駆け足で通り過ぎていった年末の日々にサヨナラすると、待っているのは怠けるくらいに穏やかな正月だ。
三十日から休館となる武蔵野第一図書館も他聞に漏れず、この日から仕事はじめまでの休暇を思い思いに楽しむ業務部員は少なくない。
もちろん柴崎だってその一人だった。







「悪いわね、年末年始もきっちりシフト入ってる誰かさんと違って休みもらっちゃってさ」
実家へ帰省するための荷造りを楽しそうにしている柴崎を他所に、だらしなくコタツに寝そべっている郁は気のない返事を返した。
「別にいいじゃん、業務部員みんな休みなんだし」
「それは、そう、なんだけ、ど!」
小さなキャリーバッグにぎゅうぎゅうと詰め込まれた荷物の量は結構なものだ。
だがその中身はと言えば、柴崎自身のものは案外少ない。美人は荷造り上手と常日頃から格言のように宣う彼女は宣言通り、ではあとの半分はと言えば、家族へのお土産で埋められているのだ。
普段はクールなフリをしているが、実は家族想いな所が郁はかなり好きである。

対する郁は、大晦日と三が日はきっちりシフトが入っていた。
今日は公休だが、明日から数日は普段と変わらず出勤だ。と言っても、図書館自体が休館であるからしていつもよりやる事は格段に少ないのだが、そういう時こそ忙しい場面に備えて余裕を作っておく必要がある。
さし当たって郁がやる事は、少しだけ滞っている書類作成だとか、新刊本の配置を覚える事だとか――――まあ、色々ある。
何よりほかの人と違って揚々と帰省するかという気持ちがあまりない分、仕事を理由に出来るのはありがたかった。

――――年末年始に仕事なのが嬉しい理由は、ほかにもあるけれど。

「堂上教官と一緒に新年迎えられて、そりゃあアンタは嬉しいでしょうね」
「ち、違ッ!そんなんじゃないってばッ」
ズバリ心の中を言い当てられ、がばりと勢いよく身体を起こした。そのついでにコタツの中で長い脚をぶつけてしまい、あまりの痛さにひとり悶絶する。
言葉を取り落としながら痛みに悶える郁など構うでもなく、なんとか荷物をまとめられた柴崎は、欠伸をしながら寝る支度を始めた。
「ま、あんたはせいぜい、堂上教官と一緒の年末年始を楽しみなさぁい」
「だから〜……」
「うふふ。いいじゃないの、照れなくたって」
「ううう……」
柴崎の物言いに、郁は思わず唸りながら頭を抱えてしまった。
確かにそうなのだけれど。シフト上では大晦日が遅番で、ぎりぎり一緒に年を越せるのだけれども。
素直に喜べないのは、仕事だから義務的に一緒の時間を過ごすというだけだから。もちろん堂上の他には小牧もいて手塚もいて、他の班の人達もいて。
特別な甘いことなんか全くないのが分かっている。それどころか郁が一方的に堂上の事を慕わしく思っているだけで、相手にとって郁はただの部下に過ぎない事実。
このままぬるま湯の関係でいたい気もする。過度な期待もなく一喜一憂に自分を見失わない程度の、まるで恋に恋するみたいな感じが。

『店、探しとけよ』

急に、いつかの言葉が蘇った。
てっきり忘れ去られているものだと思っていた約束を、堂上はしっかりと繋ぎ直した。
そこにどんな意味があるのかは知らない。でも、それでも。

「明日早いから、もう寝るわね。笠原も明日早番でしょ?それに夜更しはお肌の敵よ〜」
「うん。……うん、おやすみ」
肌なんて今更だ。だからという訳では無いが、柴崎が寝るのに電気をつけたままなのは悪いから、郁もベッドに潜ることにした。
豆電球の優しい灯りが頬を撫でる。まるであの人の掌みたい。
穏やかな気持ちを抱きしめながら、柴崎の寝息を追いかけるように郁も緩やかな微睡みの淵へと降りていった。







