す〜は〜・・・。 す〜は〜・・・。 何度深呼吸を繰り返してもあたしの心臓は加速をみせる一方で、落ち着く方法なんて見あたらない。 目の前に構える無言のドアの向こうに、行きたいようなそうでないような。 だってこのドアを開けてしまえば、確実にあたしは殺されてしまうだろうから・・・。 コンコン。 乾いたノック音に素っ気ない返事が返る。「はい」 「し、失礼しマス・・・」 おずおずと引き戸をスライドさせ、その隙間から室内を覗けば。 「どうした?」 基地では見せたことのない柔らかな堂上の微笑みで迎えられ、またどきりと胸が高鳴る。ああ、やはりこの人のこんな顔、凶器でしかない。 それを悟られないように作れるだけの笑顔で首を横に振ると、後ろ手にドアを閉めてゆっくりとベッドに近づいていく。 個室と言えどたいした広さはない。何度もドアの前でした心の準備もこの数歩の距離で空しくも瓦解してしまうのだ。 ――先日、晴れて恋人同士になれた。 郁にとってはまさに一か八かの賭に勝った上での、更に晴天の霹靂とでもいうぐらいの展開で、正直堂上の変わり身の早さについていけない。 上官である堂上は他人にも自分にも厳しく、公正な目で物事を判断しその時の最善の指示を迷いなくとばす尊敬できる上司で。 しかし恋人の堂上は見たこともない甘い顔で、甘い声で郁に接してくれるものだから・・・。 ―堪らなくなる。 「ここ座れ」 示されたのはベッド際の丸椅子。座ればベッドに膝頭がこすれる近さ。 伸びてきた大きな手は郁の手だけではなく心臓まで鷲掴みにし、震えも悟られたかもしれない。 「笠原・・・」 心底嬉しそうに柔らかく笑う堂上の顔など、今まで知らなかった。見せてくれなかったし、郁も上官としての堂上しか見なかったから。 ここにいるのは上官でも二正でも特殊部隊班長の肩書きもない、ただの堂上という男で。 そしてそれにまともに向き合えないのは、ただ単に恋愛経験値が足りないとか、それだけではない気がした。 ――あたし、どんだけ卑怯なんだ。 堂上は素の自分全てを郁に見せてくれようとしているのに、郁は頑ななままの自分から脱けだせない。否、恐くてさらけ出せないのだ。 等身大の郁は臆病で自分に自信が持てない小市民で、加えてガサツな大女とくれば堂上が郁のどこに惚れたというのか見当もつかない。それでも世の中にはそれがいいという物好きもいるが、堅物で真っ向常識人の堂上がそんな変人とも思えないし。 ならば彼は何に惹かれたのか? いっそ大がかりなドッキリならば納得できる。もしくはあの時の一世一代の告白に同情してくれて優しい嘘で騙し続けてくれてるとか? ああ、そうか。それならば可能性がなくはない。 誰が好き好んでこんな色気のない男女とつき合いたいと思うか。 なんだか納得するとささやかな胸がスッとして気分が軽くなった気がする。同時にちょっぴり寂しくなったけれど。うんうん、そうかそうか。 「なんだ?イヤにすっきりした顔して」 「え?あ、な、なんでもないですよ!」 だからそんな顔などせずにすっきりきっぱり郁を断罪してくれればいいのに。 ―いい気になるな、思い上がるな。 ――お前に女なんか感じないって・・・。 「・・・んな事言うか、バカ」 コツリと優しく小突かれて、力任せにベッドの上に引き上げられれば太い腕に後ろから拘束されて身動きが取れなくなった。というか、どうしたらいいのかわからない。 異性に抱きしめられるのは堂上が初めてで、そして相手はけが人で。振り払おうにも穏便に済ませる方法などわからないし・・・心臓に悪いはずのこの甘い檻の中の居心地がよすぎて、振り払いたくなどない。 「教官ッ・・・人、来ちゃいます、よ?」 「構うか。今手ぇ離したら、お前逃げるだろぅが」 ご名答。 「笠原に女を感じないとか、いい加減ソレ忘れろ」 ご多分に漏れずだだ漏れだった思考を指摘されて、首まで染まる。 「だ、だって!まだ堂上教官があたしの・・・その、彼氏とか!信じられなくて、ですネ・・・」 「・・・郁」 「・・・ッ」 突然下の名前で呼ばれて飛び上がった。実際には動けないが、そこは心理描写で。 堂上の声音に乗る己の名前が酷く特別なもののような気がして、動悸が早くなる。落ち着かない。名前でなんて、家族以外には殊更親しい女友達ぐらいしか呼ばれたことなどないから? 違う、そうじゃない。 堂上の声で呼ばれるから、こんなにもこの名前が特別な意味を持つように感じられるのだろう。その理由は・・・。 「どうすればお前は素直に受け入れてくれるんだか、いい加減途方にくれる・・・」 苦笑に滲ませた弱った本音とは裏腹に、回された腕の強さが郁の心に食い込んでくる。