目が覚めて、見上げる天井がいつもと違って。次いで身体の重さと痛みに刺激されて、ようやく現状が追いついてきた。
息をするのも苦しいくらい。
それよりももっと苦しいのは、あいつひとりを過酷な任務に赴かせなくてはならなかった事だ――・・・・・・。










――当麻蔵人の英国総領事館亡命成功。

その一報が届いた時、不覚にも堂上の意識は底辺の淵を這い回るばかりで世間の激動などに全く関われなかった。どのみち重傷を負ったこの身体では、意識があったとしても何も出来なかったのだろうが。
銃弾摘出の手術を終えて二日、ようやくたゆたうよう思考が浮上して何よりも先に想ったのは、ただ一人の事。
笠原郁。
出会った時から勝手に心の支えにし大事に大事に胸の奥に仕舞込んだ宝物は、堂上の懸念も飛び越えて今や立派な特殊部隊の一員となっていた。出来の程度は置いておくとして、己の武器を見極め磨き、不器用な頑張りでなんとか少しずつ仕事をこなせるようになってきた。人を想い、人に愛されてその素直さを害される事なく育って来られた。
けれどどんなに成長しても、堂上にとっては目を凝らして先に導きフォローをしてやらなければならない見守るべき部下で、――そしていつまでもあの時の女子高生のまま。
いつまでもこんな事ではいけないのはわかっている。わかっていても大事すぎて動けない。

だが、先にラインを割るのはいつもあいつの方なんだ――・・・・・・。















「・・・あのさぁ。お見舞いに来て貰ってその面はあんまりだと思わない?兄貴」
「うるさい」
「それ以上仏頂面こじらせてどうすんの。彼女のひとりもいないでしょ、むしろ出来ないでしょ」
「黙れ、この顔は元からだ」
「知ってるっつの。てかさ?、三十路で彼女いないとか寂しくない?あ、もしかして男の方が好きなの?」
「んなわけあるか!」
だよね?、などと笑いながら棚の整理をする静佳に、苦虫千匹噛み潰したような顔を見られないようベッドに凭れながらそっと窓の方へと首を巡らせた。
ようやく新宿の救急病院から基地近くへと転院してきたのが先頃、多忙な親に代わって派遣されたのが妹の静佳だとかなんの嫌がらせか。
ため息をつきながら視線の先の恨めしい程晴れた空を睨みつけた。
来て欲しい女は来ない癖に、そうでない人間は入れ替わり立ち替わり堂上の様子を伺いに来ては基地の様子をさらりと話していく。

当麻事件の事後処理が思ったより難航している事。
柔道の訓練があった事。
図書館で置き引き犯を捕まえた事。
ぼうっと外を見ていた様子の事。
防衛部の同僚らしき人物の誘いを断った事。
日替わり定食Bのデザートがプリンであった事。
月が綺麗らしい事。

最初は仕事の内容がほとんどだったそれが、個人的な日々の様子に移行してきた辺りで堂上の眉間に深いしわが刻まれていったのは無理からぬ事だ。
なぜなら事後処理が落ち着いたと小牧から報告があったにも関わらず、あいつは一向に堂上を見舞いに来ないから。直属の部下で、直前までバディを組んでいた相手に対して失礼千万な話なのだが、その心情もわからんでもない。

――帰ってきたら、結婚しようって言いますから!

交際すっとばして結婚ときたもんだ。暴言というか暴挙と言うか、極限状態であった事を差し引いてもなかなか出てこない言葉だろう。そんな事を言い放った相手にどんな顔をして見舞いをかませばいいのか、悩む気持ちはわかる。わかるが心情を理解するのと、三ヶ月も焦らされるのとはまた別の話だ。
「ちょっと売店行ってくるね?」
「そのまま帰れッ」
しばらく帰りそうにない妹に悪態をつきながら、堂上は仰向けに直り両手で顔を覆った。
硬い掌の感触、小さなタコ。吐いた息が肌を湿らせ、くぐもって温くなる。唇に触れるのはごつごつした感触だが、あの時触れた柔らかさはありありと思い出せた。柔らかさと熱と、湿った唇と香り。
押しつけられた口づけは全くやり方を知らないようで、なのに酷く官能的で。離れた代わりに触れた空気の冷たさだとか至近距離から頬を撫でるアイツの吐息だとか、朦朧とした意識の中でそれだけが唯一現実を感じさせてくれた。

