「餌は多いにこしたこたァない」 鶴のひと声ならぬ玄田のひと声をもって、郁も不承不承囮捜査の餌に決まったのはつい先日の事。 発端は武蔵野第一図書館で行われた毬江に対する痴漢行為だ。 関東図書基地のお膝元、もとい、よりにもよって小牧の縄張りの中で行われた無法に毬江と繋がる者は皆憤り、犯人の確保に乗り出した。というか小牧の怒り方に圧倒されて、いつも以上に周りも奮起したというのが正しいかもしれない。 人を殺せそうな程の殺人視線をあたりにまき散らしながら基地内を闊歩するその姿は、あたかも般若のようで。まだ般若の方が怒りながらも口元を引き上げる余裕もあるが、その緩みさえない小牧の様子は般若と比喩するのも生温いかもしれない。 己の怒り方が生温くて謝罪したい気持ちになるくらいってどうなの? そんな事をちょっぴり思いながら、目撃談と一致する犯人が再び図書館を訪れたとの情報が入り。 そうして別の問題が発生した。 毬江が被害にあった時には確かに憤った郁なのに、いざ囮として柴崎に飾りたてられると怖じ気付いて更衣室から出てこようとしないのだ。曰く、痴漢行為に対する恐怖ではなく・・・。 「絶対笑われるし!似合わないし!!馬子にも衣装とかさえ言えないし!!!」 開かずの更衣室の中からは半べそになりながら自分を否定する絶叫が響きわたっている。かれこれ十五分、潮時は今が限界だ。 「笠原出てこい、命令だ」 「いくら堂上教官のご命令でも、大好きな人にこんなカッコみせられないッ!!」 どんなカッコだ、リオのカーニバル衣装でも着せられたのかよ。 内心入れた突っ込みをうっかり想像してしまい、自分で自分を窮地に追い込む。口を噤んだのは自分が要らん事言いである事を十分承知しているからで、郁の機嫌を損ねて作戦に穴が空けてはならない。郁が囮として機能しなければ、非戦闘員である柴崎しか餌として使えないのは非常に心配だ。双方いろんな意味で。 「ちょっと笠原?、あたしのコーディネイトに文句でもあるの?」 先に更衣室から出ていた柴崎は膝上のワンピースを上品に着こなした今風の格好で、それに準ずるのであれば郁だって決しておかしな格好では無いはずなのに。 「ちょっと堂上、いい?」 明らかに痺れを切らした小牧が一片の笑いもなく真顔で見下ろしてくる。同僚といえど正直怖い。視線で人が殺せるというのであれば、きっと小牧は有能な殺人者になれるだろう。 「俺たち先に図書館に行ってるからさ、笠原さん説得して連れてきてよ」 「は!?お、俺一人でか・・・?」 正直口ベタを自覚しているだけに気が重い。 「お姫様の機嫌は王子様が直してあげるとしたもんでしょ?」 いつもの軽口もサバイバルペイントが浮き出た小牧に対しては何も言い返せなくて、結局「班長だから」と自分に言い聞かせて天岩戸と化した更衣室にため息をぶつけたのだ。 「おい、出てこい」 「嫌です!絶対笑われる」 「笑わんから」 「信じられません!」 「俺が信じられないのか?」 「堂上教官を信じられないんじゃなくて・・・」 自分が信じられないんです、と小さな呟きが耳に届いた。 女の子らしくという寿子に反発して育った郁にとって、女子服とは見る分には幸せな気分にさせてくれても、着るのは抵抗があった。憧れはある、しかしそれ以上に似合う訳がない女子服で人前に出るなど恥ずかしすぎて軽く死ねる程であるらしい。 「見てみないとわかんないだろ」 「わかります!アントニオ猪木が合コン行くみたいな感じです!!」 「いつの時代だ!」 「一七0cm戦闘職種の大女に釣れる犯人なんてよっぽどの変態さんしかいませんから!!」 「痴漢はみんな変態だ!つかお前、このままだと確実に柴崎だけが被害に遭うんだぞ!?」 「・・・ッ」 「毬江ちゃんだって、他の被害者だって。ここで犯人を確保できなかったら被害は広がってくんだ。それでもお前はいいのか?」 誰もが楽しく安全に来られるはずの図書館で、自分達の縄張りで犯罪が行われるのは許せない。