の中が異常に乾いている。
「…………」
言葉を吐きかけて止めて、舌で唇を湿らせながら呼吸を整えた。よし。
「郁」
気持ちを込めて。


「今じゃなくていい。いつか俺と……俺と一緒にイクの搾乳してくれないか?」


言い切った。やった!やりきった!
得も言われぬ達成感に高揚しながら郁を見つめると、


しかし思いの丈をぶつけられた郁と言えば、なんとも言えない死んだ目をして篤を睨んでいた――――……。







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