「もしあたしが被弾して死んだら、堂上教官はどうしますか?」 「――――ありえん」 下らない部下の戯言を切り捨てて巡回のルートを行く堂上の胸の内は、しかし言葉とは裏腹に荒々しい風が吹き荒ぶいていた。 何をくだらん事をぬかすのか。だいたいそんな事態に陥る前提がわからない。 館内は週末の日中であるにも関わらず閑散としていた。 少し強めの陽光がさらさらと空気を照らす。光に触れた所から熱を含んだかのように、途端に柔らかくなる室内。 シンとした館内では、そこかしこで本がめくられる度に紙たちが囁いている。知識を、あるいは夢物語のお披露目会。受け取り手は老若男女と富んでいて、しかし皆がみなお行儀よく口元だけを綻ばせてそれを楽しんでいた。 本が開かれる都度、微かに舞うインクの香り。それはまるで活字が宙に溶けるように。そんな空気で満たされた図書館は、時に静謐な厳かさえ感じる。 それはこの場所の日常だ。図書基地に身を置く堂上の、郁の日常だ。 静寂に包まれた知識の箱庭に職を得て、本を守り本を愛でる、それが図書隊員の日常なのだ。 そこは決して、平穏なだけの均された場所ではないのを知っている。時には泥を被り、血潮を上げて罪を被る事が多々あるのを知っている。 それでも――――。 振り返れば、郁の姿が跡形となく消えていた。声すら。 バディであるはずの彼女、郁が後ろを付いてきていると信じて疑わなかった堂上の動悸が、一瞬乱れた。なぜ。また、乱れた。こんなにも簡単に。 踵を返して来た道を戻る。 こんなはず、こんな事が。 平穏を内包する日常の中で、郁の姿がある事は不変だった。不変だと思っていたのに。 無条件に降り注ぐ光の粒たち。 本の噂話に耳を傾ける利用者たち。 柔らかく深いインクの香りを肺いっぱいに吸い込めば、訪れるのは安堵の筈なのに。 急速に乾いた喉が引き攣って声が出せないい。口の形だけが音もなく彼女の名を形どるが、そもそも音のない呼びかけに応えがある筈もなく――――。 「……堂上教官?」 聞きなれたアルトに呼び止められて、堂上の脚が止まった。大きくぐるりと辺りを見回して、書架の間から顔を覗かせた部下を見つけて胸をなで下ろす。 悟られないように細くため息を吐いた。感じていた不穏も引き連れて。 大股で近づく。郁の色が濃くなる。まるで体温さえも感じるられるかと思うくらいに、近くに。 「どこ行ってた!バディ崩すなと、あれ程言っとるだろうがッ」 注意と言うには些か大きくなってしまった声に、館員の何人かが訝しそうな視線を投げかけてくる。拙かったと思えばこそ、しかし飛び出た音は回収不能だ。 「すいません。ちょっと利用者さんに声かけられちゃって」 「だったらひと声かけろ。お前が居なくなったと思って――――」 口を開けばポロリと続きが溢れてしまいそうな気がして、慌てて唇を結ぶ。どうやら郁は気づかなかったようだけれど。 「今度から気をつけます!」 「――――」 上官の小言にもめげず綺麗な敬礼で返してきた彼女に、何も言えず堂上は背中を向けた。その勢いで再び歩き出す。 日常から姿を消した彼女に、堂上の不変は奪われたと思った。 有り得ない。安寧がこんなにも簡単に打ち崩された瞬間、その大きさに心はいとも容易く均衡を乱される。なんと脆いのか。今まで身につけてきたと思っていた平常心の呆気なさに、苛立ちしか湧かなかった。 そうだ、平穏など突然壊される事を堂上は忘れていた。日野の悪夢がいい例だ。悲劇は被害者の心情など顧みる手間などかけてはくれないから。 当たり前などありえない。現実を直視しきれない弱さが当たり前を作り出す。 じゃあその弱さをなくせば――――…………。 「堂上教官」 呼び戻したのは、二度の彼女の声。 現実が、 「堂上教官」 ――――嗚呼。 「歩くの速すぎて、それ巡回じゃなくなってますよ!」 必死についてくる足音に振り向くことなく、堂上は後ろにいる部下を思う。 郁が被弾する可能性を自分はなぜ失念していたのだろう。護ると決めた瞬間から、彼女に向かう脅威の全てを引き受ける覚悟は、それとはまた別なのに。 だから今この瞬間の連続を大事にしていく。 「捕まえた!」 不意に右腕を取られて、拍子で視線がぶつかる。髪の毛と同じ、色素の薄い琥珀が真っ直ぐと堂上を見つめた。胸にじわりと、温もりが広がるのを感じて、初めて自分の心が冷え上がっているのに気づいた。 「バディなんだから、いつも一緒じゃないとダメなんでしょ?」 「……ああ、そうだな」 そしてゆっくりと歩き出す。 包み込むような柔らかな明かり。 読者に語りかける紙ずれの音。 心地いいインクの香り。 そしてその安寧の中に立つ、キミ。 一瞬の連続を逃さないように、 キミが共にいるこの時間を大切にしていこう。 |