『閲覧室、異常なし』
「了解。そろそろ昼休憩だ、戻ってこい」
『了解しました』
語尾に敬礼がついていそうな返事の後に交信の電源を切ると、隣りで館内のモニターチェックをしていた小牧も大きく伸びをした。
開館日ならいざ知らず、休館中の図書館など異常がないか巡回するぐらいしか正直なところやる事はない。
そのやる事がない時だからこそ、来月の訓練時におけるフォーメーションの改善や格闘訓練の確認などをやってしまうのが、堂上の堂上たる所以だろう。玄田が入院中で不在なのも拍車をかけていた。
そしてその様子を見て、小牧は思わず苦笑するのだ。
「黙ってそういう事してるから、あの人たちに仕事丸投げされるんでしょうが」
「……わかっとるわッ」
忌々しげに吐き捨てるが、性分なのだから仕方ない。これはすでに諦めの境地である。むしろ雑な仕事をされるよりも自分でやった方が安心出来るとか、何様だと思うのだが事実なのがやるせない。
おかしい。おかしいぞ、能ある鷹ならそろそろ爪研ぎしてもいい頃合じゃないかと思うのだが。
「今日さ〜」
椅子に寄り掛かりながら小牧が壁掛けの予定表を見た。
「早上がりじゃない。明日は遅出だし、大晦日だから一回実家帰るの?」
堂上も小牧も実家がほど近いので、帰ろうと思えば可能な距離である。
殊に小牧は?江も待っている事もあって、短い帰省はほぼ決定事項なのだろう。
「お前は?江ちゃんと、初詣でも行くんだろ?」
「行きたいところだけどね。夜中に人混みの中を歩くよりは、ゆっくり年越ししようかなって思ってる」
「健全じゃねえか」
思わず鼻で笑ってやった。
「当たり前でしょ、相手未成年なんだから」
言外に、成人すればこっちのものだと言ってるようなものだ。まあ自分たちも健全な三十路なのだから、そこら辺の真意は堂上とて理解出来る。
うんうんと内心同意している堂上に、しかし小牧は華麗なるボディブローをかましてきた。
「堂上は?そろそろ覚悟決めた?」
「ブッ」
突然の予期せぬツッコミに、飲み干そうとしていたコーヒーを噴きかけてなんとか堪えた。その代わり気管に入って盛大にむせてしまったではないか。
「なッ!……を、貴様ッ」
「そんなに動揺しなくてもいいじゃない。県展から帰ってきてからのアンタ見てたら、ようやくバシッと決める心積りが出来たと思ったんだけど?」
「……煩いわ」
呆れ半分、照れ半分。
咄嗟に目を逸らしても、耳まで朱に染めてしまっては白状したも同じだ。

県展の最中、郁への気持ちははっきりと形になった。
強いられる緊張下の中、重ねた手は冷たかった。包み込んで暖めてやりたいと思った。頬を濡らす涙を何度見ただろうか。それを拭う役目が欲しくて堪らなくなった。
ずっと抑えてきた感情は、郁の剥き出しの言葉の前ではなんの抑止力にもならずに溢れた。ぶつけられる不安と歓びに、どうしようもなく胸の奥が疼いた。

――――一緒に、笑いたい。

だがしかし、端から見てもモロバレなぐらい郁に傾いていたのが気恥しい。この歳になってこんな中坊みたいな感情を持て余すなんて……正直、嬉しい。
初恋みたいな感情を持てることが、素直に嬉しかった。

「参拝にでも誘ってみたら?」
「……まだそういう段階じゃない」
「初デートが神社って渋いよね、カッコイー」
「貴様、人の話を聞いとるのか?」
からかいが勝ってきた言い方にやや不快感を示せば、肩を竦められた。
「要はきっかけだっつの。そういうのないと、ここまで来るとなかなか切り出せないでしょ」
「……」
きっかけは、一応約束してある。朧になって色褪せかけた約束を、もう一度鮮やかにした。それは約二週間後に予定してる。
しかしその前に、もしもきっかけがあるならば――――。

