「失礼しま〜す! 堂上先生、夜食お持ちしましたよ」
「ああ、すまん。 こっちに持ってきてくれ」
 すらり、と障子を両手で開けた作務衣姿の彼女を認めると、この部屋の主は小さく頷いて招き入れた。



 東京多摩の奥座敷、人気のない民家のようなこの旅館こそ知る人ぞ知る由緒正しい佑屋(たすくや)である。
 遡れば大正時代の文豪著名人におおいに愛された隠れ宿で、価格も控えめ、都心からもほど遠い立地も相まって、よく作家などを缶詰するのに使われているという。下手にビジネスホテルに押し込むよりも、献身的な仲居という監視役に栄養を考えた美味しい食事がつく佑屋は、ひとり一棟、内風呂付きというのもあって業界ではいたく重宝されていた。
 そして三日程前から同じように締め切り前のひとりの作家が佑屋に軟禁……もとい、宿泊していた。
 名を堂上篤という。
 ハードボイルド系推理小説が得意のこの作家は、現在進行形でスランプに陥っていた。しかし仕事である。なんとかネタをひねりだしてコネて固めて形を作って、という作業がしやすいようにという配慮の元、担当の小牧に有無をも言わずここに放り込まれたのだ。
 三日いて、正直ここは非常に居心地がイイ。
 さすが多摩の奥座敷、窓を開ければ川のせせらぎと小鳥のさえずりに心が癒され、夜になれば虫の鳴き声が哀愁を漂わす。これはなかなか琴線に触れる癒しだ。
 ただ堂上が居心地がいいと思うのは、それだけではなくて……――。

「お夜食、こちらでよろしいですか?」
「ああ、ありがとう、郁さん」
 応じれば、彼女は屈託なく微笑んだ。くそ可愛い。手つかずの可愛さがここにありました、いつ摘めばいいんでしょうか?
「悪いけどお茶も淹れてもらえるか?」
「はい。 あ、小牧さんが差し入れてくださったカモミールですね」
「すまん」
「いいえ、先生のお世話をするのがあたしの仕事でもありますし」
 にこりと笑う純粋さに、堂上は出会ってからもう何度目か分からない陥落をしてしまう。

 元々郁は佑屋の見習い料理人である。
 ここの料理長の腕に惚れ込み、半ば押し掛けで弟子入りしたらしい(堂上の所に押し掛けてきてくれれば、一発で嫁にしたのに)。ただ包丁を持つ手の危なさに、しばらくは仲居をしながら修行する事になったのだと、郁の事で探りを入れた仲居の柴崎が含みのある表情で言っていた。
 確かに頑固そうな一面も見られるが、基本的に素直な性格らしい郁だから吸収し始めれば早いだろう。今はその地均し、基礎をたたき込まれている段階なのだろうなとは、堂上の想像にすぎない。
 堂上にしてみれば一癖二癖ある面倒くさい人種に囲まれて仕事をしていた所に、あんなに純粋な人間に出会ってしまい、その裏表のない性格に一発で打ち抜かれた。他人の手垢がついていない奇跡に感謝した。神様って本当にいるんですね、今度お賽銭奮発しときます。
 
 そんなわけで、現在より一歩進んだ関係になるべく、日夜いろんな意味で励んでいる堂上ではあるが、いかんせん当の郁が天然で鈍感の最強娘と来たもんで、全く取り崩すことが出来ないでいるのが現状である。
 最強天然要塞を、さてどうやって切り崩していこう。

「お茶が入りました。 はい、どうぞ」
「ありがとう、郁さん」
 はい、と差し出されて受け取った手が触れた。頬を染めながら驚いたように目を見開いて、でも手をひっこめない。
 これは……どうなんだ?単に男慣れしてないだけなのか、それとも都合のいい解釈でもって堂上に気があるのか。判別に迷うところである。
「あの、お熱いんで……気をつけて下さい……」
 尻すぼみになる言葉尻。俯いた表紙に作務衣の襟口からのぞく項までうっすらと染まっているのが、イイ。ああ可愛いったら、全くない。可愛いは作れるなんて嘘だ、可愛いは天然でしか作れない。
 郁じゃなかったら誘ってるとみなして速攻口説くのに。それが出来ないのは己の口下手を重々承知しているから。
 さて、どう切り口を作ろう。
 先に口を開いたのは郁の方だった。
「あの、先生の本、今日読み終わりました」
「わざわざ読んでくれたのか、ありがとう」
「いえ、すっごく面白かったです! 特にあの守銭奴の猫とか! 笑っちゃいました、全身タイツの公安委員。 あたしキャラ読みだから、も〜ハマっちゃって」
「あれはな〜、結構俺も楽しんで書いたしな。 ありがとう、嬉しいよ」
 作家として素直に礼をすれば、途端に郁の頬がぱっと染まり上がった。りんごみたいでめちゃくちゃ美味そうだ。吸いつきたい、てかかじってイイですか?むしろ食べちゃってもいいですか?芯までいただきます。
「え? りんご食べたいんですか?」
 しまった、心の声がだだ漏れだったようだ。口元を押さえたがもう遅い。仕方なく頷いた。本当はリンゴが食べたいんじゃないんです、君が食べたいんです。
「郁さんが切ってくれるか? うさぎとか」
「あはは、堂上先生って意外と可愛いもの好きなんですね」
 ああ、可愛いもの好きだとも。だから遠慮しないで全力でいつでも嫁に来い。というか今から役所に行こうか。ああ、そうと決まれば善は急げだ!
「なにが善は急げなの?」
 その時、障子の向こうから恐怖の笑い仮面・担当の小牧が背筋も凍るような微笑をひっさげて暗闇の中から部屋の中を覗いていた。ホラーじゃねぇか!
「ほら、し、締め切りが……!」
「ああ、そうだね。 ちゃんと仕事してたんだ、堂上」
「こんばんは、小牧さん。 小牧さんの分も今りんご持ってきますね」
「ありがとう、笠原さん。 それとあんまりこいつを甘やかしちゃだめだよ?」
 はい?と小首を傾げながらよくわからないなりに頷いた郁は、それでは、と部屋を後にしてしまった。
 ああ、行ってしまった、俺のりんごちゃん……。
「ずいぶん楽しそうな缶詰生活だね、あんた。 当初の目的忘れていつまでもここにいたいとか思ってない?」
「どきッ」
「あんまり舐めたまねしたら、仲居の担当替えてもらうから」
「!!……それだけはッ」
「じゃあきっちりお仕事しようね、センセイ?」
 ああ、どうしてこいつの笑顔はこんなに怖いんだ……。
「お待たせしました……て、堂上先生、どうしたんですか? 顔色悪いですよ」
「……なんでもない」
 ここはひとつどうにかこうにかキャラ読みの彼女に想いが届くような強烈なキャラクターを生み出して振り向いてもらおう。
 
 堂上の間違った努力がこの後特殊な読者層に大うけするのだが、それはまた別の話……――。






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