いつもより早めに日報を仕上げられた事が嬉しくて、鼻歌交じりに帰り支度をする。
貴重品、携帯電話、手帳、それから鍵。全部確認してからバックを持ち上げた。
「お先に失礼しま〜す」
「おう、お疲れ」
足取りも軽やかに事務所を出る。
今日は昼休みに柴崎と新作アイスの話で盛り上がったから、さっそく一緒に買いに行こう。
キュッキュとなる足音に混じって堂上の叫び声がした気もするが、きっと先輩達の嫌がらせなのだろうと、気にも留めないで特殊部隊庁舎を後にした。
寒い、さすが真冬ど真ん中。しかしそのおかげで空気が澄んでいるから、いつもより星が綺麗に見えた。
得した気分に、寒さに赤くなる鼻の頭も気にならない。スキップしたい気持ちを堪えて、雪道を慎重に寮への道を急いだ――――…………。



「あれぇ〜?笠原さん、どうしたの?」
「へ?」
玄関をくぐった辺りで女子寮の寮監に呼び止められた。
「今日は柴崎さんとこに寄ってから帰るの?」
言われて暫く頭に浮かんだのは疑問符。それから思い出したようにあんぐりと大きく口を開けて、挨拶もそこそこに慌てて寮を飛び出した。

そうだった、そうだった。そう言えば昨日ようやく引越しが終わって、郁の居住は官舎に移ったのだ。

走って帰った官舎の部屋にはすでに明かりが灯っている。先程まで事務所にいた堂上が、郁が独身寮に寄った隙をついて先に帰宅したのだろう。ああ、お小言が怖い……。
「ただぁいまぁ〜……」
まるで猫が忍び込むようにそっとドアの隙間から入ってきたのにも関わらず、玄関先に堂上自身がいては意味がない。
腕組みをして仏頂面で壁に寄りかかっている図は、正直物凄く怖い。
「おう、おかえり」
「い、いや〜、なんか慣れなくて。寮の方に行っちゃった……」
「だと思ったわ、この阿呆」
しかしそう言ったきり堂上は全く体勢を変えてくれない。通せんぼされていたらいつまで経っても家に上がれないというのに。
「……あのぅ、お家に上がりたいんですけど」
「だから?」
「そこどけてくれないと入れないの」
「通りたいなら、通行料をもらおうか」
なんぞそれ。自分の家に入るのに通行料とか!
一瞬ムッとしながらバックに手をかけ財布を取り出そうとする手を堂上が押さえ、代わりに郁との距離を詰めてきた。
「?」
「郁からキスしてくれたら通してやる」
「な……!」

なんて傲慢かつ我侭な通行料だ。しかも一方的!

真っ赤になって魚のようにただ口をパクつかせている郁とは対照的に、堂上といえば済ました真顔で視線を揺るがすことなく見つめてくる。郁が条件を飲む事を絶対的に確信しているのが憎らしい。
しかしそこは新婚であるからして、郁だって抵抗の気持ちは半分、もう半分はやれやれと上から目線で半ば叶えてやろうとしていた。
だいたいにして婚約してからの堂上はとにかく甘い我侭を連発してくるのだ。そして郁は、毎回それらに照れて悩みながらも承諾して撃沈するハメになる。今日だって、きっとそう。
キスが嫌いな訳では無い。自分からするのが恥ずかしくて気が進まないだけなのだから。
「――――目、閉じて下さい」
「了解」
照らいもなく瞼を閉じた男の表情を見聞するようにしばらく眺め、それから郁はおずおずと唇を寄せた――――。



堂上の出張の話が出たのは、支度に手間取って遅くなった夕飯の席だった。ちなみに今夜のメインは豚の生姜焼きである。
「そんな話してましたっけ?」
昨日作った金平ごぼうをボリボリと咀嚼しながら郁が聞いた。
「いや。本来は青木一正が行くところだったんだが、急に用事が入ってしまってな、その代役だ」
堂上もボリボリと音を立てる。こちらは黄色い沢庵だ。
ふ〜ん。呟きながら郁が掬ったのはポテトサラダ。急に食べたくなって作ったポテトサラダは、潰しきれなかったじゃがいもが所々ボロボロと入っているけれど、それもまた食感が楽しい。
「明後日からか〜……」
「泣くなよ」
「泣きませんよ子どもじゃあるまいし!」
「たかが三日間だ、今までだってあっただろ?」
「ご飯どうしよう」
「そっちかッ」
「だって〜、ひとりだと却って不経済な気がするし――――食べてくれる人がいなかったら、作る気起きないもん」
「……あのなぁ」
無意識に零した郁のひと言に、堂上は頭を抱えた。これから三日も会えないのに、離れ難くなるような事をぬかすな。
「じゃあ今日はいない間の三日分食う。んで、帰ってきたらいなかった三日分食う」
「それってエンゲル係数恐ろしいんですけど」
「気にすんな。俺にだって充電する権利くらいあるだろ」
憮然として言う堂上は、やはり甘い。こんなに不出来なご飯でも、ちゃんと美味しいと言ってくれるし残さず食べてくれる。
嬉しくてにっこり笑いながら頬を染める純粋な妻は、この後に三日分の濃厚な夜が待ち受けている事を知らない。