思考を巡らせようとした所に、巡回から戻ってきた郁と手塚が帰ってきた。
そのまま四人は昼休憩に入り、年末年始で食堂が休みのために館外へ昼飯を調達しに行くのだった。







今年最後の仕事はつつがなく無事に終えることが出来た。その事に胸をなで下ろしながら、これから夜勤の先輩方に年末の挨拶をして帰寮した。
「手塚は実家帰るの?」
帰り支度をしながら何気なく話を振ってみる。
「うちは母の事もあるから、一応顔だけは出しに行くけどな」
「親孝行だよね〜」
「お前もいい加減、折れどころ探しとけ」
「余計なお世話」
口を尖らせる郁に、じゃあな、と言って手塚は去っていった。
痛いのは図星をさされたから。
でもまだ無理。確かに県展での出来事はひとつの契機にはなったけれど、広げた傷が塞がるにはもう少し時間がいるから。
それは郁にとってもだし、寿子にとってもそうだと思う。
流石に独身寮のロビーは閑散としていた。残っているのはシフトを割り当てられた特殊部隊と防衛員だけだから無理もない。
スカスカの建物の中を歩きながら、部屋に戻ると一際シンと静まり返っている気がした。
たかが二人部屋、されど二人部屋である。三人寄らずともかしましい事には変わらないし、どちらかが欠ければやはり寂しい。
改まった静寂に苦笑しながらスーツを脱ぎ、部屋着に着替えてひとまず仮眠をとる。夕方近くなって起き出すと、外出の為にまた着替え。
別に部屋着のままでもいいのだけれど、夕飯と明日の朝食分を買出しに、ちょっと足を伸ばした所にあるスーパーまで行くならば、部屋着はさすがにいただけないだろう。
しかし大晦日だから、通常より早いだろう閉店時間が読めない所に行くよりも、いつものコンビニに行こうか悩んだ。
結局出ることに変わりはない。
歩きながら考えよう。準備を整えてとりあえず外に出た。



道を歩いていると、前方によく見知った背中が並んでいるのを発見した。言わずもがな、片方は堂上で、もう片方は小牧だ。
「教官〜!」
人気の少なくなった寮を経て、知り合いを見つけると途端にテンションが高くなるものである。
呼ばれて振り向いた二人にブンブンと手を振りながら近寄ると、少し驚きながら郁の分、左右に身体を開いてくれた。
「お買い物?」
「はい!教官たちは実家ですか?」
「俺だけね。堂上は笠原さんと一緒で、居残り組」
小さなボストンバッグを郁に見せながら、小牧はいつものように微笑んだ。いや、いつもより少しだけ柔らかい気がする。それはきっと、これから?江にも逢いに行くからだと郁は思った。
いいなあ、なんて。
「……て、あれ?堂上教官は帰らないんですか?」
「三十路の息子が顔見せたところで、生存確認ぐらいにしかならんからなぁ」
そこで言葉を切ると、ちらりと郁に視線をくれる。それからひとつ、掌が頭の上を跳ねた。
コレはあれか、堂上なりに母親と複雑な関係にある郁の事を慰めてくれたのか。
県展からこっち、堂上のそんな気遣いをよく感じる。それが単純にありがたかったり、あの母親の荒ぶりを見られたのが恥ずかしかったり。
「ま、次の公休日には帰るさ」
何気なく言った公休日の話。そしてその次の公休日に、堂上は郁と一緒にカミツレティーを飲みに行ってくれる。
まさか堂上のプライベートな時間に、自分が存在出来るとは思いもしなかった。今でも信じられない。けれど――――。
覗き見るように横の気配を伺うと、視線がかち合った。その柔らかさに言葉を飲み込んだ。
今ここで一緒に歩いている事こそ、すでに彼のプライベートだ。そして仕事以外で出会う堂上の目は、甘くて優しいということに気づいたのはいつの頃からか。
こんな目をする人と、果たして一緒にお茶を飲みに行って挙動不審に陥らないか自信がない。しかも郁は堂上の事が、好きなのだから。

