正化三十四年、一月十五日――



『ご覧ください、一夜明けた敦賀原子力発電所です!』
ヘリコプターによる上空からのリポートにも臆さず眼下の光景に身を乗り出した女性レポーターの大声は、カメラのマイクによってテレビの前に釘付けになっている視聴者に事の現状を生々しく伝えていた。
敷地のあちこちから黒煙を吹き上げて危険な状態をさらしている三号発電機、四号発電機は予断を許さない状況であると緊迫した声が教えている。その建物のどてっ腹に突き刺さった迷彩塗装のヘリが二機、無惨にも機体が半ばから折れ曲がっていて一目で操縦士の生存は絶望的だとわかった。
原発に仕掛けられたヘリの突入から始まった襲撃がよもや遠く離れた東京の図書隊にまで影響を及ぼすなど、ニュース速報で事件を知った堂上でさえ予想もしなかった事である。










まさか使い慣れた武蔵境の駅前で、にやけそうになる頬筋を引き締めるのにこれほど苦労する事になるとは思わなかった。
待ち合わせに現れた郁の服装に柴崎の作意を感じないわけではなかったが、それを脇にどけてもその姿は郁の魅力を十二分に生かした輝きを放っていた。
パステルカラーの暖かそうなポンチョからふわりと揺れる真っ白な膝丈スカート、すらりと伸びた足下はベージュのブーティーで固めている。カジュアルやスポーティーな服装がデフォルトの郁だから、そのギャップときたら―・・・。
「あのあたし、変じゃないですか・・・?」
「変じゃない。可愛いぞ」
いつかの囮捜査の際には言い渋った言葉もするりと出てくる。それはこいつのせいで。
薄く色づかせた頬を更に染めて視線を足下から上げられない郁の手をとると、びっくりして上がった視線に強い意志をぶつけて返す。

今日はお前から仕掛けてきたデートなんだからな、逃げるだなんて今更許さない。
堂上としてはぶつけられた今までの好意に熨斗をつけて郁を囲い込むつもりである。今日の成果はなんとしてもいいものにしたい。

逃がすものかと握った手に連れられて、堂上は若干挙動不審気味の郁とハーブティーの店に移動した。



「・・・飲みやすい。やっぱり緑茶に似ているような気が・・・」
初めて飲んだカミツレ茶は以前もらったアロマオイルとはやや香りが違ってはいたが、緑茶のように飲みやすいものだった。
ハーブティーなんぞ洒落た物は飲まない方だが、郁と一緒に飲むというだけで、たぶん普段の何倍も美味く感じられるのだろう。はにかむ郁の笑顔も含めて、それはとても好ましい味がした。
カップから立ち上る湯気の向こう側にある笑顔。これからも見続けていたいと望んでしまった女の。
例えば郁が入隊してからすぐに気持ちを受け入れていたらもっと早くこの笑顔を手に出来たのだろうが、きっとこれ程の充足感は得られなかっただろう。
突っぱねて、ぶつかり合って、女と男としてだけじゃない絆も作っていけたからこそ、今この笑顔に満たされる堂上がいるのだ。
だから今までの自分達に決して無駄な時間などなかったのだ。

「どうする、この後」
「え、どうするって」
正直にカミツレを飲みに来る事しか織り込んでいなかったであろう郁は小首を傾げている。阿呆、何の為にふたりで出かけたと思っているんだ。
だが男女交際などした事のない郁の事だから、ここは優しくスタンダードなデートコースを提案してみた。
「まだ二時だし、せっかく休みでこのまま帰るのももったいないだろ。映画でも見るか?」
途端に笑顔の花を咲かせた郁を見て、胸の中で安堵した。
よかった。郁を疑うわけではないが、今まで向けられていた好意が本物だと言う事に。このまま堂上の胸の中でひっそりと育ってしまった気持ちを告げても良さそうだという事に。



―なのに。
なぜ、ふたりのデートは偽装デートへと発展しているのか。
映画を観に行く前にかかってきた電話で図書基地へと引き返したふたりを待ち受けていたのは、作家の当麻蔵人と結末の見えない事件。その手始めに秘密のデートを中断された堂上と郁は、公認の偽装デートを敢行しているというわけだ。
正直面白くない。
ふたりだけの密やかな逢瀬が衆目公認の偽装デートに発展だなんで、嬉しくない。一緒に出かけられるのは嬉しいのに、全く嬉しくなどない。
スーパーで買い物だとか新婚さんごっこじゃあるまいし、
はしゃぐな可愛いだけだから!