*





「かーさーはーらー」
「……ああ、柴崎」
ぼうっとしながら箸を止めたままの郁に、柴崎が呆れながら声をかけた。
「アンタさ〜、大好きな旦那様がいないからって、ちょっと意識飛びすぎ」
びしりと人差し指を突きつけられながら柴崎が軽く睨むと、そんなんじゃないと言いつつ再び箸を動かす。だがその先はサラダをツツいているだけだ。
今日から堂上は関西に出張だ。帰ってくるのは明後日の深夜――――場合に寄っては明明後日の朝になるかもしれない。それまでは郁ひとり。

ひとりなのだ、あの部屋で。

電話をくれると言っていた。全く堂上と繋がらないわけではないのに、いつも側で必要な時にすがれる体温がないだけで心がブレる。
とうとう勝手に降参すると、テーブルの上に突っ伏した。もうガス欠、ダメ、なんなのこれ。
「今日、寮に来る?」
「官舎にひとりよりも柴崎さんと楽しく夜を過ごした方がいいんじゃない、笠原さん?」
親友の提案に勢いよく顔だけ上げた。上げたがすぐに元に戻った。また浮き上がりそうになって、でもやっぱり途中で力なく伏した。
不出来な起き上がり小法師のようだ。
「やめとく」
「寂しいんでしょ?」
「だって篤さんも同じだもん」
「んまッ」
「堂上一正不在でも惚気られるって、それ履歴書の特技欄に書けるな」
「うっさい手塚黙れウニ頭」
「ウニ……ッ」
絶句する同期を他所に、郁は細い指を一本折ってため息をついた。







「笠原、行きマース!」
庁舎屋上からの降下訓練。図書隊員に果たして必要なのかと思いつつ受けてきたが、実際必要な場面があったのだから要るのだろう。
命綱確認。足場確認。四方確認。よしッ。
いつものように勢いよく身を投げ出した郁だったが、あまりに強く壁を蹴りすぎて空中でバランスを崩した。だがまだ耐えられる範囲で――――。
「わッ」
ところが、いつもなら難なく着地出来る筈なのに、こんな日に限って申し訳程度に生えている草に足を攫われて尻から着地してしまったのだ。
痛い。スキーで転ぶ時は尻からだと習ったが、リペリングで尻着地は途方もなく痛い。
「〜〜〜〜〜ッ」
「珍しいね、大丈夫?」
「は……い、なん、とか」
「モロに骨盤直撃してたから休んだ方がいいよ。訓練はもう上がっていいから、医務室行っといで」
「…………はい」
小牧に言い含められてトボトボと歩き出す。
別に調子が悪い訳じゃない。バランスを崩したのだって着地を失敗したのだって、たまたま不運が重なっただけだから。

「――――バカ。嘘つき」
電話くれるって言ったのに。

ぷらぷら力なく揺れる腕の先で、細い指が二本折れた。
空は郁の胸の内などお構い無しに、清々しい程の青さで辺りを照らしていた。







館内巡回をしながら、手塚はそっと隣りの同僚を覗き見た。目の下のは軽く隈が出来ているし、明らかに覇気の足りない顔つきが普段とあまりにかけ離れ過ぎていて流石に心配になってきた。
そうなると元来人のいい手塚は声をかけずにいられないのだ。
「お前、ちゃんと寝てんのかよ」
「寝てるってば」
「堂上一正がいないからって、不健康な生活してたら帰ってきた時どやされるぞ」
そう言いながらも郁がそんなだらしない事をしないのは、確信を持って知っている。配属からずっと隣りを歩いてきたのだ、郁がそんな人間ならばもっと早い段階で忠告していただろうし、最悪縁を切っていただろう。
でもそうじゃないのが、手塚の答えであり郁の人間性に直結する。
「……ちゃんと……電話くれないのが悪いんだもん」
零れた呟きは拾った方がいいのか見て見ぬふりか、迷うところで。結局拾ってしまう辺りが、手塚の甘さなのだろう。
「堂上一正から連絡ないのか」
「…………」
沈黙は肯定。
しかし出張先ではままある事だ。何せ相手のテリトリーで仕事をするのだから、少なからず己のリズムは柔軟に変えていかねばならない場面も出てくる。
もし連日接待があるのならば夜遅くに電話をかけるのも躊躇っただろうし、朝が早過ぎればもう少し寝かせてやりたいと電話を置いてしまうかもしれない。それは優しさだと思うのだか、郁にとってはそうではないらしい。
「どのみち、……今日?」
「――――か、明日」
「帰ってくるんだから、あんまりカッカすんな」
「そういう言い回しが篤さんに似てきてムカつく」
言いがかりも甚だしい。だがまあ、ここは言わせておくとしたものだろう。気が立っているらしい女と猫には逆らわないに限るから。
そういう風に思えるのは、日頃愚痴やら何やらで付き合わされている成果だな。誰のおかげとは言わないが。
「ムカつく、ムカつくッ」
「はいはい」
「そのどうでもいいって感じがムカつくー!」
「お前、結局誰に怒ってんだよッ」

