「………よし」
薄っすらと残る歯型がさほど目立たないのを確認すると、糊のきいた浴衣を羽織る。少し伸びた髪の毛を掻き上げて後ろに流すと、もう一度声に出さない気合いを入れて、堂上は浴室のドアノブに手をかけた。

ドアの向こうには先に風呂を済ませて同じ浴衣に身を包んでいる郁が、ベッドの端に腰掛けながらテレビを観ていた。背中の緊張具合を見ると、雑音は郁の耳を素通りしているようだが。
「郁」
「はッ、ひゃ!」
声を掛けただけで郁は文字通り飛び上がって驚いた。漫画かよ、助走無しで目算十センチは浮いたぞ。
それにしても緊張しすぎだろ。
「退屈してたか?」
「いえ、あ、えとッ、テレビ観てたから」
どうやらいま人気のドラマを観ていたようだ。
旬の俳優とアイドルから転身した女優の配役が話題となっている恋愛モノ。恋愛ドラマよりも、ふたりで過ごすこれからの時間の方が大事な堂上にとってはどうでもいい話だが。
「どんな話なんだ」
「え?っと、久しぶりに会った同級生同士が再開して恋に落ちる話で」
「結構ベタだな。面白いのか?」
「きゅ、きゅんきゅんしますよ!」
そう言いながら視線も合わさず項垂れる郁の、浴衣から覗く色づいたうなじに堂上の胸が跳ねた。
お前はドラマできゅんきゅんしてるかもしれないが、こっちはお前の一挙手一投足にきゅんきゅんさせられっぱなしなんだぞ。とは言えない男心である。
何気さなを装ってわざと体重をかけて隣りに座ると、スプリングのきいたベッドが大きく波打った。その拍子にバランスを崩した郁が堂上の太腿に手をついて――慌てて飛び退く。せっかく隣りに座ったにも関わらず、その動作で遠くなった。
「――――おい」
「す、すいませんごめんなさいッ」
「別に」
顔を真っ赤にして正座し直すと深々頭を下げる郁に、思わずポカンとしてしまう。なんと他人行儀。いやまだ他人なんだが。
「いいからこっち来い」
「え、でも……」
「郁」
少し強めに呼べば、ぎこちない動きでズルズルと移動してきた。ギシギシと音が聞こえてきそうなぎこちなさが、郁の緊張度合いを表しているようだ。
とりあえずこれ以上逃げられないようにキュッと両手を握ってみれば、そこから石化したかのように郁の動きが固まる。なぜ。というか、どうしてそこまで。
「あの……すみません 」
まるで初めての時のように。困ったような情けないような複雑な表情を浮かべながら、膝詰め上等とばかりに正座をして堂上を見上げてくる。
ちょっと待て、今日は二回目の外泊のハズだよな。なのにどうしてそんなに全身強ばっているんだ。まるで何も知らない処女のようではないか。もちろん郁は処女ではなく、念願叶って先頃ようやく身も心も堂上に全て開いてくれたばかりのはずだ。
それともあまりにふたりで過ごす夜を想像し過ぎて、妄想を現実と取り違えて実はまだコトが済んでいなかったかもなどと若干不安になった。
いや、確かに現実だった。だってここ数年用事がなくて姿を消していた避妊具が、素知らぬ顔でカバンの中に入っていたもの。
今にも泣き出しそうな顔つきに、正直こっちまで泣きたくなってきた本音をぐっと飲み込んで、堂上は辛抱強く言葉を重ねた。
「なんかしたか?別に変な事はないと思うが」
いたわる声音に、そろそろと郁が顔を上げた。やはりうっすらと浮かんだ涙が今にも頬を伝いそうになっていて、それを親指の腹で丁寧にぬぐい去る。
「気が乗らないなら言え。そんで俺はお前の意思を尊重出来ないほど、狭量じゃないはずだ」
言った端から自分で自分を罵倒した。
よくもぬけぬけと!多分地獄の閻魔に舌を引っこ抜かれるのは確実で、そうなるならばせめてタンは美味しく頂かれたいものである。
そして食われるヤツを指名出来るのであれば、堂上は迷わず郁を指名するだろう。ありがた迷惑などという言葉はこの際無視だ無視。
一方涙を拭われて初めて自分が泣きそうになっていたと知った郁は、更に身を固く閉ざしてしまった。

