空の青さが遠くなり、秋の気配を感じるようになってきた。 日中はそうでもないが、朝晩の冷え込みはちょっと馬鹿には出来ない。そうなると身体のいたるところに残る大小の傷跡が、小さく小さく不平不満を漏らすのだ。 馬鹿野郎、好きで拵えた傷じゃないのに。 だがその原因の大部分は己の未熟さや堪え性のさなが招いたものだから、自業自得と言われれば口を噤むしかない。そんな朝を、堂上はもう何遍も迎えてきた。 そして今日もきっと、いつもと同じ一日の始まりだと思っていた――――……。 午前六時。 身支度を整えながら、ポットで湯を沸かす。 近頃は起きてから、何か温かい物を一杯飲んでから食堂に行くようになった。それだけ歳をとったということか。いきなり動かない、無理のない身体の起こし方をする。 そんな自分にちょっぴりがっかりしながらも、身体を大事にするのも仕事のうちと割りきって見て見ぬふり。いつまでも若くないと言う言葉を噛み締め始めながら、緑茶を口に含んだ。 ひと息ついて、身支度の仕上げ。今日は館内警備を含む内勤だから、スーツにネクタイを締めた。 寮の食堂にはすでに隊員達がちらほらといる。堂上もその中に混じって、食事を乗せたトレー片手にテレビの観やすい席に座った。 朝のニュースは政治家の失言を取り上げていた。トップニュースがそれか。例えば表に出ない様々な戦いの犠牲者がいたとしても、世の中には知らされる事などない。 本当に日本は平和すぎる。 いつものように一番乗りした事務所。 何の気なしに壁に掛けられているカレンダーを見て、嗚呼、と呟きながら手を伸ばす。ビッと音を立てて先月のカレンダーを剥がす下から出てきたのは、十月のカレンダー。 そうか、もう十月なのか――――。 自然と目はあの日を探す。堂上の図書隊員としての方向性を決定付けた、あの清廉さに出会った日。図らずも陸上選手として有望視されていた彼女の、まだ不確定だった将来をねじ曲げてしまったかもしれなかった日だ。 毎年この日が来ると、胸に苦いものが込み上げてくる。それは後悔だとか懺悔だとか、とにかく悔やむ感情ばかり。 若かっただけでは済ませられない、見計らいの暴挙。ひとえにあの日の彼女を、ひいては彼女が守ろうとした本を代わりに守りたかっただけに過ぎない。 そこには確かに堂上なりの正義が存在した。その実、図書隊員としての正義があったかと問われれば、後に吊し上げられた査問会を見れば火を見るより明らかだ。 そんなあの日の堂上を、郁は完璧超人の王子様と勝手に祭り上げ、自慢の足でもって勝手に追いかけてきた。関東図書隊というだけのわずかな手がかりだけでここまで。堂上があの時の図書隊員だとは覚えていなかったのに。 だから素面であんな恥ずかしい事を本人を目の前にしても言えたんだ。馬鹿な奴。馬鹿で――――危なっかしくて目が離せない。 その郁が先頃、堂上に宣言をかましてきた。小牧曰く「王子様卒業宣言」なるそれを聴いた堂上の心中は、その実穏やかではない。 勝手に王子様まで格上げしておいて、今度は勝手に卒業すると。 じゃあなんだ、堂上自身はどうすればいいんだ。 その時、床を鳴らす革靴の音に宙に浮いていた意識が戻る。 「――――と、おはよう、堂上」 堂上の登庁から僅かに遅れて小牧が入ってきた。 「おはよう、小牧」 そこに居たのは、血気盛んな三正の頃の堂上ではない。 すでに図書特殊部隊最年少班長たる堂上篤に切り替わっていた――――…………。 * 館内警備の為に特殊部隊庁舎から図書館に向かう途中、ふたりの部下に昇任試験の掴みを聞いてみた。案の定、手塚はすでに概要を把握した上で対策を講じているらしいのだが、郁の方はからっきしである。