「じゃあ俺は駅に向かうから、ここでお別れ。笠原さん、夕飯買いに行くぐらいなら堂上に奢って貰いなよ」
ここから道は分かれている。小牧は駅に向かうが、郁はなりゆきでここまで一緒に歩いてきてしまったが、買い出しはもう少し先にあるスーパーに行けばいい。
「いや、それは悪いですから……」
「どんだけ階級と給料違ってると思うの。ここはたかってナンボでしょ!」
じゃあね、良いお年を。
まるでお見合オバサンのような押しの強さを置き去りに駅へと向かう小牧の背中を、しばらくふたりでぼうっと眺めていた。
やがて先にため息をついたのは堂上の方で、きっと呆れたに違いないと郁は慌てた。
「も、も〜!小牧教官ったら、何言ってんでしょうね!」
今まで奢ってもらった事はあれど、コンビニのお菓子だったりみんなと一緒の時だったり。
向かい合ってふたりきりで食事だなんて、今の郁にはまだまだ心臓に悪すぎる!
なのに、
「……なんでもいいか?」
なんて。なんでもない事のように。
「つっても大晦日のこの時間だからな。ファミレスとか、そこら辺のラーメン屋ぐらいしかやってないか」
「そんな、あの……」
悪いです。そう言葉が零れる前に、さっさと堂上は歩き出してしまう。
「買い物もあるんだろ?」
「あ、はいッ」
「じゃあ手っ取り早くラーメン屋でいいか?」
……決まってしまった。



その後食べたラーメンは、どんな味だったのか、正直うろ覚えだ。
確か堂上と同じで、醤油だった気もするし、味噌だった気もする。それから堂上がチャーシューを一枚くれた。お前は育ち盛りだからな、でももう十分俺よりデカイか。なんて言われながら。
郁は郁で、とてもじゃないがいつものように軽口に噛み付く余裕などなかった。
だって向かいの席に、ラーメンが上げる湯気の向こうに堂上がいるのだもの。時折優しい目をして、食え、なんて言ってくるんだもの。
ふわふわした心地のままラーメンを奢って貰った礼を言いながら最敬礼したら、なぜか怒られて。それからふたりで最寄りのスーパーで買い物なんかして。

そんな浮き足立ったままの帰り道だったから、何がどこからそんな話になったかなんて全然覚えていないのだ。
ただひとつハッキリしているのは、基地に戻って男女の寮に分かれる直前に掛けられた言葉だけ。

「じゃあ、二二三○に詰所の前で」
「――――は?」
「聴いてたのか、笠原」
言葉とは裏腹に、優しく頭を小突かれた。
「初詣、行くんだろ?」
え?
飛び出そうになる疑問符を喉につかえさせながら飲み込むと、質問を投げる間もなく堂上はさっさと男子寮へと消えてしまったのだった――――。







話を整理しなくては。
と言っても思い出せるのは記憶の断片たちばかりで、それを寄せてツギハギしてなんとかまとめると、頼りないなりに事の流れが見えてきそうなこなさそうな。

買い物をしながら、独身寮恒例大晦日カウントダウンの話になったのが発端だったと思う。
カウントダウンとは、寮のロビーにて居残り組が酒を片手に寂しい大晦日を楽しく過ごす催しで、少ないながらも毎年かなりの盛り上がりを見せる。
郁も入隊してから毎年参加するも、すぐに酔っぱらってしまうから最後まで参加したことはないのだけれど。
若いうちはそういうのにも出てたけどな、と語る堂上は、大人しく自室でテレビでも観ながら過ごすと言っていた。

――みんなでわいわいやるの、楽しくないですか?
――若いヤツらと一緒にはしゃくほど、もう元気ねぇわ。
――でも、でも!寂しいじゃないですか、ひとりは……。

思い出したのは柴崎のいないひとり部屋。数日後にはまたふたりでくだらないお喋りをしているだろうに、わかっていても心にすきま風が通り過ぎるようだった。

――じゃあ、……。

珍しくおどけながら堂上が、郁に笑いかけた。

――せっかくだから、一緒にいるか?
――……。



「うわああッ!」
振り返った記憶があまりにも脚色されている気がして、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
絶対おかしい、あの流れから「一緒にいるか?」とか、どこのカップルだよしかもバカップルレベルだよ!
つか、堂上のいう「一緒に」は、一緒にカウントダウン出るか?だったかもしれないし、別に初詣に行かなくてはならないわけではなく。
「あ、そっか。詰所に行ってみて、来なかったらロビーでカウントダウンやればいいんだ」
こちらの勘違いならそれでいい。聞き間違いで待ちぼうけを食らったとしても、別に引き返せばいいだけの話だ。むしろそのままひとり初詣に行ってもいいかな、まで考えて、それは結構寂しいからやっぱり止めた。

