カシャカシャカシャ。 「……なあ、郁?」 ガラスボウルの中で溶けたチョコとバターを混ぜ合わせながら、篤が言うか迷いながら、やっぱり口を開いた。夫婦に不透明があってはならない。夫婦円満の秘訣とはこれ如何に。 カシャカシャカシャ。 「なぁに、篤さん」 視線はスマホに向けながら、エプロン姿の郁は口元を指でなぞりながら目もくれずに声だけで応えた。 ――――ちょっとあんまりじゃないのか? 一応巻き起こる不満だが、そこはぐっと堪えてオブラート十枚重ねで無理やり飲み込む。 「なんで俺は、こんな事やってんだかな」 こんな事とは、いわゆるバレンタイン菓子の用意である。 「え〜?だって、あたしひとりじゃ絶対失敗するし終わらないもん」 もちろん篤が配るのではない。何が悲しくて新婚の自分がむさくるしい特殊部隊の面々にチョコ菓子作る手伝いをせにゃいかんのだ?罰ゲームかよ、全く。 そう、郁と篤はまだまだ新婚なのである。 籍を入れ、一緒に住み始めてからもう少しで一年が経とうとしているが、一年未満は立派な新婚であると言い張りたい。誰にだ、誰かにだ。 とにかく二年経っても三年経っても言ってる自信はあるが、そこはほっとけ。人の価値観なんぞは人の数だけあるのだから、どれが正しいかなどとは決して誰にも言えないのだ。 昨年は婚約していてもお互いまだ独身寮にいたから、郁は家庭科部の世話になり、これまた上等なチョコ菓子を作ってくれたものだ。一昨年のすれ違いを埋めるような昨年の甘いバレンタインは、寒さに苦笑いしつつも官舎裏で仲良く作ったトリュフを食べさせあった。 そして万を持しての、今年である。 ちなみにバレンタイン本場は明後日だから、堂上にも未だチョコは当たっていない。明日は今日作ったなんだかの作ろ詰めなや時間が取られるらしいし、そうなると郁は一体いつ堂上宛のチョコを作る気なのだろう? まさか十把一絡げよろしく、特殊部隊用に作ったこれを横流しするとか……ないよな、さすがに。伊達に新婚じゃないし。いやだが、こちらの予想を斜めに突っ切る郁の事だから――――。 「あ、もう十分混じったね。じゃあ次は……、卵と……、くるみ買うの忘れてた!!」 独身寮からひとり立ちする郁が心配でならない家庭科部が、一年後を見越して渡してくれたレシピはチョコレートブラウニー。混ぜて焼くだけの簡単焼き菓子は、数を配るのにももってこいの一品だ。 なのに材料の時点で、これである。まあ許せる。だって可愛いから。 「別に食感のアクセントだから、フレークとかでもいいんじゃないか?」 「ああ、そっかぁ!さっすが篤さん!大好き !」 「……そりゃどーも」 この奥さん、大好きをよく連発する。悪い気はしないしむしろ嬉しいのだが、最近これでていよくはぐらかされてるような気がしないでもない。見極めが難しいところだが、あいにく嫁に対する篤の視界は偏ってピンク色をしているものだから、結果よければ全てよして終わることか多いのだ。 「だがな、郁。何も台所を自由に使えるようになったからって、手作りしなくていいんじゃないのか?」 ゴムベラで恐る恐る小麦粉を混ぜている郁の傍ら、使い終わった道具の洗い物をしながら忠告も含めて篤が言った。 それに対して、郁がぶんぶんと首を振る。 「絶〜対、手作りがいいです!」 「だからなんで」 「だって篤さんも、あたしからのチョコは既製品より手作りの方が嬉しいでしょ?」 「そりゃあ……」 溺愛してると言っても過言ではない郁からの物ならなんでも嬉しいが、手作りであれば更に嬉しい。オンリーワンを実感出来るからだ。 「いいですか?先輩たちのうち、何人が手作りのお菓子をもらえると思いますか?」 ぶっちゃけそれは失礼な仮定だが、否定できるほどの根拠の方が皆無に近い。 だがしかし、だからと言って――――。 「それに、あたしたちが結婚するにあたって、先輩たちには凄くお世話になったし祝福してもらったから。そのお礼も兼ねて、ふたりでみなさんに手作りをあげたいんです」 「……」 篤は一瞬止まってしまった手を再び動かし、洗い物をしながらボウルの中身を混ぜる続ける妻の気配を伺う。 材料は綺麗に混ざりきり、オーブンの温度を設定すると加熱動作を開始した。予熱中のオーブンの横で、シートを敷いた鉄板にゆっくりと丁寧に生地を流し込んでいる。 その動作のひとつひとつに、今は優しさが滲んで見えた。 こいつはいつもこうだ。 常に自分よりも周りのことを先に考えられる。人としても、図書館員としても大事な資質である。 相手の喜ぶ顔が見たくて頑張れる、今は篤の妻となった郁は、どこまでいっても自慢の嫁だ。 洗い物を終えてエプロンを外しながらソファに座る。ひと息。軽いため息は、嫌なものではない。 その後から郁がパタパタと追いかけてきた。狭い居間の中でも、この奥さんは忙しなく動き回る。 「どうした?」 労うように隣りのスペースを空けると、当然のようにちょこんと座る。そしてほんのりと頬を染めながら、小さな包みを篤に差し出した。 「これ、バレンタイン」 思わず目を見張る。いつの間に。 「今年はひとりで作ったから自信ないんだけど、一年ごとに少しずつ上手になるように頑張るから!」 えへへと笑う妻の笑顔に、呆気なくノックアウトされたのは言うまでもない。 ちなみにバレンタイン当日、堂上夫妻から振る舞われたチョコレートブラウニーの味は素晴らしく美味しかったのだが、添えられた夫妻の甘ったるいラブラブオーラにエア胸焼けを起こした隊員が多数出たとか出ないとか。 そのせいで救護室から苦情が来たという話は、きっと別の話だ。 了 |