熱さと強い意志と、そして少しの弱さと。今まで頼れる上官としての上っ面ばかりを見せてきた堂上の、脆くて柔らかいところをも見せてもらえるのは郁の立ち位置が堂上の心に近くなったせい。 受け入れ難いんじゃない。そんな事は絶対なくて、どちらかというと身に余る幸福に浮き足立った自分自身をどうしたらいいかわからないだけ。 だからこの人にこんな感情を抱かせる自分が、嫌い。 「泣くな、お前に泣かれるとかなわん。・・・こっち向け」 気配で潤んでいることを悟られて横抱きに座らされると、間近の漆黒の瞳が不安そうに揺らめいた。ああ、こんな表情させたくて来たんじゃないのに。 「俺はお前を困らせてるのか?郁」 「そんなんじゃなくて・・・」 目の前の堂上を信じられないことなどない。不確かなのは自分の方で、こんな自分だから、堂上に望まれる幸福に素直になれない。 ――どうしたらこの想いは伝わるの? 「郁・・・」 右の頬を覆う大きな掌の温もりがじんわりと嬉しい。縋りたくて無意識ですり寄ると、躊躇いがちに堂上の瞳が近づいていて。 ――キス、された。 触れるだけのバードキス。何度も何度も唇で熱を伝える。ただ触れているだけなのにそこから身体中に甘い疼きが広がって震えそうになるのを、わかっているのだろうか。 ―キスをする度に蓄積されていく感情に、溺れてしまうそう・・・。 「・・・郁」 「ん」 ようやく口づけから解放されても依然額が当たりそうなほどの近い距離にいつもならドギマギするが、今はキスの余韻に痺れて思考が機能しない。 どうしてこんなにも好きなのに素直になれないのか、疑うことは堂上に対する侮辱なのに。 「泣くな」 潤み始める眦を緩く吸われ、頬を滑った手は後頭部を優しく抱き込み広い肩口に押しつけられる。 「どうしたらお前を好きなのが伝わるかなぁ・・・」 「堂上教官が悪いんじゃなくて、こんな自分が、嫌なんです」 「こんな、とか言うな」 突然強く言われて恐る恐る顔を上げれば、真顔の男と視線がぶつかる。その強さにおののいた。 「俺の大事な女を、こんな、とか言うな」 「・・・ッ」 きゅうっと柔らかく心臓を鷲掴みにされたみたいな。強い口調のそれは、優しく郁の身体に染み込んできて。 ――満たされるって、こんな感じ。 堂上の言葉に一喜一憂しては舞い上がり、不安になる。でもこの時だけは彼の言葉に自信を貰って、ほんの少し自分という人間に価値があるように思えた。それだけで、たぶん大丈夫。 「・・・教官。名前で、呼んで下さい」 堂上に呼ばれる特別な自分を感じたいから。 「郁」 短く切った女っ気のない指に唇が触れた。 「郁」 頬を掠める息が、かさついた唇に閉じこめられる。 「郁」 鼻に、閉じた瞼の上に感じる熱。 「郁」 最後に幾度となく触れ合った唇に。 解放された唇からこぼれたため息は、安堵。 こんなにも愛されているって、わからないあたしは大馬鹿者。 知らずに呟いた言葉をすくい上げて、俺だってな、と堂上は続ける。 「こんなに郁を大事にしたい気持ちに見て見ぬふりしてたんだから、まぁ大概だな」 さらりと赤面する事を言われて、ぎゅうっと抱きしめられた。 「とりあえず」 暫く抱きあった後に、ぽつりと堂上が呟いた。 「お前、毎回キレイな格好してくることないぞ」 「え、でも・・・・・・せっかくだから」 「こっちは顔見られたら満足なんだ、普段着でいい。そういう格好は一緒にでかけられるときまで取っとけ」 堂上の見舞いに来ることだけで精一杯な郁に、堂上は退院後の約束もとりつける。それが刹那的なつき合いではないと言うことをまざまざと感じさせ、嬉しさとついていけなさで黙り込んでしまった。いつか振り落とされても、それならそれで本望だ。 「あと、化粧」 「えと・・・濃い、ですか?」 メイク技術に自信などない。それでも館内巡回よりはいくらか色を乗せて少しでもマシに見えるように頑張っていたのだが、ソレを指摘されるとは思わなかった。 「違う、そうじゃなくて」 言われながら太い親指が郁のぷっくりとした下唇をなぞる。その動きだけでぞくりと緩やかな痺れが背筋を走り、それに戸惑った。 「薄いのがいい、わからんぐらいに。特に口紅はリップだけでいい」 化粧は言わば女の武装だ。出来ればそんな武装など全てとっぱらって素肌の郁を味わいたい本音を晒すのはまだ早いから、今は悟られないように言葉を換える。 意図を汲めないで小首を傾げると、堪らなく嬉しそうに苦笑した堂上はこの日何度目かの爆弾を投げつけて、郁を撃沈させたのだった。 「キスする度に口紅を食わされるのは、かなわんからな」 |