初めて触れたそこは最早血液の巡りが悪くてひんやりとしていたものだから。
 ありったけのあたしの熱を込めて、少しでも温もりが移るようにと口づけた。


 それがあたしの、生まれて初めて。






 ホテルのセミスイートのドアをくぐり、疲労困憊気味な堂上と郁は仲良くダブルベッドへと身体を投げ出した。身体は精神的疲労と肉体的疲労の両方で重いが、一生に一度と決めた事だけに疲れとと同時に心地よい達成感にも包まれている。
 郁は隣に寝転がって目を瞑ったままの堂上のしわのない眉間をなぞると、とたんにそこは通常通りの模様になり、郁は思わずくふふと笑う。
 可愛らしく笑う郁の細い手首を掴んでその掌に唇を押しつけると、堂上は細い指に自分のそれを絡めてにぎにぎと感触を味わった。親指の腹が手の甲をなぞり何度も何度もゆっくりと往復すると、さすがに耐えきれなくなった郁が身を捩ってとうとう身体を起こした。
「どうした?」
 余裕綽々に口角を上げながら肘をついて見上げてくる堂上に小さく舌を出すと、ベッドを降りた郁は部屋探検を始める。
 ベッドルームの他に小さいながらもリビングがついており、バスルームとトイレはもちろん別。ベランダに出るとテラスは食事が出来るようなしつらえがあり、広々としていた。今はとっぷり暮れて最早夜中と称してもさわりないぐらいの時間だが、明日の朝は優雅にルームサービスを受けてもいいかなと頭の隅で考える。滅多にない贅沢だ、楽しまなければもったいない。
「珍しく星が見えるな」
 いつの間にかベランダに出てきた堂上が後ろからゆるりと郁の腰を抱きしめる。春らしい柔らかな色のシフォンワンピースが波打った。「茨城の星空にはさすがに負けるが」
「今日はお疲れ様でした」
「郁もお疲れ。主役は大忙しだったな」
「あたしは大丈夫、楽しかったし。なによりも嬉しかったから」
 そうか、と呟きながら首筋に唇を落とされたくすぐったさに身体をよじった郁が堂上の方に向き直ると、改めて腰を引き寄せられてそのままお互いの唇を重ねた。何度も確認するかのような口づけを交わし、どちらともなく微笑む。
 幸せって、こういうのを言うんだね。
 バラ色に頬を染めた郁の囁きは、夜空に吸い込まれた。




 今日は、佳き日だ。
 業務の合間を縫って駆け足で披露宴の段取りをこなし、籍を入れ、ようやく披露宴を終えて大々的に夫婦となった。
 ここまでの道のりはなかなかどうして大変ではあったが、なによりも堂上の処理能力が郁に重責を感じさせる暇も与えずに事を回していったので、実際どのような準備と手続きとそれに付随する諸々があったのかを実はよく知らないでいる。
 何はともあれ無事に挙式も披露宴も終わり(特殊部隊のおふざけはこの際忘れる)、ようやく一息つけるようになった。新年度からは相変わらず堂上は錬成教官にかり出されるが、とにもかくにもようやく腰を据えて二人だけの生活を作っていけるのだ。


 そう、ここからが出発点。

 
 籍を入れて官舎に移り住むようになっても、披露宴の準備が生活の半分を占めていてどこか落ち着かない気分だった。一緒に住んでいるだけのような妙にしっくりこない感じは、ともに生活を始めながらも見定める方向がこれから歩いていく道の先ではなく、目前に迫った結婚式に全て注がれていたから。

 明日から三日間は近場に新婚旅行に行くとして、その後から。

 仕事をした後にご飯を作って、家事掃除をして。
 掃除全般は寮でしていたからヨシとして、問題は食事面。大問題だ。
 今までは式準備でなんだかんだと見逃してもらい隊の食堂や外食が多かった結婚準備期間の官舎生活も、披露宴が終わればそれをサボっている理由がなくなる。
 上京した大学生活時代も栄養面から健康面までバックアップしてくれる寮暮らしだったが為に自炊など夢のまた夢で。せいぜいがインスタントラーメンかそのぐらいしか出来る気がしない。変な話、その自信ならある。
 身体が資本の戦闘職種が毎日インスタントラーメンという訳にも行かず、やはり食事の支度をなんとかしなくては・・・いずれ共倒れもバカに出来ないかも。
 そんなことになったらなんて嫁をもらったのだと堂上が後ろ指さされて昇任にも影響が出て・・・。

「ストップ」

 ぐるぐると目まぐるしく渦巻く思考が、堂上の揺るがない声で止まった。
「何考えてる」
「・・・ぃえ、別、に」
「嘘つけ」
 言葉と同時にぎゅうっと腕に力が入って、それが逃がさないという意思表示代わりのようで。
 あぁ、やっぱり全部見透かされちゃう。
「どうせお前の事だ、家事の心配でもしてるんだろうがな」
「あぅ・・・え〜と・・・」
「全部が全部お前に背負わせるつもりはないから」
「・・・ん?」
「だから、掃除洗濯に食事作りだろ?お前に期待はしてない」
「ひどッ!!」
 どん、と一つ胸を叩くと思ったよりも力が入っていたらしく、ぐっと息を詰まらせた。
「あ、や!ご、ごめんなさいッ」
「おまッ・・・物事には、限度というものがなぁ・・・」
「わ、わかってます!」
 うぅ、やっぱりどうにもこうにも色っぽく締まらない。どうしてこんなに雰囲気ぶち壊してしまえるのか、これ最早一種の才能かもしれないなぁ・・・あ〜でも同じ才能なら雰囲気クラッシャーの才能と主婦力の才能をどうにか交換できないかなぁ〜なんて・・・。
「だから、俺も時間ある時は食事の用意も家事もするから」
「まただだ漏れ!?」
「ホントにこういう時お前のだだ漏れも便利だよな」
「自慢にならないしッ!!」
「でもそういう所も可愛いから仕方ない」
「・・・ッ!」
 何度不意打ちで心臓を打ち抜けば気が済むのか。このままでは結婚生活中に郁は蜂の巣である。
「・・・そういうの、反則です・・・」
「お前こそ、その顔は反則だ」
 どんな顔だよ、と頬に手を当てると、その手ごと一回り大きな掌に包まれる。
 郁を射る目は視線よりもやや低いくせに、全く不釣り合いを感じさせなくなったのはいつの頃からか。いつしか背の高さのコンプレックスを意識しなくなったのは、堂上がそうさせてくれたからで。
 本当に、敵わない。
 いつだったか、絶対郁の方が好きだと言っていたが、今ではそう言い切れない。愛されていると感じる瞬間がたくさんあって・・・勿論、今も、そう。
 視線に惹かれるように唇をあわせたのはどちらからか。
 二度三度、触れるだけの口づけを交わした。初めてから何十回、何百回目かのキス。
 ああ、これからこの先もこういう風にキスを重ねて行くんだと思うと、不安な気持ちが少しずつ溶けていく。


「こうやって、これからもキスしたい」
「・・・はい」
「飽きる事など、ない」
「うん」
「最期まで、離さない・・・」
「離しちゃ、イヤだよ」



 最後まで、最期まで。


 初めてのキスを交わしたあの日から、この気持ちは色褪せる事なく。
 何度だってこの唇に気持ちを乗せて届けるよ。

 最期のキスまで、この口づけをあなたに捧げます。










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