我が輩は犬である。齢三つの遊びたい盛り。
 しかして飼い主は今年ジュケンベンキョとやらで、最近めっきり構ってくれない。なんでもダイガクにシンギャクする為にベンキョを余儀なくされているらしい。シンギャクの為にほうっとかれる身にもなってくれ。
 たまに飼い主の兄達も構ってくれるが、やっぱり我が輩は飼い主が一番だ。
 だって優しいし力いっぱい遊んでくれるし、何より美味い飯を食わしてくれる。母親との約束で、我が輩のメンドを全部見るという約束らしいが、我が輩は十二分に飼い主からの愛情を感じている。

 そんな我が輩と飼い主との間に異物が入り込んだのは、飼い主がブカツを引退してあまり走らなくなった夏の盛りを過ぎた時期にまで遡る。
 異物の名を、ドジョウ・アツシと母親は呼んでいた。





「こんにちは、お邪魔します」
 階下でここのところほぼ毎日聞く声を拾い、自然と耳が立ち上がった。アツシクン、だ。
「いつもごめんね、篤君。お母さん、今日はお仕事お休みだったかしら?」
「今日は家にいますよ」
「あら〜、じゃああとでお邪魔しちゃおうかしら」
「あ、ええと……どうぞ」
 珍しく歯切れの悪い返事を置き去りに、トントントン、と階段を上がってくる規則正しい足音。無意識に尻尾が揺れる。
 コンコン、律儀なノック音に、ローテーブルで勉強をしていた飼い主が慌てて立ち上がった。集中しすぎてアツシクンの来訪に気づいていなかったらしい。
「あ、は〜いはい」
「はい、は一回だろ」
 軽口に苦言で返しながら、アツシクンは苦笑しながら飼い主の部屋に入ってきた。
 すらりと背の高い飼い主と同じくらいの背丈でありながら、体つきは全く異なって厚い。柔らかい飼い主の身体と違って硬い筋肉を持つアツシクンは、全力でぶつかっていってもがっぷりと受け止めて遊んでくれるから、当初警戒心たっぷりだった我が輩もあっけなく大好きな遊び相手として籠絡されてしまった。番犬形無しである。番犬だった事は一度もないが。
「今日はまず……歴史だな。 日本史」
「嫌い」
「やれよ、自分の為だろ」
「ふたりきりの時ぐらいグチらせてよ」
 外では頑張ってるもん、と口を尖らせる飼い主。
 我が輩は定位置であるアツシクンの太股に顎を乗せながら、そんな顔も可愛いななどと思う。ほら、アツシクンも分かりにくい仏頂面の裏側が緩んでいる。鈍感らしい飼い主は気づかないけど。
 ふたりきりって言うが、我が輩を忘れてもらっちゃ困るんだがな……。
「ほれ、んな事言ってないで教科書開け」
「はぁ〜い」
 なんだかんだ言いながらも、飼い主はアツシクンに従順だ。大好きがにじみ出てる。誉められると我が輩と同じ尻尾がついていればぶんぶんと物をなぎ倒す勢いで振っている事だろう。我が輩はいわゆる小型犬だから、そこんところは果たして定かではないが。
「大河ドラマ観てるか?」
「その時間、お兄が違うの観てるの」
「結構時代考察とかも、まあ完全に正確とはいかないが観てるだけで時代背景とか人物図とか入ってくるもんだぞ」
「篤くんは観てるの?」
「ああ」
「……じゃあ、観てみようかな」
 ――ちょろいもんであるだ。
 我が輩が見ているだけでも、飼い主はアツシクンに気がある様子が匂いでわかる。アツシクンが来る日は(最近はほぼ毎日だが)、飼い主からうきうきする程いい匂いがする。爽やかだけど甘いイイ匂い。だからベンキョ中はついついうっとりして、さしもの我が輩も寝入ってしまいがちだ。
 おかげで枕代わりのアツシクンの太股がべったりと涎で濡れてしまう事が多々あるのだが、立ち上る臭いに嫌な顔ひとつせずに頭を撫でてくれる。実によく出来た男だ。ツガイになりたい。

