この時期、世の中は見事にクリスマス一色である。 「イルミネーション見ながら、ちょっといいレストランでクリスマスディナーでも……」 そんな余裕などどこにあろう。懐の問題は各々のものだが、この時期の図書館員ならびに隊員にとっては、圧倒的に時間と余裕の方がなかった。煌びやかさに浮き足立ったお祭りムードになど見向きしている暇など、はっきり言って仕事の邪魔である。 ただひたすら目の前の図書館イベントや年末に向けての追い込み作業、加えて大掃除などに身を費やしていた。殊に防衛員や特殊部隊隊員などは、通常業務の片手間に館内清掃をする業務部と違い、訓練の時間を縮小した分が全て清掃になる。ある意味訓練にも似ているが、いつもと違うことをするのは、それだけで気疲れがどっと襲ってくるものだ。 かく言う郁を始めとする特殊部隊は堂上班も、例外ではない。 「お疲れ様でした」 労いとともに傍らに置かれたコーヒーの香りに、親指と人差し指で眉間を解していた堂上も反射的に肩のこわばりを解いた。ほっとひと息つけたのはコーヒーの温かさと、それを淹れてくれたのが郁だったから。 「ありがとな」 「さすがに砂糖をひとつ入れましたよ。疲れてると思ったから」 「何から何まで……」 郁が堂上の部下に配属されてから、しばらく経つ。稀にクワガタ的なコーヒーを飲まされたこともあったが、さすがにもう好みぐらいは覚えてもらった。そしていつしか、その中に気遣いもするりと滑り込ませることも出来るようになってきた。自慢の、部下になったものだ。 「笠原さん、ありがとね」 「おいお前、俺にだけ砂糖ナシかよ」 「だってアンタ、この前ひとつ入れたら仕事終わるまでずっとぶーぶー言ってたじゃん!女々しい」 「女々しいとか言うなッ」 「じゃあ男らしくない」 「変わらんわッ」 同期ふたりは、どんなに疲れていても喧嘩をする余力は別にあるらしい。これが周りを巻き込んでのとんでもない喧嘩なら速攻で間に入るのだが、逆に疲れきった事務所内をほんわかさせてくれる喧嘩なので、ここは敢えて見逃した。 「まあまあ。ほら、早く日報書かないと。誰かとイルミネーションを見に行きたくても行けないよ」 やんわりと制する小牧の言葉に、ふたりは気まずそうに口を閉じた。 そのイルミネーションに一番行きたいのは誰かを、みんなが知っているからだ。 「イルミネーションったって、ここら辺じゃ感動するほどのものもないだろ」 ボールペンを繰り、我ながら解読に時間がかかりそうな悪筆で走り書きをしながら上目遣いで小牧を伺うと、薄く笑われた。なんという余裕の返し打ちであることか。 「問題はイルミネーションの質じゃなくて、誰と見るかだと思うけど?」 愚問であった。 そうして堂上から鮮やかに一本取って見せた小牧は、軽やかな足取りでお先に、と上がっていく。残るは堂上の他、郁と手塚だけだ。 暫くはカリカリというボールペンの音だけが三人の間を忙しく行き交うのみ。オプションで、時たま郁の呻きともつかない吐息が混じる度、何をやらかしたのかと口の端が歪んだ。 時間が経つにつれて感じていた、ささやかなわだかまりは溶けていった。手本となるべく肩肘張っていた力みも、いつの間にか抜けて自然体になっていった。 きっかけはたいしたことなどない。わざわざ大きな背中を見せてやらずとも、きちんと着いてきてくれるのだこの部下たちは。 「お願いします」 「おう」 案の定、小牧から僅かに遅れてから日報を提出してきた手塚のものを検分して判を押す。読みやすい端正な文字は、少し四角四面な感じがいかにも手塚らしかった。 それでも最近は随分と柔らかくなってきたものだ。以前ならもっと筆圧も強く、押し付けるような字の書き方をしていたのに比べれば。 「上がっていいぞ」 「ありがとうございます。お先に失礼します」 「お疲れ」 ぺこりと頭を下げた手塚の向こう側に、まだ背中を丸めている郁が見えた。 出ていく手塚に手を上げて応えつつ、郁の姿に零れるのは苦笑。苦いものではない。