「もうちょっとで引退しちゃうね、部活」 「勝手に人を地区予選止まりの男にすんな」 「え〜。だって柔道部、篤以外はみんな白帯で弱いじゃん」 「柔よく剛を制すって知らんのか」 「どーせあたしは篤みたいに頭良くないですよ、っと!」 なんでもない道で躓く郁の細い身体を逞しい腕が支える。すらりと伸びた肢体は薄いのにきちんと女の柔らかさを兼ね備えている事に、細くため息をついた。 僅かに寄せる眉は最早デフォルトで、実は怒っているのではなく困ったりしている時にそうなるのだと、幼なじみの郁はすでに知っている。 最近その眉間に寄るしわの意味合いが変わってきた。正確に言えば春、もっと言えば幼なじみ止まりだった二人の関係が変わった頃から。 今も眉間のしわは健在で、その理由は自分であるのだと薄々わかってきた。わかってくるとこの幼なじみで仏頂面で自分よりも背の低い要らん事言いの彼氏の事が、可愛くて愛しくて仕方がなくなってくるのだ。 「ありがと」 「どういたしまして」 いつでも郁を助けてくれる彼氏に満面の笑みで返すと、篤はぶっきらぼうに素っ気なく返してさっさと郁を立たせる。それがなんだかつまらなくて、もっと構いたくて。 するりと太い腕に絡みつき、ぺったりと寄り添えば困惑顔の彼氏に出会った。 「人通りあるだろ」 「ないじゃん、こんな路地裏」 家への近道と称して通る薄暗い道も二人だからこそ通れると言うもので、わざわざ人気のない道を好んで通る人間もいないだろう。 そしてこの暗さが、いつもは恥ずかしがり屋の郁にささやかな大胆さをもたらしてくれるのだ。 「・・・ね」 「ん?」 「キス、して?」 春に関係が変わってから幾度と交わした唇での愛情表現。一緒にいても毎日するわけではないそれは、いつまで経っても恥ずかしいけれど。それでも今この瞬間強請りたくて仕方ない。 そして篤は易々と郁のわがままを叶えてくれるのだ。 ちゅ。 唇と唇が出逢う密やかな音。触れるだけのそれに愛しい気持ちを口づけに乗せて吹き込んだ。 大好き、大好き。 枯れることなどないように思えるこの気持ちを、どうしたら全て伝えることが出来るのだろうか。 何度も角度を変えて、でも触れるだけ。熱を口移しするように、反対に熱を注いでもらうように。 「気が済んだか?」 優しく微笑む朴念仁の顔が余裕そうに見える。おかしい、スタートは同じはずだったのに。近すぎる幼なじみ関係でお互いこれが初彼氏彼女のはずなのに、なぜこんなにも余裕のあるふりが出来るのだろうか?こっちはいつだっていっぱいいっぱいなのに・・・。 むぅ、と口をとがらせていると鼻を摘まれた。 どうしてくれようか、この仕打ち。 「済んでない!」 「じゃあどうすれば気が済むんだ」 ますます膨れる郁はぷくりと頬を膨らせたまま腰に手を当てて宣言した。 「あたし、あたしより背が高い人とキスがしたい!」 「・・・ッ」 見ればわかるが堂上は郁よりも若干小さい。立ち上がって横に並べば一目瞭然で、だがしかし一度だってそれを気にする事などなかったけれど。 余裕しゃくしゃくな篤を見ると、なんだか自分の方がこのおつき合いに不利な気がしてきて、その事が篤を困らたい理由になる。好きな子ほど苛めたい、そんな小学男子な気持ちが少しだけわかった。 成長期も通り越したであろう高校三年の篤に今から郁よりも大きくなれと言うのはだいたいが無理な話なのだから、これは盛大な無理難題である事は明白なのに。 「・・・わかった」 むすっとした顔でひとつ頷くと、戸惑う郁の細い手首を掴んでずんずんと先を突き進む。 ―何をするつもりか。 間もなく五段ぐらいの階段が見えてきた。そこで郁を立ち止まらせると、自分は一段上がって振り返る。若干高くなった。 「どうだ?」 いつもと違って少し上から聞こえる低い声。視線を動かせば喉仏の動きまで見えて、それが酷く色っぽく感じた。 さっと色を濃くした柔らかな頬を包み込む無骨で大きな掌。顔にかかる吐息が先ほどキスをした時よりも熱く感じるのは、きっと篤自身もいつもと違うものを感じているからで。 「・・・やッ!」 「ってぇ!?」 思わず両手で力一杯胸板を押せば、篤はあっけなく倒れて硬い石段に強かに尻餅をついた。 「なにすんだよ!!」 即座に返される抗議の声にも耳を塞ぎ、自慢の足で駆けだした。 驚く篤の声を後目に、足の動きはどんどん加速して郁はあっと言う間に薄暗がりの中に飲み込まれた。家まであと僅か、このぐらいならば走り抜けられる。 すぐに家に到着して、そのまま一足飛びに階段を駆け上がると、自室のベッドにダイブした。 胸が、心臓が苦しいのは全力で駆け抜けたせい。頬が熱いのは身体を動かしたせい。でも。 こんなに胸の奥からむずむずとした甘い感情が溢れるのは、きっと篤のせい。 いつもと違う視線、視界の先の彼氏、よく知るはずの幼なじみの篤がまるで別の男に見えて。 まさかもう一度恋をするだなんて・・・。 それを自覚してしまうと、もうキスなんて平常心では出来なかった。憧れた少し踵を浮かせて交わすキスなど、絶対に出来なかった。 信じられない、反則。 明日からどんな顔をして逢えばいいのだ。 でも、逢いたいだなんて。 なんて幸せで苦しい日々なのだろう。 同じ頃、同じ事を思っている彼氏の心中になどまるで気づかないままに。 |