図書館だけでなく、世の中に他人を脅かす行為があっていい訳がないのだ。 「・・・わかりました・・・」 ようやく観念した郁からの返事にほっとしたのもつかの間、おずおずと出てきた郁の姿に、堂上はなんとしても仏頂面の仮面を付けねばならなくなったのだ・・・。 『ターゲット確認』 「了解、送れ」 手塚からの連絡にぶすっとしながら応えると、傍らの小牧が口の端を歪める。 「班長殿も苦労が絶えないね。あんなに極上の餌に仕上げられちゃって」 「お前うるさい」 何を指しているかはすぐにわかった。 郁を連れ出した堂上の表情は、一言で言えばもの凄く機嫌が悪そうだから。 その郁と言えば、小牧に渡された故障した補聴器を耳につけ、わざと人気のないコーナーへと入り込んだところだ。 すらりとした長身はそれだけでも目に付くというのに。柴崎に「餌」として仕込まれた郁は、まさに人目を惹きつけて止まない、柴崎と並んで歩いても遜色ない女っぷりなものだから、胸がざわついて堪らない。 普段はジャージやカジュアルな服装で隠されたスタイルの良さがいやらしくない程度に強調され、柴崎曰く最大の武器であるところの美脚が目算膝上十五cmのミニスカートを履く事で惜しげもなく披露されている。 化粧もきっちりと施された郁は、いつもの幼さはなりを潜めた堂々たる妙齢の女性へと変身を遂げていたのである。 いつもとは違いすぎる、「女」としての郁を目の当たりにした途端、不本意ながら変な声が出そうになった。 動揺はすぐには引かず、隠すために身に付けた仏頂面の仮面はいよいよもって郁の自信を喪失してしまったようで。慌てた堂上がとうとう柄にもない事を言って場を収めたのであった。 『―堂上教官』 「なんだ」 囁く音量で届く郁からの無線。慣れない役割に心なしか声が震えているかもしれない。 『あの・・・も一回、言ってもらえませんか?』 お護り代わりに、と呟く郁の言葉に内心唸りながらも堂上は目を瞑り郁が欲しい言葉を紡ぐ。瞼の裏に浮かぶのは―。 「可愛いから、自信もって行って来い。フォローは俺に任せろ」 『・・・ッ、笠原、頑張ります!』 犯人は速やかに食らいついた、―郁にだ。 他の人間の死角になる隅の方。本を選ぶフリが本気で集中しかかった瞬間、いつもよりも警戒を薄くしていたせいで反応が遅れた。 不自然にならない様にそれとなく感覚を開けて横に並ぶ。少しずつ近づき、恐らく盗撮用であろうバッグを郁の足元に置くと、横目で柔らかな肢体を視姦している。今すぐ男に飛びつきたいのをぐっと堪えた。この段階ではまだ犯罪行為ではない。現行犯で確保するためには服越しに身体に触れさせなくてはならず、それをじっと待たなければならない。 はっきり言って面白くない。 そして同時に服越しの郁の柔らかさを思い出して・・・。 『堂上ッ』 インカムから鋭く届いた小牧の声に反応した脚が床を蹴る。 やや背の低い犯人は郁の太股に汚い手を這わせニヤついていた。郁は突然の事に驚き一瞬動きを止めたが、すぐに任務の事を思い出すと犯人の襟首を掴んでそのまま脚を刈って・・・自分の今の格好を失念している郁に堂上が青くなった。 そんな短いスカートで脚を使えばふわりとした生地が風に煽られてめくりあがる事は必至、それを周りの不特定多数に見せる事に我慢ならない。 「アホゥ!!」 全力の怒鳴り声に驚いた郁が姿勢を崩し男の下敷きになったのを慌てて助け出すと、力任せに犯人を締め上げた所で手塚の制止が入った。手加減を忘れたせいで、半分オチかけたそいつをそのまま手塚に引き渡すと、座り込んだままの郁の様子を伺った。 「大丈夫だったか?」 しばし呆然としていた郁はようやく焦点を戻すと、眉尻を下げて自嘲気味にえへへと舌を出した。 「スカートなの、忘れてました」 「阿呆が、そんな格好で相手刈るとかやめてくれ。なんの為の俺なんだ?」 「でも!あたし、戦闘職種だし」 「だから」 こぼれたため息はどの感情か。眉間に寄るしわは部下を叱る為ではない。 