更新をしない旨を告げられたあの時から、郁は二人の部屋には戻っていない。
あの後すぐに奥多摩演習に入ったのはそれを考える余裕もなくなるから好都合だった。
だってあの部屋に戻らないことで、郁と堂上との関係は終わってしまったのだから。






「何かあったの?」
 公休明けにとうとう小牧に捕まった。
 堂上と別れたすぐ後に郁と小牧の班は奥多摩演習に行ってしまった為に、帰ってきた昨日までの事はわからない。だが携帯電話には、毎日律儀に堂上からのメールと着信履歴が残っていた。もちろんメールを開くことも電話を返すこともしていない。・・・出来ない。
「なんで?」
 この聡い同期に隠し事は出来ないのを知りつつも、敢えて突っぱねた。こちらとて意地がある。
「なんかさ、帰ってきたら堂上の奴、いつも以上に眉間にしわ寄せてるんだよね」
「そうなんだ。あたしも最近忙しくってさぁ」
「そう。・・・どうなの、調子は?」
 以前であればからかわれるほどにだだ漏れだった堂上との仲も、班行動ですれ違うのもあって今や大人しいもので。嵐の前の静けさだと例えた先輩の言葉を小牧は思い出す。
「堂上に聞けば?」
 すげなく答えると、班長に頼まれた書類を届けに郁は事務室を出ていった。
  


 向かう先は総務部。途中で巡回中の堂上に逢いませんように。
「失礼しまーす」
 訓練速度で周りを気にしながら、やっと着いた総務部窓口で書類を提出して更に引き取りの束を抱えてきびすを返そうとしたところで呼び止められた。あまり顔なじみのない総務部の上官だ。
「そう言えば堂上君も特殊部隊だよね。悪いけどこれもついでにお願いできるかな?」
 書類を受け取って目を見張る。
「・・・官舎入居手続き?」
「結婚するんでしょ、彼?最近官舎の空きを確認しにきたり忙しそうだったけど、愛の巣の為ならいくらでも苦にならないんだろうね」
「結婚・・・」
 他にもなにやら言っていた気がしたが耳に入ってこなかった。
 視線は前を向いてはいるがどこをどう辿って戻ってきたか思い出せない。何も聞こえない。ただただ空虚な木霊が郁の身体の中でぼんやりと跳ね返るだけで・・・。
 書類を班長に渡し、ついでと渡された堂上宛の書類も机の上に伏せて置いておく。見たくない。
「笠原さん、顔色悪いよ?」
 心配そうな小牧に促されて、班長に許可をもらって早退させてもらった。

 身体が鉛のように重いのは気持ちも重くなってしまったせいだろうか?身体に砂を詰めたような息苦しさに喘ぐ。もしくは本当にこの身体は砂で埋め尽くされてしまったのかもしれない。それならそれでも構わないのに。



 独身寮の部屋に入れば堪えていた涙は決壊を起こして、声もなく泣き続けた。
 堂上とは別れたのに、まだ心は残ってる。触れた熱さも感触も匂いさえ思い出せるのに!
 ―ああ、堂上の心はとっくの昔に離れてたのかもしれない。この演習の合間に何か劇的な出会いが起こったとかではなく。そうでなければ部屋の更新を渋る必要もないではないか。別に帰る部屋を見つけたから、郁との部屋を維持する必要がなくなったのなら全てが納得できる。

「そんなわけないじゃないの」
 いつの間にか帰ってきていた同室の柴崎が着替えながら郁の涙をぬぐい取る。その手の温さに自分がどれだけ冷えていたかを知った。砂の詰まった身体だから冷たいのも道理だ。
「あれだけ不器用な男も珍しいわよ?」
「・・・そうかな」
「まぁでも堂上君に愛想尽かしたんなら、さっさと別の男作るに限るわね!」
 柴崎に強引に合コンの約束を取り付けられて頷いた。





 翌日、約束の時間が近づくにつれ自然とため息が重なる。
 しかし約束を反故にすれば相手が柴崎なだけに後が怖くて、仕方なしにのろのろと色気のない格好に着替えて寮のロビーまで降りていく。ここで課業後の柴崎と落ち合う予定だったので、空いている椅子に腰を下ろした。自然俯きがちになる。床にはなんの面白みなどないが、頭がずしりと重くて視線を上げるのでさえ億劫で。

 夕方の寮のロビーは結構な人出で。だからその足音に気づけないまま、落とした視界に見慣れたスリッパのつま先を捉えて身体も思考も硬直した。

 ――堂上。



「はぁ、ッ・・・どこ行くんだ」
 呼吸が荒い。日頃鍛えている堂上が息を乱すなど滅多な事ではなくて思わず表情を伺うと、入れ違いにしゃがんだ堂上に両肩を掴まれた。ぎりりと音がしそうなくらい力を入れられて、僅かに顔が歪む。
「柴崎に、聞いた。・・・行くな、俺じゃダメなのか?」
「痛い、離してよ。アンタには他に大切な子がいんでしょ?」
「なんの事だ?」
「トボケんなっつってんの!!」
 思わず怒鳴って周りを見回すがもう遅い。郁と堂上を取り囲んだ野次馬が興味津々という眼差しでこちらを見ている。
「堂上、場所変えよ・・・」
「ここでいい。俺は構わない」
 アンタは構わなくてもこっちは構う!あいにく郁は堂上ほど面の皮が厚くはない。
「言いにくいからヤダ」
「俺はお前に逃げられる方が嫌だ」
「・・・!」
 ぐっと腕を掴まれたが逃げる気はもう起きなかった。