だけれども、その日から堂上班は分単位の過密業務につく事を考えれば、もう少しこの偽装デートを楽しんでおけばよかったと思う堂上だった。








当麻の関東図書基地から稲嶺顧問自宅での潜伏、それにつきっきりの堂上班は文字通り公休返上で特別警護に当たっていた。しかもバディは常に堂上・笠原組と小牧・手塚組での警護の為、丸一日郁と顔を合わせている。
本当なら常に一緒で嬉しいと感じる状況も、警護であるが為に私心を封じ込めて事に当たらなくてはならない。それが思ったよりも大変だった。
少し緩めば手を伸ばして頬に触れたい欲求を頭を撫でる事でなんとか回避し、掛けたい言葉をからかいの軽口で抑え込む。心を殺し、気持ちを抑えての警護中、不意に見せられる郁の無邪気さと無防備な仕草に何度煽られてしまいそうになったか。

だから車で脱出してコンテナで図書基地まで輸送される狭い車内であいつが軽い閉所恐怖症だと告白した時、励ます口実で迷わず手を握りしめた。
久しぶりに触れた掌はやっぱり小さくて薄くて、そして温くて。
郁から絡めてきた指に応えたのは無意識。
警護中もあって表面上は以前と違って全く堂上に迫る事のなくなった郁だが、その仕草に気持ちは変わっていないのがわかって、年甲斐もなく胸の奥が切なく泣いた。このまま引き寄せて抱きしめて、大丈夫だと包み込んでやりたくて。だが実際は警護中にやる事ではなく、せめて気持ちが伝わるようにと指を絡め返すだけ。
指なんかじゃ足りない。本当は―。



「堂上、俺明日外出だから」
当麻が図書基地に戻ってきたのを機に潜伏を公に公開してようやく公休が復活するも、しかし何かあった時に備えて公休日に外出する際は報告が義務づけられている。
毬江と外出するのだという小牧の言葉に、そう言えばこいつも二ヶ月近く彼女と会っていなかった事を思い出すと、自分のせいじゃなくても二人に申し訳ない気持ちも沸いてきた。堂上と郁は何の発展も出来ない代わりに、なんだかんだ言って毎日顔を突き合わせる事が出来るのだから。
ああ、だが。
「終わりました、お願いします!」
日報の遅い郁につき合って最後の確認をする。端正な文字を本人に触れられない代わりに指先で触れて、それからようやく判を押すと、ほっと小さなため息が聞こえた。本当にいつまで経っても日報が苦手な奴だ。
「上がっていいぞ」
「・・・はい」
歯切れの悪い返事に傍らの長身を見返せば、途端にその事を後悔した。見なければよかった、何もせずにただ郁を帰せばよかった。

そこに立っていたのは、切ない女の顔をした郁で。

「次は・・・当分先になりそうですね」
呟いた言葉は何を指しているかはすぐにわかった。あの日のデートの続き。偽装ではなく、正真正銘二人きりだったあの日の。
「笠原、」
しかし次の言葉が口から飛び出す前に郁はさっさと身を翻し、お疲れ様でした、と言って事務室を飛び込だしていってしまった。
その顔が真っ赤だったのは気のせいか。
まともに見れなくて惜しいと思う気持ちと、重大な案件を抱えている今、この関係を崩している場合ではないと自重する気持ちがごちゃ混ぜになって、その日の夜はいつも以上に悶々としてしまったのは仕方のない事だろう―・・・。










そして、その夏で最も大きな台風が関東に上陸したその日、当麻の最高裁判決は出た。
執筆期間を制限する措置、それは事実上敗訴に他ならなかった。
「よし、行け!」
ぎりりと奥歯を噛みしめた玄田が、その悔しさを上回る決意で強く呟いた。もう部下たちは動き出しているはずだ。





降りしきる雨は運転の妨げにしかならない代わりに、道路は空いていた。しかし行く先々を知っていたかのように良化隊が一行を待ち受け、やむなく車を捨てて二手に分かれて徒歩で移動する羽目になる。
日頃の訓練で体力の問題はない郁と堂上だが、一般人である当麻はそうはいかない。自然足は緩めながらの移動となり、どんどん逃げ場を失っていく。
そんな時の、凶行だった―。