むしろ温かいものが溢れてくるのだ。 この気持ちの正体には気づいてて、堂上自身もう認めていた。 そして今はお互いその気持ちに名前をつけ、ふたりで同じだけ通わせていると思う。 「……おい」 あまりに時間がかかりすぎる日報に、先に痺れをきらせたのは堂上の方だった。 以前なら確実に我慢が利いた場面が、最近では全く緩くて話にならない。それはきっと恋人になった郁への甘えであると同時に、何よりも堂上自身を優先して欲しいという独りよがりな我が儘のせい。仕事とプライベートの曖昧な瞬間には、子どもっぽい独占欲がむくむくと湧き上がってしまうのだ。悪い癖が身に付いたものだが、それもこれも堂上の余裕を無意識に削り取る郁が悪い、という事にしておく。 対する郁はゆっくりと堂上の方を振り向くと、悪戯っぽくちろりと舌を出した。 「イルミネーション、終わっちまうぞ」 今だっていい時間だ。これ以上引き延ばせば、さしものイルミネーションも終わってしまうだろう。 堂上としてはロマンチストの恋人が喜びそうな事は、ぜひともしてやりたい。可愛くて可愛くて仕方ない彼女だからこそ、プライベートではベタベタに甘えたいしこれでもかというくらい甘やかしてやりたいのだ。 「……いいんです」 「いいのか?――――クリスマスらしい事は全然してやれてないから、せめてそのぐらいは」 「気にしなくていいですよ、あたしも忙しいのわかってるし」 恋人になった郁にひとつだけ不満があるとすれば、例えばこんな所だ。 理解のある顔をするな。ここぞと甘えて欲しい。途方もないワガママを言って欲しい。駄々をこねて堂上を困らせて、苦笑しながら彼女を甘やかす機会を奪わないでくれ。 だがそんな事をおいそれと郁の前では言えなくて、結局口を噤んで自分勝手な欲望を腹の奥底に埋めてしまうのだ。 「そうか……」 僅かに声が沈んでしまったのを悟られたらしい。 鳶色の大きな瞳がじいっと堂上を見つめると、遅れていた日報をようやく出してきた。 「――――お願いします。あと、一緒に帰りましょう!」 「?」 言われずとも、堂上に酷い残業がない限りは、お互いの独身寮までの短い距離だが肩を並べて帰っているではないか。 最近だって、少し待ってもらって帰った。コンビニに夜食を買いに行って、そのついでに冬限定のチョコ菓子をつけてやった。寒空の下で繋ぐ手は嫌でも彼女の温もりを伝え、何度抱きしめたい衝動に駆られたかわからない。 だがしかし、奥手な郁からのせっかく誘いに乗らない理由もなくて、郁に促されるままに庁舎を後にした。 「コンビニでも行くか?」 半ば目的を諦めかけた堂上に、首を降って郁は応えた。そして指さす、真っ暗な頭上の帳――――。 そこには夜空が冴々とした空気に洗われて、珍しく星がキラキラと瞬いていた。冷たい夜気のおかげで空気が澄んだ証拠である。 「イルミネーションみたいじゃないですか?」 「は……」 鼻の頭を赤くした郁の笑顔に言われた途端、まるで映画のCGのようにサーッと頼りなかった星たちがライトを当てられたかのように一層輝きだした気がして……、 「ほとんど毎日、堂上教官とこんな明かりの下を歩けてるって、あたし凄い幸せじゃないですか?」 「――――」 嗚呼、本当にこいつには――――。 山奥で見上げる息を呑むほどの素晴らしさとは似ても似つかないだろう。 電飾で彩られた華やかさとはほど遠いだろう。 なのに。 なのに郁と、愛しい存在と一緒に同じものを見ていると言うだけで、世界はこんなにも高揚する色に染めつくされている奇跡……。 「ね?イルミネーションなんて、わざわざ見に行かなくてもいいでしょ?」 白い塊をふわりと吐きながら可愛らしく笑う彼女に、心の中で感謝した。 忘れていたわけではない。知っていたのに、それが当たり前になっていたのは怠慢だ。 「――ああ、そうだな。綺麗だ」 君の笑顔が。 君に恋した瞬間に色づいた、愛しきこの世界が。 それを教えてくれた君に、隣りで無邪気に笑ってくれる君に、 ありがとう。 了 |