「結婚するんでしょ?おめでとう、お幸せに!」
「結婚したい奴は居るが、そいつがなに勘違いしてんだかここんとこ全く連絡取れなくてな。いい加減捕まえたかったんだ」
「じゃあこんなトコでぐずぐずしてんじゃないわよ、このアホッ!!」
「ああ、そうするよッ!」
 だったらとっとと探しに行け、と叫ぼうとした口が強引に塞がれた。一瞬反応が遅れたがとっさに下唇に噛みつくと、鉄の味に眉をしかめながら堂上のカサツいた唇が離れていく。キツく睨んだ先の、怒っているような焦っているような、どうしたらいいかわからないない交ぜの表情に胸が軋んだ。
 キスされるのは嫌じゃない、むしろ嬉しかった。でもその唇はすでに郁のものではない・・・。
「バカじゃないの?こんなトコ婚約者に見られていいの!?」
「結婚したい奴にキスして何が悪い!!」



「・・・・・・え」



 脳まで堂上の言葉が届くまでやや暫くかかった。
 
 ―今、なんて言った?

「お前以外に結婚したい奴なんぞいるか、アホッ!馬鹿も休み休み言え!!」
「嘘」
「嘘ついてどうする」
 不貞腐れて横を向いた為に晒された耳は真っ赤で・・・ああ照れてる。
 しかし不貞腐れ具合ならこっちだって負けていない。自分でも唇が尖っているのを自覚しながら上目遣いで睨みつけるのは郁の癖だ。
「じゃあ、どうして部屋の更新しなかったの?」
「意味ないから」
 簡潔すぎてわからない。それが表情に出たらしい。
 あーとかうーとか唸りながらボリボリ髪の毛をかきむしる癖は堂上が心底困った時の癖で、その事にくすりと笑える郁がいる。
 お互いそんな些細な事がわかるぐらい近くにずっと居たんだと思うと、今更胸がきゅん甘く疼いた。

「部屋借りたって、結局は寮に帰って別々に暮らすじゃないか」
「うん?」



「俺は、『じゃあまたな』って寮に戻るんじゃなくて、いつでもただいまとお帰りが言える場所の方がいい」



「・・・堂上」
「それと、ソレ」
「?」
「郁はいつまで経っても俺の事名字でしか呼ばない。でも結婚しちまえば同じ名字になるから、嫌でも名前で呼ばなきゃならなくなる」
「・・・・・・」
 名案だな、とでも言いたそうな表情に、泣きそうになった。
 部屋を借りたいと言ったのは郁だ。それは少しでも二人の時間が長く続けばいいと願ったから。
 でも堂上は、更にもっとと願ってくれていた。同じ場所に帰り同じ場所から一日を始めたいと言う。



「堂上〜・・・」
「だからこれは俺からの提案だ。いつか俺の昇任祝いをくれると言った。だから俺は昇任祝いにお前の人生丸ごと欲しいと思う。・・・返事は?」
「・・・ッく、ふ・・・」
「嫌で泣いてんのか?」
「違うわ、馬鹿ッ!!」
 からかうような口調に胸をひとつ叩いて返す。
 そんなの決まってる。他人に言わせればたいそれた昇任祝いだと言うかもしれないが、それは同時に郁の昇任祝いにもなりうるから。
「・・・どうする、やめるか?」
 俺はもう次借りる部屋の目星はついているんだがな、との呟きは官舎の事だとすぐにわかった。
「上等!」
 啖呵をきるような返事に一瞬目を丸くした堂上だったが、すぐに目を細めると嬉しそうに笑いながら郁の手を取る。堂上のものより一回り小さいだけの掌なのに、なんと頼りなくも愛しい手なのだろう。これから護っていく手だ。
「もっと情緒ってもんがないのかな、お前は」
「提案に対してならこれで十分!」
 苦笑いしながらなるほど、と思う。
 ならばと弄んでいた細い指を揃えてそこにキスを落とす。潤んだ郁の鳶色の瞳は相変わらず曇りなく綺麗で、そこに反射する自分の姿に感謝する。いつでも自分だけを見てくれて、ありがとう、と。
 だから。



「幸せに出来るかわからんが努力する。いつも郁の笑顔を一番に見られる権利を俺にくれ。だから結婚して下さい」



 はらはらとこぼれる涙を両手で拭ってやりながら下から返事を伺うと、郁は泣きながら綺麗に微笑んでくれた。



「あ、あたしも・・・ずっと一緒に同じ光景を見たい。見せて下さい・・・好きだよ、篤」



 さらりと郁の口から紡ぎ出される自分の名前を聞いた瞬間、胸をきゅうと鷲掴みにされたような感覚に陥り、たまらず細い身体をかき抱いた。
 愛しい人に名前を呼ばれる事の威力を、初めて知る。
 それが勿体なくて、もうこぼれないように唇で唇を塞いだのは無意識で。触れているだけなのに、頭の芯まで沸騰するようなキス。ああ、本当に敵わない。





 そこで周囲からの拍手喝采に今更ながら気づいた。
 ここが寮のロビーで周りに大勢に隊員たちが居るのをすっかり失念していたのを思い出す。
「「ッみ、見せ物じゃないッ!!」」
 腹筋をフルに使った大音量で二人同時に怒鳴っても、後の祭りだ。


※  ※  ※


「・・・忘れ物は?」
「え〜と・・・うん、大丈夫!」
「今日帰り遅くなると思う」
「錬成教官になっちゃったから仕方ないよ。晩ご飯カレーでいい?」
「ああ。いってき・・・忘れ物した」
「ん?おやつ忘れた?」
「いってらっしゃいの、キス」
「・・・ッ」
「いってきます、郁」
「・・・・・・いってらっしゃい。いってきます、篤」
 バタン。




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