「戦闘職種であろうとなんだろうと、お前は女で俺は男なんだ。なんでもかんでも一人で処理すんな、助けがある時は黙って助けられとけ」 「・・・ッ」 郁の赤面など知らない。 きちんと立てるのを確認すると、堂上はその場から逃げるように立ち去った。 誰がなんと言おうと、その時の郁はただの女にしか見えなかったから―・・・。 「堂上教官?」 小首を傾げながら日報を差し出す部下に、堂上は眉間のしわを一層深くした。 郁が何かをしでかした訳ではない。堂上の勝手な個人的悩みであり、しかしその悩みは郁に起因するのだから全くの無関係というわけではない。 「何でもない」 何した、とは問えない。何かしたのはむしろ自分の方で。 囮捜査の一件からどうにもこうにも郁がただの部下ではなく、「女の部下」にしか見えなくて困っている。何を今更と言われるが、その意識を故意にでも封じ込める事に成功していたからこそ、他の特殊部隊員と同等の扱いをしてこれたのに。 上官に迷いが生じれば部下の采配に支障をきたす。いつか小牧が言ったように、郁をただの部下と見られなくなった時点で彼女を手放す時期に来ているのかもしれない。 そして。 「笠原で良かったら聞いてあげますよ、愚痴!」 にっこりと笑う顔に感じる感情は、胸を揺さぶる物。その感情は手元で郁を育てる支障に他ならない物だとわかっているのに、すでに手放せなくなっている自分にどうしようもなく幻滅する。 こんなのは堂上が目指す図書隊員ではないのに、切り捨てられないのもまた自分だ。 郁は、こんな背中を追って満足なのだろうか・・・? 「愚痴なんぞない」 「でも眉間のしわすっごいですよ、今世紀最大級って感じ!」 「生まれつきだ、んなモン」 「眉間のしわとしわじゃ合わせて『しあわせ』になりませんもんね?。あ、『しわ寄せ』?」 「大喜利やってんじゃねーよ。ここ、誤字」 「うわッ」 顔をしかめて日報を書き直す後ろ姿をぼんやりと眺めた。 細い線、華奢な身体つきは間違いなく女性でしかなく、よくもこんな間違いだらけの背中を追ってこんな所までやってきたものだ。 「出来ました!」 今度こそと意気込んで提出された日報に頷く。 しかし郁はいつまでもその場を動こうとせず、何か言いた気にもじもじと突っ立ったまま。 「どうした」 水を向けてやると、頬をほんのり染めながら一気呵成とばかりに口を開いた。 「あ、あの!お願いがあるんですけど!!」 「・・・なんだ?」 「その、来月の昇任試験の事なんですけど」 そう言えば差し迫っていたのを思い出して、違う意味で眉間にしわが寄った。この座学力ゼロのうっかり者の部下が、実技はともかくとして筆記で受かるとは到底思えなかったからだ。 「落ちに行くのか?」 「直属の上官が縁起でもない事言わないで下さい!!」 「・・・すまん」 だから、と咳払いをひとつ挟む。 「飴を下さい、あたしが頑張れるように」 飴?と呟けば大きく頷いて。 「あたしも堂上教官みたいな立派な図書隊員になりたいんです、いつかカミツレとって!だからまずは来月の昇任試験、絶対受かりたくて・・・」 今の状況であれば合否は五分五分。それを自分もわかっていて、人参をくれという。 「・・・目指す図書隊員が、俺なんかでいいのか?」 自問のような問いに、郁は迷いもなく大きく頷いた。 「堂上教官だから、目指したいんです!あたしの大好きな人はそんじょそこらの図書隊員とは違うんですから!!」 「・・・ッ」 なんつー赤面物の台詞を臆面もなくさらりと言うか。しかも言った本人は大真面目である。 ―参った。 どうやら郁に飴をやるどころか、逆に飴を投げつけられたような気にさせられた。 しかしそれも悪くないと思っている自分もいるのだから。 「じゃあ、受かったらどっか連れてってやるか?」 「・・・・・・!い、いいんですか!?」 秋はまだ色づいたばかりだ。 これから見事な紅葉が人々の目を楽しめるのだろう。 そして、郁と。 この胸に疼く名前をつけたくない感情もまた・・・。 |