パァン。

音が耳に届くのと、右足に酷く熱い衝撃が走るのとは同時だった。
撃たれた。理解は衝撃とともにすぐに全身をかけ巡った。何度となく体験した被弾。焼けるような痛みは瞬く間に銃撃箇所だけではなく足全体を覆って、麻痺したように全ての神経が狂う。狂う。力が入らなくなる。
それでも、今この二人を護らなくては。当麻を、この国の未来を。
―好きな女を。
必死にたぐり寄せたビジネスバッグからジグ・ザウェルを掴み出すと、残った力で威嚇射撃をする。こちらにも迎撃する力があると見せつけなければ。今ここで捕まってしまってはただの無駄死にだ。
「市ヶ谷駅がすぐそこだ、当麻先生を連れて行け・・・ここで俺が食い止める」
「あなたを置いては行けませんよ」
「大丈夫ですから行ってください!行け、笠原!」
「嫌です!」
ここへ来ての命令違反に目をむく堂上をよそに、郁は堂上のネクタイを解いて不完全ながら止血をする。その手に迷いはない。
迷うな、違う。今はそうすべきじゃないのに。
命令に背いた郁と当麻に連れられて、どんどん重くなっていく身体で堂上も現場を後にした。



逃走劇はここで終わるのか。
連れて込まれた書店のバックヤードに寝かされながら、次第に霞がかっていく頭の隅でそんな事を考えた。相当出血したのだろう、いつブラックアウトしてもおかしくない感覚をどうにかこうにか保たせて当麻にこの後の事を問う。
この後、何も見いだせない現状で当麻はどうするのか。郁は。果たして郁ひとりで当麻を護りきる事が出来るのか。俺が育てた部下だ。出来ないわけがないだろう。
「大阪に向かうつもりです。大阪ならまだ・・・」
「ああ・・・そうですね、その手がまだあったか」
郁には見当もつかなかったらしいが、大阪にはかなりの数の総領事館がある。大使館に準ずる権限を持つ総領事館に駆け込み亡命を成功させようと言う当麻の案に飛び乗った。
だが堂上はこの身体だ。動けない代わりに一切合切不自由のないように全てを郁に預けた。階級章と、それに生命の危機で小さくなったであろう、己の魂も乗せて。
「お前、カミツレ欲しがってただろう。貸してやる。必ず返せ」
そして頭の上にぽんと手を乗せた。感触を確かめるように。この手にこいつの熱を忘れないように。
「大丈夫だ、お前はやれる」
ひとりでこの後の事を負わせるだなんてしたくなかった。どこまでもこいつの手を引っ張って、一緒に仕事をしたかったのに。
ああ、こんな事になるなら、もっと素直にもっと早くこいつの想いに応えてやればよかった――俺も同じ気持ちだったんだって・・・・・・。

その時、唇に熱が押しつけられた。
熱くはない、ささやかな熱は柔らかさも共に伝え――キスをされたのだと理解するのに、しばらくかかった。

呆然とする視界いっぱいに愛しい部下の真っ赤に染まった顔を映す。閉じられた瞼から伸びるまつげが長いだとか、そんなどうでもいい事が目に付いた。
触れあうだけの口づけ。
なのにこんなにも満たされる。
冷えた唇が触れる柔らかさから熱を分けられる。温かい。それはただ単に体温の温さ以上に、郁自身の想いの熱さか。
二人の温度が同じになった頃合いで唇が離れた。惜しい。こんな様じゃなかったら引き寄せて、もっと長く味わったものを。
「堂上教官こそ――あたし、帰ってきたらカミツレ返して、結婚しようって言いますから!だから絶対元気になってください!元気にならなかったら、あたしの旦那様になんかしてあげない!」
周囲の店員たちが一瞬ざわめき、それからそれぞれの作業に戻った振りをした。

おい、ちょっと待て。本人の意向はまるっと無視か。

堂上の心の声に耳を傾ける事なくさっさと背中を向けてバックヤードを後にする郁に、だが堂上は苦しい息の下でうっすらと微笑んだ。
見送る背中は華奢ですっくと伸びたいつもの彼女そのまま。
あの背中に清廉を誓った。己の危うい部分を切り捨て、全体の個として活きる道筋をたてた。

今度はあの背中に、お互いが無事に必ず戻ると誓う。

いよいよ焦点が合わなくなってきた。霞む意識の向こうに尚も在る背中に、もう一度微笑んで。



戻ってきたらあいつにも覚悟してもらおうか。
なにせ人生がかかっているんだからな、死ぬに死ねなくなったじゃねえか。
だが思考はそこまでで、堂上はとうとう意識を手放した。




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