どうにかこうにか自分を納得させることに成功した郁だったが、はたと時計を確認して一気に汗が噴き出してきた。
時刻はすでに二十二時に近い。
それから慌てて服を見繕って軽く化粧をして、なんとか身支度を整え終えたのが待ち合わせ五分前。
日頃から五分前行動を口酸っぱく言われているのに、なんという体たらく!
とるもの取り合えず引っ掴み、あらん限りのダッシュで詰所に着いたのは、辛うじて一分前。
すかさず周りを見回すと、約束していた人物がいない事を確認して、――――脱力にしゃがみ込んだ。
なんだ、やっぱり都合のいい勘違いだった……。
安堵と、それ以上に感じる裏切られたような気持ち。勝手に、だけれどもやっぱり、どこかで期待していたから。
ズキズキと胸が痛いのは、短くとも走ったから。なのにその痛みがわけもわからず涙を押し上げようとするものだから、咄嗟に俯いて目元を拭った時だった。

「笠原」

聴きなれた声が頭上から降ってきて、思わず顔を上げそうになって堪えた。今、顔を見られたら情なくてたぶん死ねる。
しゃがんで見る地面の端に、男物の靴が現れた。でもまだ顔なんて上げられなかった。
「時間ピッタリだったな」
「……ダッシュ、したんで」
なんとか絞り出した声は、震えていると気づかれただろうか?
「プライベートでまで一分一秒をとやかく言わんぞ、俺は」
苦笑しているような声音と同時に、優しく降ってくる大きな掌。郁にとっての魔法の手は、ゆっくりとゆっくりと落ち込んだ心を自然と癒してくれた。
「ほら、立て。外泊届けは出したよな?」
「……遅延、じゃ、帰ってくるの間に合いませんよね……?」
「日付越えるからな」
再び苦笑。でもさっきと違う笑い方だった。そこに含まれる意味を知るには、まだまだ経験値が足りなかった。
ほれ、そろそろ立て。
促されて立ち上がった郁の顔は、たぶん少しはいつも通りに戻っていたと思う。
「じゃあ行くか」
「――――はい」
ここからは、郁にとって未知の領域だ。







「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう。今年もよろしくな」
「なるべくご迷惑かけないように頑張ります!」
「あまり期待しないで聴いとく」
「ひっど!」
重厚な鐘の音が響き渡る中、参拝の客同士、口々に新年の挨拶が交わされる。
おめでとうおめでとう、今年もよろしく。
ようやく進み出した参拝の列の中、郁と堂上も流されるようにゆっくりと歩き出した。
いつもは静謐な境内が、この時ばかりはおおいに賑わう。喧騒があるからこそ、堂上は郁と何も言葉を交わさずとも一緒にいられた。
手持ち無沙汰の左手を軽く開いたり握ったりしながら、横目で隣りを歩く郁の様子を伺ってみた。
初詣に誘う経緯はいささか強引だったものの、それは多少の勝算も計算の内にあり、結果的にふたりで出掛けることには成功した。
そして悩むのは、今ふたりが置かれている関係性だ。
上官と部下。もう少し踏み込んで、恐らく郁は堂上を憎からず思っているだろう。それが尊敬なのか好意なのか、判断出来ないのが関係の境界線を踏み越えられない理由のひとつでもある。あとは堂上自身の意気地のなさもあるけれど。
もし、隣りにある手を握ったらどんな顔をされるだろうか?
混みあった神社の境内、さっきから肩と肩は何度もぶつかっている。手の甲も触れた。あとは絡むか絡まないかだけ。
「結構混んでるんですね」
間近で郁が吐いた白い塊が堂上の頬を撫でた。ほんのり温い。
「そうだな」
郁は気づいているのだろうか?
これは日常でありながら、夜中に恋人でもない上官と会う非日常であるということを。普段ならば絶対にありえないシチュエーションに応じた郁の心が、とても知りたい。
ようやくふたりの順番まであと三人になった。
「何をお願いするんだ?」
「え?今それ聞きますか?」
あとひとり。また一歩前へ。
「……教えちゃったら、叶わないんで」
ハニカミながら応える郁のふにゃりとした笑顔に、堂上の願いが強くなった。
財布から小銭を出して、ついでのように郁に穴の空いた小銭をやったら驚いた顔をされたが、彼女は黙ってて受け取ってくれた。
――ご縁がありますように。
放った願いは綺麗な孤を描いて賽銭箱の中に入った。ついでのように足される四十円。しじゅうごえんがありますように。
願うのは、――――願うのは縁結び。ようやつと覚悟を決めたから。結んで、キツく結んで、離れないように。願わくばその縁が、くっきりと鮮やかな朱色をしていますように。
二礼二拍手一礼をして、後ろの客に順番を譲るためにずれた、その時。
「あッ……」
周囲の声にかき消されそうなほどの小さな呼び掛けに振り向くと、なんと郁が人の流れに押しだされて反対側へと流されようとしているではないか。
「笠原!」
人目など憚る暇はなかった。
非礼を詫びながら強引に割って入った列の向こう側にこれでもかと手を伸ばすと、郁の伸ばした指が触れ、ぐっと握り込むと無理矢理引きずりだした。
「すいません、申し訳ありません!」
何度も謝罪を口にして、引きずった勢いのまま郁の身体を抱え込むと、少し拓けた場所までずるずると移動する。そこでようやくひと息つけて、落ち着いたところで今の状態を再確認して堂上は固まった。
「あの、堂上教官……」
声は思いがけず近くから、もっと言うと腕の中から聞こえてきた。寒さのせいだけではなく、頬を真っ赤に染めた郁が上目遣いで戸惑いがちに堂上見上げてくる。
「あ――――」
すまん。しかしすまんと言いながら、堂上は腕の力を緩めることが出来なかった。
咄嗟に郁を抱き締めたのはこれで二回目。
一度目は県展の抗争中の最中、無我夢中で護りたくて抱き締めた。彼女の勇気に、そして健やかなる魂を傷つけないために。
今は――――。
髪の毛から爽やかな香りが鼻をくすぐる。コート越しでもわかる細さに、しかし兼ね備えた柔らかさに胸がざわついた。境内の灯りがぼんやりと反射した瞳、小刻みに震えるまつ毛。何もかもが、何もかもが――――。

