結婚三年目にしてようやく子宝に恵まれた堂上家の嫁・郁が臨月の大きな腹を抱えながら産休に入ったのは先々週の事だ。
 それと同時に特殊部隊の飲み会で密かに復活した名物がある。それが褌野球拳であることなど、産休に入った郁だとて知らぬ事であった・・・。





「さーいしょ、はグッ!じゃんけ〜ん、ポイ!!」
 特殊部隊御用達の居酒屋、その最奥の襖を開けると参加者全員が引き締まった身体を惜しげもなく晒し、唯一形のいい臀部を褌で締めるだけの男らしい格好で無邪気にじゃんけんをしている滑稽な図が繰り広げられていた。
 否、端から見れば滑稽極まりない光景であったとしても、本人たちにしてみれば身にまとうは褌一枚の薄布だけの状態で負けたら脱ぐというルールのもと、野球拳をしているのだから真剣に成らざるを得ない。いや、真剣に成らなかったらただのおちゃらけた露出狂のレッテルを貼られるのだ。それだけはなんとしても避けたい。
 自然、勝負は気配を探る駆け引きから始まり相手の出方を予想して最良のタイミングを見計らい、あいこの場合はその後に続く手を瞬時にして判断しなくては成らないのだ。ある意味極限状態の精神修行である。
 一見馬鹿馬鹿しさこの上ない飲み会の光景がここ何年かなりを潜めていたのは、ひとえに紅一点の郁が配属された為である。その前は飲み会ごとに仁義なき真剣勝負が繰り広げられていたという。
 ところが中止の理由たる郁が産休に入った。当然妊婦として飲み会にも出られない(というか堂上が全力で阻止する)。そうなると野球拳を復活させない理由もなくなるわけで。
 連中が最初に先駆けてやった事と言えば、新婚ボケしている手塚の股ぐらをぎりぎりと締めあげて褌の付け方をたたき込む所から始まったのだ。





「ま〜た勝ちやがった、こんのクソ堂上!!」
 なんとでも罵ればいい。こちとらこれから父親になる身だ、気を引き締めて全戦全勝の心構えでもって胸を張って我が子を迎えるために、こんなくだらない所で負けてはいられないのである。まさに褌を引き締めて勝負に臨んでいるのだが、そんな姿は周りから見れば薄ら笑いを誘うだけとはついぞ気づいていない。嫁である郁ですら褌姿カッコいい!とか思っているわけだから、気づくまでには子どもの成長を待ち、思う存分冷ややかに否定されるまでは誰も指摘しないだろう。
 だいたいがこの場にいる全員が褌なのだから、何も言えない。
「手塚もようやく褌姿が板に付いてきたな!」
 進藤にばしんと背中を叩かれながら、はぁ、と短く返事をするしかない手塚の耳は、褌野球拳が始まると途端に真っ赤になり終わるまで赤みが引かない。今も恥ずかしそうにでかい図体を縮こませ、隅の方で正座をして気配を消していたのに発見されてしまったのだった。
 ちなみに緒形副隊長は褌になる前段階ですでに飲み会を抜けている。年輩のおっさん達とほぼ裸で真剣勝負を繰り広げるよりも、忘れかけた恋の相手と寄り添った今、そちらを選びとるのか当然だろうし中抜けを許される身分でもある。それが殊更新婚の手塚にはうらやましい。この股間の頼りなさと同時に確実に包み込まれているという安心感に、徐々に慣らされていく自分が怖い。何よりもこの格好を妻である麻子に知られるのが、いろんな意味で恐ろしかった。
「そういや笠原の予定日はいつだっけか、堂上?」
「再来週の予定ですが、どうも子どもが大きめらしいんで予定よりも早くなるかもしれません」
 どうも早産の気があるらしくて、と褌の上司に生真面目に答える、尊敬して止まない上官の姿が目に痛い。
 若干虚ろになりかかった手塚の携帯が、その時世話しなく点滅している事にようやく気づいた。
 着信だ。しかも妻からかなりの数の着信があって青くなる。すでに一時間半前から何度も何度もかかってきていたのになぜに気づかないか!
 慌てて電話をかけるも、今度は相手の方がなかなか電話口に出ない。
 確か今日は特殊部隊の飲み会だからと麻子は郁の所に遊びに行っているはずだ。そこで何かがあったのだろうか?それならば堂上の携帯にも連絡が来そうなものだが・・・。
 色々な想定がぐるぐると目まぐるしく頭の中をかけ巡っている最中に、突然禁断の襖が開いた。




