郁と堂上が官舎で生活を共にし始めたのは、まだ冷たい風に身をすくませながらも春の気配を感じ始めた頃だ。




 官舎の性質上、結婚証明がいる為入籍だけは雪がまだちらつく頃に済ませて申し込みをした。
 独身寮同様他館の隊員家族も入居しているそこはなかなか空きが出ない現状であるからして、早め早めの申し込みが必要だと郁と笠原の両親を説得したのは堂上で、果たしてそれが目的の第一かはわからない。
 かくして籍を同じくしながらお互い独身寮にいるという、なんとももどかしい期間はひと月程で官舎に入居可能になった為に解消し、そうなればあとは寸法を計って家具家電を買い込めばそれなりに人が住める体制は瞬く間にできた。
 寮の荷物などすぐに移動できるので同居は速やかに整い、晴れて名目ともに夫婦生活がスタートしたのだったー…。




* * *




「…ぅう〜…はぅ〜…」
 奇妙な呻き声を上げながらようやく使いなれてきたリビングのローテーブルに突っ伏す郁を、堂上は手に持っていた文庫本に栞を挟み込みながら呆れたように見やった。
「諦めろ、郁。どんなに唸ったって明日は来ちまうんだ」
 何せ明日は準備に準備を重ね抜いた結婚式と披露宴当日なのだ。
 プロポーズから駆け足どころか百メートル走ランナーの速度だね、と小牧に上戸に入られながらも脇目もふらず一気にここまで突っ走った二人に(主に堂上に)、特殊部隊の面々は面白がりながら全面的に協力体制を敷き、堂上に対しての書類回しもいつもの半分に抑えてくれた(というかそもそも自分の仕事は自分でやれと、声を大にして言いたい)。
 斯くして(主に堂上が)頑張って準備をしてきた成果がようやく明日に繋がるのだから、本番前日の今日くらいは気を抜いていてもいいと思うのだが。
 何が不安なんだか新妻は明日の事を考えて今から緊張している模様で。
 お前絶対遠足が楽しみ過ぎて夜寝れない小学生だったよな、とは心の中で思っていても式前日に喧嘩をしてはかなわないという配慮でお口にチャックだ。
「だってぇ〜、緊張するモンはしちゃうんだもん〜」
「明日は会場係りの人に任せとけば間違いないだろ」
「絶対あたし、裾踏んづけて転ぶんだぁ〜あああああ」
「だから落ち着けって。その時は俺が支えてやるから」
「うえぇ、篤さぁ〜ん!」
 ―情けなく眉尻を下げる郁も可愛いんだがな。
「今更式止めたいとか言い出すなよ」
 うっかりで考えなしの郁に一応確認すると、顔を真っ赤にさせながら首がぶっ飛ぶのではないかという程にブンブン振ってそれを否定する。
「それは…ないよ?だってみんなに祝福されたいし、格好いい篤さん、みんなに見せたいもん…」
 頼むから!そんな可愛い顔で見上げてくんな!!
 なぜ式の前日に理性を試されるような事をされなきゃならないんだ…ッ。
  恥ずかしそうに、だがどこか嬉しそうにおずおずしゃべる郁が可愛くて、堪らず堂上は手の中の文庫本を握り締めた。
しかし今感情のままに郁にキスマークやらつけようものならば、この後一生恨まれて過ごすだろう。最悪生涯接触禁止令を出されるかもしれない…。
 なぜなら明日の郁は花嫁の正装であるウェディングドレスを着るわけで、試着についてきた柴崎太鼓判の肩と背中を盛大に露出させながらもどこか品のいいクリームがかった色のマーメイド型ドレスを着る事になっている。郁のシャープで綺麗なデコルテは勿論の事、無駄な肉のない背中がふんだんに露出されているのにいやらしさが全くないドレスは、さすが柴崎オススメなだけあってまるで郁の為に作られたのではないかと思うほどに似合っていたが、如何せん似合いすぎて焦ったのも事実で。
 披露宴の主役は花嫁であるとは重々承知してはいる。
 しかしだな。しかしあのドレスだと、郁の素晴らしさが弾けんばかりでいらん虫を集らせてしまうのではないかとは堂上ひとりの懸案事項だ。
 …こいつの可愛いとこやら諸々は、俺だけが知ってれば十分なんだがな…。