ちくしょう、可愛い。

思わず抱きしめる腕に力が籠る。
可愛いと思った時点で堂上の負けだ。郁からの好意を確かめてからとか、そんな弱腰でいてはいつか誰かが彼女をかっさらってしまうだろう。そうなる前に、――――。

日付を超えて隣りにいる非日常は、堂上も一緒だった。例えばいつもの課業帰りの道では絶対に心は頑ななままだっただろう。だからきっと今を逃せば、またズルズルと結論を無駄に先延ばししていそうな自分しか見えなかった。
思い立ったが吉日。
だが無情にも、時はすでに遅かった。

「笠原――――」
「……ぐ〜……」
「……」
堂上の呼び掛けに応えたのは、まさかの腹の虫。
「あ!わ!す、すいませんッ」
顔を真っ赤にして両腕を振り回す郁にかいなは振りほどかれ、ようやく我に返った。
「お腹が……。あたしったら、ホントすいませんッ!なんかいろいろ、ごめんなさい……」
「ぷ」
残念な気持ちと同時に笑いがこみ上げてくる。
却ってこれでよかったのかもしれない。時を急いても、必ずしも結果がついてくるとは限らないのだ。
「わ、笑わないで下さいッ」
「悪い悪い」
「悪いと思ってんなら、肩震わせないで下さいよ!」
「うん。あ〜……、ホントお前ときたら……」
頬を膨らませ、涙さえ浮べながら怒る郁を宥めるために頭を撫でて。
ああ、こういう穏やかな時間が流れるのなら大丈夫だ。
一歩踏み出すことは出来なかったが、逆に安心感に心が満たされた。
「屋台見てくか?」
「……教官の奢りですか?」
「笑っちまったからな、好きなモン買ってやる」
「わ〜い!」
相変わらず簡単なやつ。
だけどこいつの表情ひとつでどうにでもなれる自分も、大概だなと思う堂上であった。



結局郁はフレンチドックを買ってもらい、堂上は振る舞い酒の御神酒で身体を温めた。
なお余談だが、帰りがけにひいたおみくじはふたりとも中吉。そして恋愛運の記述が同じだったことは内緒の話である。
                        
                      
                     了




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