「ちょっとアンタら!この非常事態に暢気に褌姿で遊んでんじゃないわよ!!」




 聞き慣れた怒号が響きわたり、部屋の中にいる皆がぴたりと動きを止めた。無理もない、居酒屋の最奥のこの座敷は店員でさえもおいそれと無闇やたらと開けないものを、堂々と暴かれたのである。
「あさ、こ・・・?」
「光、こンのバカ!!なんで何回もかけてるのに電話に出ないのよこの役立たず!!」
 酷い言われようだが、全てをまるっと自分のせいでございとうなだれる手塚を見ると、手塚家の力関係が明らかである。
「し、柴崎・・・お前、郁と一緒じゃなかったのか?アイツどうした?」
「褌姿の堂上教官に言われたくないです!だいたいなんでアンタも電話に出ないんだッ!!」
 言いたい放題である。
「いや、だからどうしたと」
「笠原が破水しました!」
「・・・は」



「笠原が破水して、ついさっき陣痛来ました!!」



「なにぃ!?なぜそれを早く言わん!!」
「アンタが褌一丁で野球拳に集中しすぎて電話に気づかないからでしょーがッ!!」
 尤もである。
「病院には行ったんだな!?」
「とりあえず陣痛室で待機中です!ふがいない旦那様より頼りになる義姉さんに来てもらいました!!」
「静佳は義妹だ!!くそッ」
 忌々しく訂正すると、取るものとりあえずコートを着込んだ堂上が勇ましく居酒屋を飛び出していく。
「笠原の一大事とあっちゃあ俺たちも行かねぇわけにゃいいかん!てめーら行くぞ、柴崎病院まで案内しろ!!」
「了解です。・・・光」
「なんだ?」
「アンタは遅れて来なッ」
「・・・・・・え。なんで?」
「いーから。ちゃんとここの後始末、してくんのよ!」
 ああ、と訳も分からないまま、とりあえず生返事をした手塚が柴崎の言葉の意味を理解するのはあと半時間後・・・。






「郁ーッ!!」


 取るものとりあえず駆けつけた堂上は、走る勢いを止められずに廊下の壁に激突しながら進路変更して、ようやく目的の場所までたどり着いた。
「兄貴、遅ッ!つかその格好ナニ!?」
 先に待機していた堂上の妹・静佳が険しい顔を一転、激しく歪ませると堂上と同じく平均よりもやや小柄な身体を二つに折って震えだした。
「ちょ、なッ・・・どぅゆーつも、り・・・!」
「?」
 わけがわからない。
 だが今はそんな事に構っている暇はなく、現状は刻一刻と移り変わるのだ。
 郁の破水がどのくらい前の出来事かは定かではないが、破水から即陣痛が始まると言うものでもないらしい。そこら辺は個人差だ。しかし陣痛室前で静佳が待機していたということは、少なくともその渦中である可能性を示唆している。
「陣痛は始まったのか!?」
「ぁッ、はッ、はッ、ちょッ、そのカッコで、近寄らないで、変態ッ!!」
「はぁ?」
 がくがくと両肩を揺らしても全く的を得ない妹の言葉に、眉間のしわを海峡級に深くした所でようやく柴崎と特殊部隊の面々が到着して・・・堂上は目を剥いた。




 そう、特殊部隊一同は飲み会そのままの、褌一丁という雄々しい姿で病院まで駆けつけてきたのだ。




 いくら図書隊御用達の病院と言えどもよく守衛が通したものだ。だいたいその前に職務質問されなかった事の方が驚きである。
「な、ななな、なんて格好で来てるんですかアンタらはぁぁあッ!?」
「ご挨拶だな、堂上!お前こそ変態っぽいじゃねーか!!」
「!?」
 反射的に己の格好を見下ろした堂上は顔面蒼白である。なにせ褌の上にコートを羽織ってきたものだから、半端に変態臭が漂って来なくもない。寧ろ褌一丁の方がよほど健全に見える。


 静佳が言っていたのはこの事か!
 しかし今更わざわざ衣服をとりに行くわけにはいかない。その間に郁の様態が急変したら・・・絶対動けない!!


「現状報告しますと、破水したのが今からおよそ四時間前、陣痛は三十分後に来てすぐに搬送後陣痛室で待機を命じられました」
 きびきびと言いおいた柴崎はそれだけ言い残すと、堂上よりも先に陣痛室の中へ消えていった。褌の旦那よりも何倍も頼りになる親友である。
「ホント、マジ勘弁してよ兄貴〜ッ、ぶ、いい大人がッその、か、ッこ!」
「ッるさいわ!少し黙ってろお前!!」
 あまりに分が悪くて最早怒鳴るくらいしか出来ない。耳と言わず首まで色黒の肌が染まる様は普段ならば照れてるのかと流すところだが、生憎コートだけ羽織って見事な筋肉のついた膝下裸に革靴という格好では職質をかけられてもおかしくない怪しさで。