もう指折り数えるのは止めたらしい掌は、キツく拳を握っていた





*





――――ガチャリ

静かな空間の中、寂れた金属音がやけに響いて堂上は眉を潜めた。思わず表札を確認する。堂上篤、郁。紛うことなき我が家である。
とすれば、なぜに郁の気配がしないんだ。もしかして出張の間、電話の一本も入れなかった事を怒っているのだろうか。
「……ただいま」
まるで他人の家に上がるような心持ちにさせられながら居間に行くと、真っ暗闇の中に沈んだ空間には郁の形すら探せなかった。なぜ。
先に出張報告をしに行った事務所にはすでに居らず、ボードには『帰宅』の文字。帰ってきた玄関に靴はあった。だがしかし肝心の彼女がいない。
どっと冷汗が噴き出した。まさか三日間音信不通だった事に腹を立てられたか。
スマートフォンの充電器を忘れてブラックアウトした挙句、ようやくコンビニまで走りに行く時間が取れたのは今朝方の事。それまではグタグタな会議で時間を潰し、接待という名の飲み会に永遠付き合わされて終わった三日間。
その間堂上がどんな思いでギリギリと歯噛みしていたか、郁は知らないだろう。出張先のお役人達も、コイツ機嫌が悪いな人相が悪いなぐらいしか思ってなかっただろう。
たぶんそういう意味では図書特殊部隊の面々は察しが良すぎる。ついでにネタにされて弄られるのは勘弁して欲しいが。
電気を点けても状況は変わらなかった。出張に行く三日前と変わらぬ居間に、しかし郁だけが足りない。それだけで一気に堂上の焦燥が天井まで駆け上がった。変な動悸がしそうだ。
震える手でスマートフォンを取り出す。一か八か、朝は繋がらなかった電話をかけたが――――やはり繋がらない。チクショウ、バカ郁!
慌てて電話帳を呼び出して、不承不承柴崎にかける。三コールで繋がった相手からは、ため息混じりに郁の所在不明を逆に問いただされた。どこにいるのか聞いてるのはこっちだ!
腹立ち紛れにスマートフォンを放ると、足音高く玄関に向かう。
こうなればこの周辺で郁が行きそうな場所を虱潰しに探すしかない。郁が帰ってくるまで待ってなどいられるか。

そう意気込んで靴を履こうと身を乗り出した刹那――――。


ガチャリ


「む」
「あ」
玄関の向こうとこちら側でお見合いをしたのは、堂上が探し求めて止まない郁だった。
そして郁の姿を確認した途端、そのままの勢いで裸足も構わぬまま土間に降りて細い身体を抱きしめる。もう離すものかと、腕に力を込めて閉じ込めた。
「あぃだだだだだだたッ、ちょ、痛いってば!」
背中を叩いて抗議するも、聞く耳など持たぬ。諦めたように郁はため息をつくと、抗議の代わりに広い背中にしがみついた。こんな時の堂上は強情で我が儘なのだと、最近知ったから。
白熱灯の柔らかな灯りが降り注ぎ、ふたりの形をぼんやりと浮かび上がらせる。ただそれだけ。あとはほんの少し、熱をわけあえれば。

「――――幸せだね」

唐突な郁の呟きに、ようやく堂上も顔を上げた。

視線が出会う。息が吹きかかりそうな程近くで見つめ合うのが恥ずかしくて、目を逸らすとそれを追うように下から覗き込まれた。こんな時、常とは違う意味で身長差を恨む。
「何が」
真っ直ぐな堂上の瞳の強さに負けた。
「だって」
「うん」
「どこに行っても、結局同じ家にふたり帰ってくるの。凄いと思わない?」
元は他人なのに、おはようと同じ朝を迎えて、いってらっしゃい、おかえりとただいまで同じ家に戻ってくる。その奇跡。
「最初はここに帰ってくるのが不思議だったのに、いつの間にかここがあたしの家になっちゃってる。前までは篤さんと同じ家の中にいるのに緊張しちゃってたけど、今は篤さんがいなくて、凄く凄く……うん、物足りなかった」
「…………」
「だからおかえり、篤さん。寂しかったよ?」
眉尻を下げながら逆に覗き込んできた顔は、なんて情けない表情なんだ。だがそんな郁を見ているだけで、心の中にじわりと温かな感情が滲んで胸を震わせる。

こんな顔をさせているのが自分なのだと思うと、嬉しくて血が逆流しそうだ。
この気持ちを共有出来るだろうか?嬉しさを、歓びを、誇らしさを。

何よりもまず、言葉を。だから、

「ただいま、郁。ごめんな。でも家に居てくれて、ありがとう」

額を合わせ、吐息が肌を触る近さで届けたい。
受け取った郁は柔らかく表情を綻ばせると、何かを呟く。

――――泣きませんでしたよ。

ただその呟きは、瞬く間に堂上の唇に奪われたのだった――――。









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