優しさが仇となるとは、まさにこの事だろう。

視線を合わさないまましばし向かい合っていたふたりだが、間もなく堂上が小さく息を吐き出した。それを見て更に涙が盛り上がってきそうな郁の頭を軽く叩くと、堪らずに手を滑らせて柔らかく華奢な身体を抱きしめた。それも一瞬。
「どう……ッ」
「いいから」
渾身の理性で郁から腕を解くと、今度は軽い身体を持ち上げてテレビに向かわせる。隣りの困惑した気配をわざと無視して、自分も画面に向き合う。そこには顔と名前の一致しない、堂上にはさして興味のない俳優たちが合コンのシーンを演じていた。
「あの」
「ドラマ観てたんだろう?」
こちらの事は気にするなと突き放すのは酷か。それでも、そうでもしていないと、「年下彼女を大事にする年上彼氏」の仮面が剥がれてしまいそうで。
お互いの間には拳ひとつ分の距離。詰められそうで詰められない、僅かなズレはそのまま意識のズレのよう。
肩を抱くのも腰を引き寄せるのも躊躇うのは、触れれば歯止めが効かなくなりそうな自分がいるから。
何も知らないままのふたりではなく、確かに一度は肌を晒しあって熱を分け合った。そうして知った肌の手触りと熱さ柔らかさが少しのきっかけで掌に蘇り、触れたそばからもっとと彼女を求めてしまうだろう。
なぜこれほどまでに郁が緊張しているかは知らないが、そんな彼女に無理強いしてまで身体を拓きたいとは思わない。身体だけではなく心も抱きたいのだ。――――というのは建前で、多分いま、郁に触れたらなし崩しに及びそうな危険が絶対ある。もう知らないわけではない。知ってなお、もっと深みにハマりたい。
目の前のドラマの内容なんかちっとも頭に入ってこない。ポーズで肘をついて前かがみになっているものの、今一番興味があるのは郁だけである。
彼女を宝物のように大事にしたい本心と、好きだからこそ全てを暴いて決して他人には見せない彼女の女を知りたい本音が、仏頂面の下で激しく攻めきあっていた。その時。

左肩にささやかな重みがかかって、今度は堂上が固まった。
恐る恐るその行方を探れば、隣りに座っていた郁が頭だけコトリと堂上の肩に預けていた。瞼が軽く伏せられている為な表情が見えない代わりに、長いまつ毛が細かく震えていた。
真意がはかれないままじっと見つめていると、ようやく口を開いた。
「あたし……こんなんでごめんなさい」
やはり真っ先に出てくる謝罪に、なぜとため息を零す。せっかくふたりでいるのに、何も悪い事などしていないのに。
しかしそのため息をなんととったか、堂上に頭を預けていた郁は物凄い速さで姿勢を正した。
「郁ッ」
「すいません、なんか……空気読めなくてホントあたし」
「空気とかよくわからんな」
本気で疑問を眉間のしわに乗せると、郁は己の膝の上でキュッと握った拳に一層力を込めた。
「だからその、雰囲気とか!なんか女の子らしく甘えられなくて!わかんな――――ッ」
顔を真っ赤にしての告白は、途中で堂上の胸板に遮られた。
抱きすくめらる状況への理解は、二拍置いてようやくついてくる。
身体を拘束する腕の力が強くて痛いくらいなのに、それが泣きそうなぐらい嬉しくて、郁も応えるように堂上の背中にやんわりてと腕を回した。
「馬鹿郁、抱きしめていいか?」
「――――も、されてます、けど」
「お前があんまり可愛い事言うからだ、アホウ」
堂上としても今はぜひとも顔を見られたくない。こんなにヤニ下がったら顔を見られるなど、男の沽券に関わるではないか。もっとも可愛い彼女の前では、そんな身勝手な男のプライドなどゴミクズにも等しいと悟った。

郁が固くなっていたのは、夜を過ごす不安などでなかったのだろう。
ただ単純に慣れていないだけ。この先に待っているであろう夜の甘さを前にして、どのようにして待っていればいいのがわからなかっただけなのだ。
前回は郁の斜め上思考が炸裂して甘い睦言もなしに流れに乗って致したが、今日は違う。いたって普通の流れで及ぼうとしている。
郁にはその普通が未体験であるからして、どのようにして堂上を待ち、どのようにして睦事に流れていけばいいのかがわからなかった故の緊張だったわけだ。
わかってみれば何をそんな事と一笑に伏してしまいかねないが、郁にしてみれば決してそんな事ではない。それだけ堂上との夜を真面目に考えてくれていたのだと思えば、募るのは愛さしかないではないか。

ヤバイ、可愛い。本気で可愛い。

甘え方など覚えなくてもいい。これ以上可愛い事を覚えられたら、こちらの理性がまるでもたなくなるから。
その全力の好意こそが最大の可愛さだと、気づかないまま笑っていてくれ。

「……あの、きょーかん?」
「なんだ」
腕の中でおずおずと動く郁の拘束を緩めてやると、ようやく顔を上げた彼女と視線を絡める。頬を真っ赤に染め上げて、潤んだ瞳で見上げてくる凶悪さに、堂上は堪えきれない熱を零した。もう欲を抑えている事が難しい。


「――――大好き」
「…………ッ」


鎖を切ったのは郁。
そして新たな鎖で堂上を捉えるのも郁。


だからもう、その責任をとれよ。



胸の内の呟きを熱に乗せて、激しさなど手加減出来ずに熱い掌が彼女の肌を撫でた――――。






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