県展が終了した。

 全てが終わって後に残ったのは茨城図書館の建て直し、重篤な傷を受け戦線離脱した玄田とかけがえのない稲峰元指令の勇退。


 それから僅かに芽吹いた堂上教官への恋心・・・。


 関東図書隊全体を揺るがす事件が過ぎた年をひとつ越え、特殊部隊の面々で新年会を開く事となった。もちろん普段音頭をとる玄田が不在と言う事もあり、常の呑み方とは違う、しっぽりしたものになったが。
 そのおかげか郁もいつものように飲め飲めと酒を勧められる事もなく、堂上規定よりもやや少ない酒量で一次会を終えられることが出来た。これならばこの足できちんと歩いて帰れる。
 いつものように堂上の二次会への不参加を強制する寝落ち状態ではない事を誇らしく思いながら、その一方で少しの寂しさも感じていた。




「笠原お先に失礼しま〜す!」
 声高に帰寮を宣言して店の外に出ると外は雪で。ふわりと舞う白い雪にアルコール混じりの息を吹きかけながらマフラーを直していると、背後でがらりと引き戸の開く音がして振り返った。
「堂上教官、どうしました?」
 見張る視線の先は、かっちりとコートを着込み首元には高そうなマフラーがねじり込まれている完璧なる帰宅スタイルだ。
「俺も帰る」
「え。だって二次会・・・」
「女ひとりでこの夜道を帰せるか」
「でもあたし戦闘職種だし、大丈夫ですよ〜」
「お前の大丈夫がどれだけ信用ないか知らんのか」
「うわ、ひどっ」
「いいから帰るぞ」
 ポケットに手を突っ込んだままの堂上が二の腕をぶつけて郁に先を促す。手袋を履き直した郁は、小さく小さく、はい、と呟く返事をするのが精一杯だった。




 まさか今日も一緒に帰れるとは思わなかった。
 堂上が郁と帰寮してくれるのは、郁が寝落ちてひとりで帰れなくなった時で。でもなぜか手塚でもなく小牧でもなく、その役はずっと堂上のまま。今ではそれがどれだけ勿体なくも幸福なことであったのか、寝落ちをした自分に喝采を浴びせると同時に惜しいことをしていたとつくづく思う。


 起きていたら堪能するのに。あの広い背中を、太くて逞しい首を、筋肉の律動を、堂上の香りを・・・。


「・・・おい!」
「ぇ?・・・ぅえ!!」
 突然大きな声を上げられて驚くが早いか、ぐいっと肩を強引に引き寄せられた。抱きすくめられる事で頬にコート越しの胸板を感じて、やっぱり厚いなぁ、と斜めな感心をしつつ。
 後ろからチリリンと軽やかなベルの音と一緒に自転車が通り過ぎ、ぼうっとしていたせいで危なく自転車にひかれそうだった事にようやく理解が及んだ。
「大丈夫か?」
 普段頭の上から降るはずのない声の方へつられて顔を上げれば、真っ直ぐな黒い瞳とかち合った。


 ああ、ヤバい・・・。


 近すぎる距離と、同じくアルコールの混じった吐息とが重なりあい、それが二人の距離を教えてくれる。近くて遠い、堂上までの。
 飲み屋街を外れればそれほど戸口の多くないこの周辺に、あるのはぼんやりと心許ない光を灯す街頭と微かな街灯りだけ。車通りも多くはないこの通りを歩いているのは郁と堂上くらいなもので。
 コートに縋った手に無意識に力が籠もる。
 こんなにも近くて、体温さえも感じ取れるというのに。しかし郁が知っているのは大きな掌の優しさと拳骨の痛さだけ。触れられる特別な場面は寝落ちで全ての記憶が剥がれ落ちていて、かろうじて覚えているのは心地よく揺れる振動のみ。


 もっと、もっと知りたいと思うのはいけない事だろうか?


 不意に郁を支える腕が動き、視線の位置が変わる。見上げる瞳が同じ位置まできて、ついにやや下にまで来た。これが郁と堂上の本来の位置。
「もう、立てるな?」
 確認に小さく頷くと、そうかと言って堂上は白い息を空に放った。
 どちらともなく歩きだし、しかし並んでゆっくりと歩を進めていく。
「なぁ、笠原」
「・・・はい、なんでしょう」
「お前・・・宴会で何食った?」
「は?」
 何をいきなり。そう思いながらも思い出す。
 唐揚げ、エビフライ、出汁巻き卵、シーザーサラダ、焼おにぎりに揚げ出し豆腐、それからそれからそれから・・・。
「それだ」
「え。何が」
「揚げ出し豆腐。上に乗ってたおろしに小ネギも乗ってただろ。さっきそれが歯についてた」
「・・・!!」
 声にならない悲鳴を上げながらしゃがみ込んで鞄の中から必死にポーチを探し出した。整理整頓を心がけていても焦るとなかなか目当てのものは出てこないもので、ようやく見つけだした手鏡でこっそり自分の顔をのぞき込んでみる。
 なんたることか、身だしなみの時点で恋する乙女失格ではないか。好きな相手に見とれている間に、自分はしっかり小ネギをつけた歯並びを見られていただなんて恥ずかしすぎる!もうホントに本当に信じられない!!
 背後のしのび笑いがもの凄く居たたまれない。穴があったら入りたい気分で、地面に穴でも開かないかしらとじっと睨みつけるもそんな事はあろうはずもなく。
「笠原」
「放っといて下さい。こんな女子力ない女子・・・」
「カミツレの店、見つけたのか?」
 言われてぱっと立ち上がる。
 年末に確かに交わした二人の約束、堂上は次の公休にと言ってくれた。すなわち・・・。
「あ、はい!教官が気に入ってくれればいいんですけど・・・」
 自分のセンスに自信がなくて、ちょっぴり俯く頭にぽんぽんと慰めてくれる大好きな掌が乗った。
「お前の行きつけなんだろ?」
「えぇ、まぁ。可愛らしくて、大好きなお店なんです」
「じゃあきっと俺も好きになるな」
「・・・ッ」


 どうしてそんなに簡単に舞い上がるような事が言えるのだろう。どうして、どうして。 


 どうしてこんなに好きになってしまったんだろう・・・。


 些細な事であっと言う間にどん底まで突き落としながら、ほっとする一言でたちまち郁をすくい上げてくれる。
 今までこんなに人を深く想った事などなかった。好きだと思ったらとりあえず気持ちを伝えて、それが全て。臆病な心など、堂上に恋をするまで知らなかったのに。
 止めてしまえれば楽なんだろう。でもそんな事は今更出来ない。
 この人の全てを知りたいと思ってしまうほどに、恋に恋しているのではなく隣を歩くこの人に心奪われている。
「楽しみだ」
「あた、しも・・・です」
 また歩き出す。隣を歩く、すぐそこの距離。指と指が、手の甲と甲が触れあいそうで触れあえない、それはまるで今の郁と堂上の距離のよう。

 


 一緒にカミツレのお茶を飲みに行ったら、この距離は縮まりますか?
 この指が、絡まる事を許してくれますか?


 そっとのぞき見る堂上の表情は柔らかく彼方を見据えていた。

 

 答えはまだ、遙か遠く。






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