思わずゲンコツを落としかけたのをなんとか止めたのは、小牧がまあまあと執り成してくれたからに過ぎない。 「おいお前、本気で士長目指してんのかオラ」 「目指してます目指してますよ!ちゃんと目標あるんですからね、あたし」 「ほ〜、一丁前にか」 「ひ、人に話したら叶わなくなっちゃうから、教えてあげませんッ」 「そりゃ夢の場合だ、アホウ」 「あれ……?」 相変わらず抜けた奴。 そんな郁とて、一歩図書館の中に入ればいっぱしの図書隊員の顔になるのだ。いつまでも新人風を吹かせてもらっては困る。 もっともそんな郁を見ていると、ふとした瞬間、隙間風のような冷たさに胸の奥の方が一瞬切なくなるのだ。それは手塩にかけて育てた部下が、少しずつ手から離れていく淋しさから。それ以外には――――。 「ほらほら、小牧教官行っちゃいましょう!」 「逃げんな、笠原ァッ」 これ以上の説教は無用とばかりに小牧の袖口を掴んだ郁は、さっさと自分たちの巡回路へと逃げていった。今日の郁のバディである小牧は、引っぱられながら苦笑いを浮かべている。 それを呆れた表情で見送る手塚を、堂上もひとつ息を零しながら巡回を促した。 「いくぞ」 「はい、堂上二正」 素直に返事をする部下を横目で見ながら、そっと胸の内で問う。 例えば手塚が図書隊員としてひとり立ちしたとして、果たして僅かでも虚脱感のようなものを覚えるだろうか?――――否。 即座にそう思った自分に驚きつつも、しかしそうなるだろう事は否定しなかった。たぶんそれは、郁が郁であるからであって、手塚は堂上の中で可愛い部下という以上には何も思っていないからだろう。 ――――どうしたって郁は、あの時の女子高生でしかないのだから。 切り替わらない思考にこっそりため息をつきつつも食堂を通り過ぎた時、突如インカムに緊迫した声が届いた。まだ若くて物慣れていない、恐らく春に入隊したばかりの新人か。 『こ、こちら二階展示室付近より入電ッ』 相当テンパッている。内心で舌打ちをしながら無線を切り替えた。 「こちら巡回中の特殊部隊堂上班堂上二正より入電。どうした。送れ」 インカムの向こうで堂上の言葉を受け取った新人は、自分の言葉を受けたのが特殊部隊員と知って一層の混乱を引き起こしたようだ。面倒くせぇ。だいたい情報伝達の作法がすっ飛んでるじゃないか。 『うぇッ、じ、自分は!』 「貴様の話じゃなく現場の話をしろ、アホぅッ」 『す、すみませんッ』 一喝したところで別から無線が入る。 今度はマトモな入電に安堵したが、された報告は安堵出来るものではない。無意識に手塚と視線を合わせてロビーに向かって走りだした。 * ターゲットは二階展示室にて展示中の歴史書数冊を持ち去った可能性がある事、グレー系の上下に黒のリュックと帽子を被っていたらしいとの事だった。不審な挙動に職質をかける直前に逃走、人と棚の入り組んだ開架の間で見失ったらしい。 「凶器は?」 『未確認です、どうぞ』 「厄介だね……」 小牧の言葉に郁も頷いた。 特徴のない服装で人の中に入られたら、まず発見は困難だ。加えて凶器の有無も確認出来ないとあっては、日曜日の利用者の多さを考えて慎重にならなければ万が一の被害が出てしまうだろう。 図書も大事だが、人命も大事だ。そこを履き違えてはいけない。 隙なくあたりに視線をやりながら早足で開架フロアまで移動する途中で、堂上から連絡が入った。 『小牧』 「連絡が遅いんじゃないの、班長?」 軽口を叩く小牧に舌打ちしたのまで、インカムを通して郁にも聞こえた。 緊張だけでは張り詰め過ぎる。小牧の絶妙な無駄口が、ともすれば生真面目な班長のピンと張りがちな糸に少しだけゆとりを持たせるのだ。 