 人はこのような格好を俗に変質者と定義する。


 ガチャリ。


 その時、弱々しい金属音を立てて陣痛室の扉が開いた。
 中からは細い身体に不似合いの膨らんだ腹を抱えた郁が裾の長い病衣を羽織ってゆっくりと出てくる。その憔悴しきった表情に、堂上の胸がぎゅっと詰まった。
「あつし、さ・・・ッ!?」
 疲れきって虚ろな視線を廊下中にさまよわせ、ようやく求めた夫の姿を目にした途端、激しく壁に身体をぶつけて肩を震わせ大笑いし始めたのだ。無理もない。次期特殊部隊隊長候補として一身に期待され、その仕事ぶりから防衛部はもちろんの事業務部からも信頼の厚い堂上篤一正が一見して裸コートという変態極まりない格好をしているのだ。笑いこそすれ微笑みなんぞこれっぽっちも出てくる気配すらない。っていうか自分の夫がこれとか、ちょっぴりアレだ。
「い・・・郁!大丈夫なのか!?」
「堂上教官、笠原の子宮口が経産婦並に開きが早くて分娩室に移動する事になりました」
 口を手で覆い、大きな腹を抱えて肩を震わせる郁の代わりに、柴崎がきびきびと経過を報告する。
「立ち会い分娩を希望とありましたが、どうしますか?その・・・格好で」
「何!?」
 ふ、と薄く笑われた堂上は力んだが、改めて己の格好を見返す。いっそコートを脱ぎ捨てた方が潔いんじゃないか?
 思い立ったが吉日、さっそくコートを脱ぎ鍛え上げた肉体を晒すと重々しく頷き立ち会い分娩の意志を伝える。
 しかし柴崎の小馬鹿にしたような笑いは益々増すばかりで・・・裏を感じた。感じはしたが、男には引いてはならない時というものがあるのだ。郁が一世一大の戦いにひとりで赴く今がまさにその時で、側にいるだけしか出来なくとも触れられる場所で郁とこれから生まれてくる我が子を応援したかった。
 そうですか、と残念そうに呟いた柴崎はようやく郁の傍らを堂上に譲る。ひとつ頷き郁の手を取ると、情けないへの時眉で涙さえ浮かべふるふると震わす郁と目が合った。
 ひやりと体温を奪われた青白い頬を撫でる。
「郁・・・」
 立ち会い用の術衣を渡されるがまま装着する。まるで割烹着のようなそれはあっさりと褌を隠して、まるで裸割烹着のような出で立ちになってしまった。仕上げに薄いシャンプーハットのような帽子とマスクを装着し、サンダルに履き変えれば完璧だ。


 ・・・変態臭がより一層強まった気がしたが、気づかない振りをする。



「笠原三正の無事の出産を願って〜!関東図書基地図書特殊部隊全員でエールをぉ〜送るぅ〜!!」
 突然廊下を震わせるような地を這う声が響きわたった。見ると褌姿の玄田が、やはり褌一丁の特殊部隊を背後に並ばせて腹の底からあらん限りの声を出す。
「ちょ、玄田隊長!ここは病院です!!」
「うるさいぞ、堂上!お前こそ服着ろ!!」
 お互い様である。
 おろおろとする堂上をよそに、特殊部隊面々は玄田の合図で一様に深呼吸をし・・・・・・。


 ヒッヒッフー。

 ヒッヒッフー・・・。


 ラマーズ法を始めた。


 しかしただのラマーズ法ではない。複式呼吸を使ったラマーズ法は産科病棟中に響きわたり、他の入院患者や陣痛で待機している妊婦も目を丸くしてこっちを見ている。
 褌姿のいい年をしたおっさんらが全力でやるラマーズ法、通報されてもおかしくない破壊力だ。


 ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。

 力を抜いて、ヒッヒッフー。

 頭が見えたぞ、ヒッヒッフー。

 あともう少しだ、ヒッヒッフー・・・。




「ぅ、るさ〜〜〜〜いッ!!」
   



 とうとう切れた郁が全身全霊で怒鳴ってそのまま分娩室に運ばれたのは当然の事で。
 無事三十分後には玉のような女の子の赤ん坊が、複雑な表情を浮かべる裸割烹着の堂上に抱かれてみんなにお披露目されたという。




「・・・あの、すいません、みなさんの服を持ってきましたが」
「おう、手塚!気が利くな!!」
 ようやく居酒屋の後始末をつけ参加者全員の衣服をかき集めてきた手塚が病院に到着した頃には、全力でラマーズ法応援を成し遂げていい汗をかいた褌姿のおっさんらが達成感に満ちた笑顔で待っていたという。









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