あの雨の日のから一ヶ月、郁は堂上の店に通うのをはたりと止めた。
 もちろん柴崎にはカットやトリートメントに誘われるのだが、部活やゼミを理由に今のところ何とかかわしている。
 ―だって堂上とどんな顔をして逢えばいいのかわからない。こんな時恋愛経験値が皆無の自分が憎らしい。どうして今まで経験を積んでこなかったのか。
 そう思う反面、初めての本当の恋は堂上とがよくて。
 その矛盾が一層葛藤を生んだ。 



「吐きな。吐いて楽になりなさい、笠原!」
「だ・・・だから、何もなかったってばッ」
「嘘おっしゃい!じゃあなんで堂上さんのお店に行かないのよ、おかしいわ。ほら、このカツ丼食べていいから、素直になりなさいな」
「あたしは取り調べ中の犯人かッ!!」
 やっぱり学食で捕まって、しかも目の前に置かれたカツ丼は誰でもなく郁自身が頼んだものなのに。
「いつまでもあたしの目を誤魔化せると思わないでよ、笠原?情報網には広げ方にコツがあるのよ?」
 愉快そうに微笑む柴崎にぞっとした。こいつならやりかねない。しかしあの状況を掴むとしたら密室だったのだから、盗撮や盗聴しか手がないわけで・・・それって犯罪じゃないの?と心の片隅で反論する。あくまで心の中で、口に出せば後が怖すぎる。
「だからなにもないんだってば!たまたまタイミングが合わないだけで・・・」
「嘘おっしゃい!じゃあなんで真っ赤になってあたしと目、合わせないの。疚しい所がないんなら正面から目を見て言いな」
「う・・・」
 ―目がマジです、柴崎さん・・・。
 しかし茶化せる雰囲気ではない。いつもの飄々とした感じではなく、本気で郁の恋を応援しようとしてきた柴崎だからこそ、下手な嘘ではぐらかしてはいけない。
 だが真実を口にするにはあの行為は恥ずかしすぎて・・・思い出しただけで頬がカッと燃え上がる。


 堂上の掠れた低い声を、情熱的に動く手を、密着した身体の重みを、初めてのキスを・・・。


 もう!もう!もう!!耐えられない。
 なぜ突然堂上はあんな事をしたのだろうか?しかも郁を追い立てる男は、それまで知ったと思っていた堂上とはまるで別人に見えて、正直怖さですくんでしまいそうだった。
 堂上から受けるキスは熱くてとろけそうで、でも肌に張り付いた服や下着が気持ち悪くて。快感と不快感がない交ぜになって混沌とする前に、なんとか意識を覚醒させたあの後・・・。



 微かな記憶を思い起こした頭の中が沸騰しすぎて破裂しそう。身体が熱いのは、気温のせいだけじゃないってわかっている。

「キスでもされたの?」
「・・・え」
「あらやだ、図星?」
 そんだけ真っ赤で挙動不審だと思考だだ漏れじゃなくてもわかるわよ?
「で?告白はどっちから?」
「・・・してない、し、されて、ない」
「でもしちゃったんだ、キス」
「〜〜〜〜もぉ、言わないでぇ!恥ずかしいよ柴崎、やめて、思い出しちゃう!!」
 片手で真っ赤に染まった顔を隠しながら、もう片方はぶんぶんと空中を無駄にかき回す。まるで思い出した出来事をかき消すような仕草で。

「・・・あんた、まだ何か言う事ない?」
「・・・・・・」
 沈黙が言葉よりも雄弁に物語り、柴崎は眉をひそめた。
「まさか、あんた・・・」
「ふぇ?」
「ヤられちゃったの?」
「・・・!?」
 やられたとは何を指して言うのか。

 キスは、何度もされた。とろとろと思考が溶けてしまいそうな甘いヤツ、角度を変えて浅く深く。いつもはマッサージをしてくれる手が髪の毛に差し込まれ、滑るように頬を撫でる。指先の通った後はまるで熱いレールがしかれたようで、肌の感覚が敏感になっておかしくなりそうだった。
 想いを告げもせず、唇と身体を寄せ合う。貞操観念の強い母の刷り込みのせいでそれは酷く背徳的で、例え恋愛感情の全てを捧げたい相手であろうと赦される行為ではなかったと思う。

 ―後悔、していないと言えばそれは嘘だ。

「あたし・・・柴崎、どうしよう?」
「何がよ」
「だって堂上さん、あたしの事好きじゃないのに、あ、あんな事・・・どうしよう。どうしたらいい?」
 ほらほらと涙を流す郁はどこまでも清らかだ。堂上が想いが溢れて気持ちを伝える前に暴走してコトを起こしたとしても、結果郁を傷つけたのであれば容赦はしない。
 こんなに純情な、柴崎が密かに憧れる素直で真っ直ぐな性根をもつ郁に取り返しのつかない傷をつけたのだから。

「笠原・・・元気出してよ」
「ううん、柴崎。あたし、いやらしい!告白もしてないのにキスして、あまつさえ・・・き、気持ちイイ、とか、思っちゃって・・・サイテー・・・」
 ―あら、初心者の郁をも気持ちよくさせられるだなんて、さすが年の功とでもいうべきか?
「あんたが気にする事じゃない。悪いのは先に手を出したあっちじゃないの」
「でも、でも・・・!」


「し、舌が絡んできて・・・気持ちイイとか、あたしおかしくない?」


「・・・ん?」
 ―ちょいとお待ち。
 しばし逡巡した後に、恐る恐る郁に確認を入れる柴崎。
「あのさ、エッチしちゃったんじゃないの?」
「え、え、え・・・ッて!!し、しし、柴崎、今昼間・・・!」
「重要な確認よ、答えなさい。あんた、堂上さんに何されたの?」
「何って・・・」
 郁は首まで羞恥に肌を染めあげると、視線はすがれるものがないか四方八方きょろきょろ見回す。が、あいにく都合よくそんなものはない。仕方なしに床に助けを求めながら、両手の人差し指を落ちつきなくくるくる回して小さく唸った。
「どうなの、笠原!?」
「は、はいッ!!笠原、堂上さんにキスをされて、舌を入れられて、びっくりしちゃって・・・」
「・・・それで?」

「その・・・堂上さんの股間に膝蹴り入れて、逃げて、きちゃった・・・・・・」

 最後の方はやらかした内容のせいか尻つぼみの音量になってしまったが、しっかりと聞いた。
 聞いてしまった方としては、脱力するしかない。お前はどこの高校生だ!
「ぐにゅって、ぐにゅってなって堂上さん倒れちゃったんだけど・・・だ、大丈夫だったかなぁ?あたし、責任取らなきゃかなぁ!?」
「・・・あっちは寧ろ責任とりたいほうだと思うけど?」
「ね。な、なんでキスで舌入れるの?嫌がらせ?」
 尚も真っ赤な泣き顔でオロオロ聞いてくる郁に本気で頭が痛くなりそうだ。
「なんで舌入れるかですって?あんた舌絡めとられて口ん中なぶられて気持ちよかったんでしょーがッ!!」
「ちょ、声デカいッ!そんな恥ずかしい事・・・!!」
「恥ずかしかろうが気持ちイイんだからそれが答えなのよッ!」
 素面では耐えがたい。いくら純情乙女の郁だとて、ディープキス如きでこんなにも狼狽えて柴崎を心配させて・・・。
 ついでにディープキスで驚かれて金的なんぞ食らった挙げ句に一ヶ月も面会拒否された堂上に、先ほどまでの怒りも綺麗さっぱり忘れてご愁傷様と呟いたのだった。
 






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