張り過ぎた糸は確かに完璧仕様だけれど、その反面僅かなきっかけで呆気無く切れて台無しになってしまう。 糸を張る堂上とてその辺りは考慮しているかもしれないが、しかしその手綱にそっと手を添えて加減をしてやるのは小牧なのだと、今ならわかる。やっぱり郁の知りうる中でこのコンビは別格だ。 『……ぬかせ』 「で、今どこに向かってるの?」 小牧の方から切り上げると、堂上と手塚はとりあえずロビーに向かっているらしい。他班も動きだした。それぞれが無言で成すべき事に対して最適な動きが出来る、その中のひとりとして、郁も引き締まる。 『俺と手塚は今ロビーに着いた。宇田川班と防衛部の奴らもここだ、さり気なく利用者の流れを誘導してくれてる』 「了解。俺と笠原さんも間もなくロビー――――……なに?」 「あれ、そうじゃないですか?」 通信の途中に割って入る違反も承知で、郁が小牧の袖を引いた。 指はさせない、気づかれないように目線で注視を促す。 黒の帽子、グレーの上下、重そうに肩からかけているリュックも黒。 「――――職質かけてきます」 「わかった。援護する」 「お願いします」 例えどんなに訓練を受けていても、相手が男である以上、初動で遅れをとればたちまち郁はやられてしまうだろう。だから勢いのつかない場面ほど緊張するシーンはない。 気取られないようにゆったりと、しかし一歩一歩に力を込めて、立ち会った瞬間に爆発させるタメを蓄えた。 相手は挙動不審にはならない程度に辺りを伺っている。隙がない。落ち着きといい足運びといい、何か武道系を齧っている気配。グレーの服の下には、凶器以上の何を隠している? インカムに堂上と小牧のやりとりが入ったが、集中した耳にはさわりしか入ってこない。目の前の事以外に耳を傾ける余裕を持てるほど器用ではない。神経はただ前にのみ注がれていた。 いま出来る事は、呼吸を乱さないようにする事。緊張が己の呼吸音を耳にまで運ぶ。浅く、繰り返す。 『――笠原』 不意に捉えた堂上の声に、一瞬郁の歩みが遅れた。すぐにまた同じ速度に戻る。 「はい」 『お前ならやれるだろ』 「――――ッ」 まさかの激励に頬が熱くなる。 『落ち着け。フォローはしてやるから』 「はいッ」 ただ声を聞くだけで、こんなにも力が湧いてくるだなんて。胸に灯った熱を力に変える。 ターゲットまでの距離はあと十歩足らず。自分を整える為にカウントを呟いた。 「――――すいません、ちょっといいですか?」 声をかけた瞬間、ターゲットは振り向く勢いのまま、拳の甲で激しく郁を撃ちつけてきた。 * 「――――ッ」 突然の反撃にも郁の身体が反応したのは、ある程度の予想をつけていたおかげだろう。 堂上が手塚と現場に駆けつけた時、郁はカッターのような物を振り回す犯人の間合いに斜め下から切り込んだ所だ。相手の動きは素人ではない、多少格闘技が出来る人間のソレ。つまり最初から目的があって図書館に来たらしい事が予想できた。 周りの利用者は他の班員や防衛部の人間が促して間合いを取ってくれている。郁が上手く誘導したからか、書籍の棚とも距離を置いている。最初からは争いを意識した間合いのとり方に、胸の中で少しだけ安堵を漏らす。 「反撃を確認ッ、これより正当防衛を行使します!」 犯人からの一撃を受け流しながら、郁が声を張り上げながら相手の懐に入った。 だめだ、それでは頭の上から狙われる。あれだけ格闘訓練で言われている事をなぜやるのか! サインで小牧と手塚に合図して囲む前より一瞬早く。犯人が両手を固めて振り上げた瞬間を見逃さず、下に潜り込んでいた郁が伸び上がり相手の上半身を力一杯押すと同時に、両足を刈っていた。 