「今日はジャージなんだな」
 やがてぼそりと呟かれた言葉に我が輩の意識が浮上した。いかん、また寝入ってしまった。だが今日は涎を垂らしてはいなかったぞ。
「え、前だってジャージだったじゃん」
「そうだけど。……一昨日までは、もうちょっと、スカートとか……」
「え!?いや、それは……気分だよ、気分!」
 スカート、とは。ああ、昨日まで履いていたふわりとした腰巻きか。あれはあれで飼い主の細くて長い足に映えて似合っていた。生足が気持ちよくて大好きな服だったのに。
 でも確か昨日の散歩で、知り合いの男に言われたんだった。『似合ってない』って。
 我が輩からすれば言った男からもイイ匂いがしたから、きっと飼い主の事を好ましく思っているのだろうに、なぜに人間とはすべからくめんどうくさい生き物なのか。
 アツシクンによく見られたいが為に着ている服を他人に否定されたからと言って脱ぎ捨てるだなんて、わけがわからん。可愛いモンは可愛いだろ。そんでアツシクンの表情を見れば一目瞭然なのに、なぜか飼い主はまともにアツシクンの顔を見ようとはしないのだ。あ〜めんどくさいめんどくさい。おやつが食べたい。
「まぁ……こっちのが俺は落ち着くけどな」
 ぼそりと呟かれた低い声は、我が輩の耳だから拾えた極々小さな独り言。生足じゃない方が落ち着くのか、我が輩はアツシクンの太股が落ち着くぞ。
「え? なんか言った?」
「別に。 ほら、ここ間違ってる」
「ん? ぎゃ〜、ホントだ! も〜、人の名前覚えらんない!」
「お前の場合顔もだろ。 ほれ、今度のテストでいい点とったら、ご褒美やるから頑張れ」
 途端に飼い主の渋面がパッと明るくなる。現金なものである。
「なになに? どっか連れてってくれんの?」
「どっか連れてって欲しいのか」
「映画館! もう少ししたら大好きなシリーズの新作がかかるの」
「あ〜、あのアクション物か。 ホント好きだよな、郁は」
「いいじゃん、人の趣味にけち付けないでよ」
「つけてないだろ。 たまには恋愛物とか、女が好きそうなのとか観ないのか」
「え〜……似合わないし」
「可愛いの好きだろ、お前。 合ってるよ、そういうのも」
 さらりと頭上に落とされた言葉につられて見上げれば、下を向いたままのアツクシンと目があった。その時の彼の動揺。耳が赤い。熱でもあるのかと心配になるほどに。
「……変なの、篤君」
 上擦った声につられて飼い主の方にも首を巡らせる。あらあら、こっちもお顔が真っ赤ですけど。我が輩、母君から体温計でも借り受けてこようか?大事な時期にカゼは禁物だ。
 しばし緊張をはらんだ油断ならない空気が立ちこめた。我が輩ももう完全に目が覚めている。しかし寝転がって腹を見せてしまうのは許して欲しい。だってアツシクンが撫でてくれるのだもの。照れ隠しでやってるのを知っているから、我が輩も協力しなくてはならないだろう?にゃんにゃん。あ、違った、わんわん。
 
「郁〜、篤君〜、ちょっとお母さん出かけてくるから、お留守番お願いね〜」
 階下から母君の声。先ほどアツシクンのご母堂の在宅を確認していたから、しばし遊びにでも行くのだろう。
「わかった〜」
 今度は上擦っていない返事を返して座り直すと、その華奢な手に一回り大きなごつい手が重なって、真っ赤な顔をした飼い主が反射的にアツシクンを上目使いで見上げた。対するアツシクンも色黒でわかりにくいが、耳と言わず頬も色づいているような気がする。
「ちゃんと頑張れたら、ご褒美に映画館デートな」
「で、デートって……」
 ああ、なんだか甘い匂いが増してきたぞ。好きな匂いだけど嗅ぎすぎるとくしゃみが止まらなくなるんだよな。
 仕方ない、鼻の安寧と居心地のよさを天秤にかけたらとるべきは前者でしょ、犬として。

 のそり、と身体をあげて階下の茶の間に逃げた我が輩であるからして、その後二人がどうしたとか聞かれても困る。
 困るが、ベンキョを終えた二人の口元からは同じ匂いがしていた事だけは、この鼻にかけて証言する。






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