返却図書を書架に戻しながら、郁はなんとなしに天井を見上げた。

なんの変哲もない漆喰の頭上。いつもなら柔らかな光を館内に招き入れてくれる灯り取りの窓からは、しかしこの悪天候故に伺えるのは雨風だけしかない。

吹き付ける強風と窓を忙しなく叩く雨だけれど、さすがにこの年で恐怖を感じることはなかった。それがいいのか悪いのか、今は気にしないことにする。

天気が悪いからか、館内は閑散としていた。人気がないからなのか館内は一層寒々しい気がして、郁はそれに耐えるようにゆっくりと確実に本を戻していく。こんな時こそきちんと仕事をしなければ。


どさり、本の重さを知らせる音。

ぱらり、真実へのページが捲られていく。


いつも以上に静かな図書館では、見過ごしがちな小さな変化も隠れられず姿を表していく。


大好きな筈のインクの匂い。

――――なのに。

雨の音が連れてきた、水を存分に含んだ空気。

――――息苦しい。

覆いかぶさってきそうな暗い気配。

――――止めて。

書架と書架との間に産まれた、小さな物言わぬ影。

――――怖い。


よく知るはずのこの場所の、全く知らない顔を覗いた瞬間、

足元から――――…………






「笠原」





遠くから。





「笠原」





導いてくれるのは、この声。


「ぼさっとすんな、アホウ」

小言と一緒に落とされた、優しい拳骨。その温かさに、


遠ざかりかけたその人の袖を、無意識に捕まえていた。


「…………」

不審な視線を返されて、ようやく郁は己の行動に気がついた。パッと手を離す。

だけど理由を問われても、自分でもわからないからなんとも言えず……。

押し黙った郁の耳に、雨と風とため息と紙の捲れる音が届いて、


ぽん


再び頭の上に乗った温もりに顔を上げれば、不機嫌にそっぽを向いたままの堂上。しかしよく知る彼の手は、郁の頭の上にあって――――。

「…………」

言葉をなくしたままでいたら、その手がやや乱暴に髪の毛をかき混ぜた。ぐしゃぐしゃと、温もりを混ぜ込むように。

「わ、わッ、ちょ……!」

「――ふん」

盛大に鼻を鳴らして離れていく掌。そして髪の毛と温かさとの隙間を通った空気の余所余所しさに、思わず首をすくめた。

嗚呼、なんて名残惜しい。


「――――励め」

「え……」


ひと言。たったひと言を残して、その名残を郁に託したまま堂上は常と変わらぬゆっくりとした歩調で元いた場所に戻っていった。

郁はぼうっとしながら、まだ少し温もりを残す頭に己の掌を重ねる。まるで堂上と手を重ねているようで、自覚した途端すぐに手を下ろした。

でも。


大好きな筈のインクの匂い。

――――肺いっぱいに吸い込んで。

雨の音が連れてきた、水を存分に含んだ空気。

――――湿気は本の大敵だから、あとで空調を操作してもらわなきゃ。

覆いかぶさってきそうな暗い気配。

――――それでもささやかな光が照らすから。

書架と書架との間に産まれた、小さな物言わぬ影。

――――もう、怖くない。


顔を上げればいつの間にか雨が止んで空が微笑んできた。あんなに寒々しかった空気に、柔らかな息吹が舞い込んでいる。

もう大丈夫だ。

あなたがくれた温もりで、こんなにも元気になれるのだから。






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