郁が風邪をひいた。 普段から我慢強いタイプだからギリギリまで取り繕って無理をして、だけれどとうとう限界が来たらしい。課業後に足元も定まらないくらいの熱を出し、当然の事ながら飯も食わずに寝付いてしまった。 結婚してから初めての風邪。それもかなり酷い。 幸いにして吐き気や腹痛はないらしく、ただひたすら熱が出るので氷枕をして水分を摂らせる。大の大人だからと思いながらも、心配で実家の母親に電話したら逆に心配された。とりあえず指示された通りの事をしてみる。 苦しそうな息遣いをたてる郁の汗を拭きながら、ただぼんやりと仄暗い気持ちに支配されていく自分。 大丈夫だ、ただの風邪なんだから。 そう思いながらも夜中に彼女が苦しそうな呻きを上げる度、目が開いてしまい状態を確かめた――――。 ※ まだ寝ている郁の脇に体温計を忍ばせる。頬を触った感じではだいぶ下がっているような気もするが、さて――――大丈夫だ、三十七度ちょっと。基礎体温からいけば十分微熱の範囲まで下がって胸をなで下ろした。 だいぶ汗をかいたようで、パジャマがじっとりとしている。次に目が覚めたらもう一度着替えさせないと、その前に氷枕を取り替えてスポーツドリンクも足して……。 熱のせいで目元に滲んだ涙の跡を拭き取って、寝室を離れる。 この調子なら郁を残して遅番のシフトに出られるだろうか。あの調子ならうちの母親も官舎まで看病に来そうだから、もしもの時は任せてもいいだろう。 台所に来ると、急激な空腹感に襲われた。 ああそうだ、昨夜は飯を食うどころじゃなかったから。とりあえずパンでも咥えておこう。 郁はどうだろうか?まだ食べられないかもしれない。だが粥ぐらいなら少しずついけないか。 まだまだ不慣れな台所仕事だったか、スマートホンで検索しつつなんとかとろりとした粥を作った。風邪をひいたら味がわかりにくい。食いしん坊の郁だから、少し味がわかる程度に味付けをして蓋をする。 その時、寝室から小さくだが音がした。郁が起きたのかもしれない。 早足で寝室に入ると、まだぼうっとしている郁が横になったまま宙に視線をさ迷わせていた。その焦点が、堂上の位置で結ばれる。 「気分はどうだ?」 頷く。それだけではどうかわからない。 「腹減ってないか?」 相変わらずの無言。首さえ振らない。ただ堂上を見つめ続けているだけ。 寝起きだし、まだ頭がすっきりしないのだろう。ひと晩で体温か2度上下すれば、かなり身体がしんどいはずた。 「郁――――」 ベッド際に腰掛けながら出来る限り優しく名前を呼べば、珍しく郁の方から堂上の身体を引き寄せた。力などまだ入らないに等しい掌に、導かれるように彼女を抱き込む。濡れたパジャマが居心地悪そうに肌に張り付いてきた。 「郁、汗で気持ち悪くないか?着替え――――」 「やだ」 少し身体を離そうとしたら、否定の言葉を口ずさみながら逆に引き寄せられる。 「でも、身体冷えたらまた悪くなるぞ」 「いい」 郁にしては珍しくぶっきらぼうな応え方に、堂上も思わずムッとする。 こっちとら心配で夜中もおちおち寝付けず、うんうん唸っているだけの妻が少しでも楽になるよう、あれやこれやと手を焼いていたのに。 まるでその世話全てをいらなかったと言われた気がして、寝不足と疲れの苛付きも相まって思わず黙ってしまう。 だいたいこっちが郁の為を思って言ったのに、あんなに強く断らなくてもいいじゃないか。それともなんだ、風邪を悪化させたいのか?健康な人間だって一歩間違えれば簡単に肺炎にだってなるんだぞ。 声に出さずに胸の内でイライラを募らせていると、ふと抱きしめている郁の身体が細かく震えている事に気づいた。言わんこっちゃない。 ここは年上として折れてなだめて、なんとか着替えさせようか。 ため息混じりにそう思った刹那、 「……じゃない、と」 「ん?」 不意の呟きに気を取られた堂上の頬をなで上げる郁の手。その冷たさと掌に篭る熱のアンバランスさに引きずられて、見上げてくる郁と視線を絡ませた。 熱のせいか潤んで火照った目元はそれでも力を失わず、ただ真っ直ぐと堂上を見る。 「篤さんじゃないと、嫌なの」 「郁…………」 「着替えとか、そういうの、他の人でも出来るけどね」 「――――うん」 「一緒にいて欲しいの、は、篤さんじゃなきゃ、ダメなの」 言葉などもういらなかった。 身体の奥から湧き上がる想いのままに、堂上は紅みを帯びた可憐な唇に心を落とす。何度も何度も。 触れるだけなのに、不思議なくらい満たされる。 ようやく離れた拍子に酸素を求めて喘いだ妻に懺悔しながら、細い身体を一層抱きしめた。 「風邪…………」 「ん?」 「移しちゃう、よ」 発熱とは違う、情欲に熟れた頬を隠しながら呟く郁に、いつかの時と逆だなと思う。 あの頃はまだ通い合う気持ちが足踏みしていて、繋がりそうで繋がらなかった手の行方だけをただひたすら追っていた。 関係が変わって、それでも越えることの出来ない壁が確かにあって、結婚してからはやっとふたりの全てを分けあえた気がした。それは他人とは絶対違う、分を越えた繋がりだ。 「風邪ぐらい、何度だって引き受けてやるから」 その代わりこの権利は誰にもやらない。やられない。 今日は仕事を休んで、じっくり郁の看病をしてやろうと思った……。 |