 だがそんな堂上の心配も無自覚天然の今や堂上に対して無敵妻になった郁には全く届かない。直接言ったとしてもひょいとそれをかわして、明後日の方向を向いて勘違いを拾ってくる始末で。 
 まさか披露宴で花嫁を口説く大馬鹿者はいないだろうし、いたとしても堅牢な天然要塞たる郁が簡単には陥落するとは思えないが、それとこれとは別問題なのだ。そこは分かって欲しい。誰にだ、とりあえずこの愛妻にだけは。
 考え込む姿が余程深刻そうだったのか、郁が不安そうな面持ちでこちらを伺ってきた。
「あの…篤さん?」
「ん?」
「もしかして…披露宴とかやりたくなかった?あたしと…結婚とか、したくなかった…?」
「…………は?」
 何を言い出すか、うちか奥さんは。
「だ…て、そんな真剣な顔して悩み事…嫌なのかな、って…」
「アホか!!」
 思わず怒鳴ってしまえば、郁の眼尻にじわりと涙がにじみ始める。
 ―そんなつもりはなかったのに!
 慌てて軽い身体を掬い上げて膝の上に座らせると、隙間を残すのも勿体ないと言わんばかりに華奢な郁をぎゅうっと抱き締めた。
「んなわけあるか、バカッ!だいたいお前、俺がなんで苦心して手続き諸々を可能な限り出来うる速さで処理してきたかわかってんのか!?」
「えぇ〜と…嫌な事は早めに済ましちゃえ、的な?」
「おまッ!…そんなに俺と住みたくなかったのか?」
「あ。や、違っ!」
 やはり考えなしの郁に思わず脱力してしまい、綺麗だと賞賛する繊細なデコルテに額を乗せた。風呂上がりのいい香りがふわりと堂上の鼻腔を刺激する。くそっ…。
「俺は、1日でも早く郁と一緒に暮らしたかった」
 ストレートな言葉しかちきんとキャッチ出来ない郁だから、多少照れ臭くてもここは素直な気持ちを言うとしたもんだろう。全く、うちの奥さんは自分を痒くさせる天才だ。
 お前は?と聞き返せば、真っ赤に熟れた顔を堂上に見られないように逞しい夫の肩口にそれを埋めているが、耳まで…首までもが染まっている。ホントに可愛いな、コイツは。

 そして…どこまでも無自覚に煽ってきやがる。

「…あた、あたしだって、篤さんと一緒に暮らせるの、嬉しかったんだから…」
「じゃあお互い問題ないな。明日だってただのお披露目だ、多少失敗したところでそんなのご愛敬だろ?」
 茶化すように言えば不安の入り交じった色は瞳から消え、代わりにキラキラとした笑顔が戻っていた。
 つられて堂上も郁の前限定の柔らかな微笑みを浮かべる。



「篤さん」
「なんだ?」
「篤さん」
「い〜く?」
「だいすき」
「…ッ」



 不意打ちだ。にやけそうになる表情を隠しきれずに思わず俯くと、頭ごと抱えられた。



「…なんだよ」
「あのね、篤さん…。あたし、いい奥さんになれるか自信ない。篤さんを幸せにしてあげられるか自信ない」
「…郁」
「でもね、あたしは篤さんと一緒にいられるだけで幸せだから、その幸せをお裾分けしてあげる。そしたら、篤さんも少しは幸せになれるかな?」
「…………アホゥ」



 なんと痒い事をさらりと言うのか。
 だがその痒さが逆に素直に心に浸透してくるのは事実でー…。



「お前が幸せなら俺も幸せなんだって、いい加減わかれ、馬鹿ッ」
「わッ、痒い!!」
「お前には敵わん」
 幸せにしたい、その想いは一番で。
 だがひと一人分の一生を担う言葉を口にすると重すぎる。それをコイツはいとも簡単にありのままの言葉で伝えてくれるのだから、全く敵わない。最初から敵うわけがなかった。張り合うだけ無駄だったんだ。




「郁」
「ん?」
「好きだ」
「…うん…あたしも、篤さん好き」
「キスしたい」
「………………あたしも」
「…その先は?」
「〜〜〜〜お、任せ、しマス…」



 結局郁には何もかも敵わないのは、コイツのせいで。
 でも郁さえいればこの先も間違いなく幸せなんだと確信した夜だったー…。






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