いわゆる柔道技の朽木倒しのような形に、相手が勢いよく背中から倒れた隙を見逃さず、すかさず郁がマウントをとる。全体重をかけたポジションに、しかし相手の反撃が――――。 「確保ォ!」 繰り出された拳はその寸前で堂上班全員に押さえつけられていた。その瞬間の、郁の脱力に班員の苦笑いが重なった。 「ほら、笠原さんが手錠かけてよ」 「え?え〜。あたしなんか、だって最後まで結局ひとりでもってけなかったし…………」 「お前の技術とウェイトのなさは別問題だろ」 手塚の指摘は正しい。郁のバネに体重が乗れば難なく倒せたかもしれないのは、郁のただのわがままな願望に過ぎない。 「でも」 なおも渋る郁に、堂上がぶっきらぼうに追い討ちをかけた。 「さっさと確保しろ。他の利用者の迷惑だ」 「うわ、わッ、しますします!」 慌てて腰から手錠を出すと、慣れない手つきで犯人を拘束する。それを確認して漏れた安堵のため息は、果たして誰のものか。 「じゃあ俺と手塚でこの人連れてくから」 「おま……ッ、バディ崩すな!」 「まあまあ、お手柄の部下を褒めてやるのも班長の仕事でしょ?」 絶対わざとだ。あの宣言からこっち、イマイチぎこちなくなった郁との間合いをわかってて言っている。だいたいそんな事で一々褒めてやるものか。 「あの……」 「な、なんだ!」 胸の内の動揺も相まって、必要以上に声が響いた。耳がほわんと熱く感じる。 「――――そんなおっきな声出さなくてもいいじゃないですか」 「お前が急に声かけるからだろうが、アホゥッ」 「すぐそうやって阿呆阿呆言う!…………じゃ、なくて。あ〜…………」 「だからなんだよ」 ぶっきら棒に突っ込めば、郁はぐるりと館内を見回してからやっと頬を緩めた。 館内の様子は先程の荒事が嘘のように落ち着きを取り戻し、再び利用者が楽しそうに本を見ている。どの利用者の表情も柔らかい。 「――――良かったです、戻って」 ぽつりと零された言葉が、郁の言いたい事の全てなのだろう。 同時に彼女の、図書隊員としての成長を思う。 ただ本が好きで、王子様を追いかけてきた女子高生はここにいない。 図書隊の様々な側面と問題に直面し、綺麗事だけでは変えられない現実に悩んだ事も知っている。迷う心を抱えながら、それでもシゴキに食らいついて図書隊員の己を高めていった郁。この彼女がようやく見出した物と覚悟を、しかし堂上は正しく受け取っていただろうか? ただあの時の後悔を庇護に変え、郁を護る事で得てきたのは彼女の為ではなくただの自己満足だった。そしてなぜそうとしか郁を見られなかったのか、そもそもの問題を突きつけられた。 「堂上教官?」 呼ばれて郁を見る。まっすぐとこちらを見てくる視線に、堂上は気づいたばかりの思い上がりを恥じた。 恋に恋をして、間違った頑張りを発揮していた郁はもういない。未だに王子様を引きずるのは、郁に対する嘲りだ。純粋にひとりの図書隊員として踏み出し成長を続ける彼女自身を評価しなければ嘘になる。 そうして来なかったのは。それが出来なかったのは、一重に郁を「あの時の女子高生」のままにしておきたかったから。郁が王子様に憧れて、その想いを照らいなく口にしてきたのと同じ理由。 言葉で返す代わりに、いつものように頭を撫でる。 その事を不思議そうに、だが喜んでいるようにも見える郁に、胸の中で決意が固まった。 「――――いくぞ」 「はい!」 歩き出すのは路ではない。 もう郁を「あの時の女子高生」として扱うのは止めだ。ただひとりの図書隊員として――――ただひとりの、女として見ていくと決めた。 郁が王子様を卒業するならこっちだとて。 密かに決めたこれが、堂上のお姫様卒業宣言になる――――…………。 |