もう一度触れたい。今度はこちらから、知らないならやり方を教えてやればいい。
だがアイツが会いに来てくれなくては、このままだと一方的な感情にしかすぎないのだ。



「入るよ?」
返事も待たずに入ってくるのはいつものように小牧だ。それに続いて律儀に手塚は頭を下げ、柴崎が愛想いっぱいの作り笑顔で入ってきて――その柴崎に無理矢理手を引かれた郁がようやく病室に入ってくるのを見て、胸が痛くなる程疼きだした。
「今日はみんな公休日だったからさ、どうせなら一緒にお見舞いに行こうかって話になってね」
「この大娘ったら、堂上教官にまだ状況終了の報告にも来てないって言うじゃないですか!だからそれも含めて褒めてもらいに来ました♪」
うふふと笑う柴崎とは対照的に俯いた郁の悲壮的な様子は、まるで奉行所のお白洲にしょっぴかれる町人のようである。そうなればさしずめ堂上は町奉行か。阿呆、大岡越前か俺は。
「・・・・・・遅い」
ぼそりと呟いた堂上の言葉に目に見えて肩を揺らすと、無実の罪を訴状するかの様に覚悟を決めた郁が顔を上げて綺麗な敬礼を決めながら口上を垂れた。
「すみません!か、笠原士長、三ヶ月程前に作戦終了して戻りました!!」
勢い込んだ頭が深々と下がる。その頭をぐしゃりとかき回し、抱きしめたい感情を慎重に抑えつけたら自然と低い声が出た。
「――よくやった。報道で全部見た。小牧たちからいきさつも聞いた。連絡も取れない状態になったのに一人であそこまでよくやった」
褒め言葉を予想していなかったのか、とっさに顔を上げた郁の目からはすでにぽろぽろと透明の滴が溢れていた。弱々しい顔をして、抱き寄せて慰めてやりたくても周りが興味深そうにじっと二人を観察している。というかこういう時こそ空気を読め、気を利かせろ。察せられないであろう手塚を連れていけ!
唯一触れている手で髪の毛を弄びながら、胸の内でこの後どうやって外野を追い出すか策を練っていた堂上は、しかし次の瞬間一番厄介な外野がいた事に気づかされた。
「あらー、こんにちは小牧さん!っていうかイケメン!可愛い?!!」
ノックもなしにがちゃりと病室に戻ってきた静佳の第一声は、面識のある小牧を除く三人に強烈なインパクトを与えたであろう。兄でさえも頭を抱えたい。
「お邪魔してます。来てたんだね、静佳ちゃん」
「だって動けないですからね、この人。仕方ないですよ」
腰に手を当てながら売店で買ってきたものを棚に入れると、郁の頭に置かれていた手を強かに弾かれた。
「ッぃて!!」
「気安く女の子の頭撫でんじゃないわよ」
「いえ、あの、あたし堂上教官の部下で・・・」
「え、パワハラ?こぉんな可愛い子に、サイテー!」
「静佳!!」
「なによぅ」
唾が飛び交う程罵り合う二人の間で顔を歪ませた郁が、一歩下がってぺこりと頭を下げた。その位置では堂上の手が届かない。
「笠原、状況報告終わったんで帰ります」
「待て!お前まだ俺に用事があるだろうが!」
今にも走り出しそうな郁に必死に食いつくと、慌ててガサゴソと鞄の中身を漁った郁が堂上の階級章と財布を取り出した。
「お返しします。ありがとうございました」
堂上は両手でそれを受け取り、そのまま郁の手を包み込んだ。
「ちょ、堂上教官」
「離すかバカ、お前来るのが遅いんだよ!」
「彼女の前で手とか握んないで!」
「誰が」
「だから、その、彼女ッ・・・」
顔を真っ赤にして困ったように上目使いで傍らの静佳を見ると、一瞬きょとんとした静佳もすぐに破顔すると力一杯堂上の背中を叩いた。
「ゲホッ」
「初めまして?、堂上篤の妹の静佳です。ふつつかな兄ですが」
「あ、兄・・・?」
「お前にふつつかとか言われる謂われはない!」
「またまた照れちゃって」
いたずらっ子のように笑いながら小牧達を促して病室を出ると、最後にちょこっと顔を出した静佳が堂上と郁に小さくウィンクをする。
「ごゆっくり?♪あ、兄貴、ちゃんとお母さん達に教えといてあげるね」
「・・・・・・ああ」
不機嫌顔で返すと満足したようにドアが閉まり、ようやく二人だけの空間に静寂が訪れた。


「妹さん、だったんですね」
しばらく無口だった郁がぽつりとこぼす。階級章と財布を抜き取った後も堂上の手は逃がすまいと細い手を握りしめている。こっちは動けないんだ。
「実は前に一回来た事あるんです、あたし。その時もその、妹さんが病室から出てくるの見て・・・」
「勘違いしたのか?」
頬を染めて泣きそうになりながら頷く郁が愛おしい。そう、好きとかいう感情はもう通り越して、ただただ愛おしい。
「あたし、いっつも自分の感情ばっかり押しつけて、堂上教官に彼女がいるとか考えてなくて・・・ちょっと考えたら、堂上教官に彼女がいてもおかしくないのに」
だから静佳の存在に足がすくんだ。入ってはいけないラインを見せつけられたような気がして、一度引き返してしまうと一人では見舞いに来る事が出来なくなって。
対する堂上はニヤケそうになる頬筋を引き締めるのに必死だ。
それがどういう感情かを郁はわかっていないが、一方的に静佳に嫉妬心を燃やしたという事実にこみ上げてくる嬉しさ。
「これを返すときに何か言う約束だったな。俺は約束を守ったぞ」
絶対、無事でいてください。確かに堂上はその約束を守ったが、――郁の顔は一瞬で真っ赤になった。
今持ち出さないでいつこの話題を持ち出すのか。何よりも堂上はもう、堪える気などないのだから。
「そ、それは・・・もう言ったも同然なので」
「俺は約束を守った」
「じゃあそれは退院してから返すということでひとつ!堂上教官まだ全快じゃないし!」
とっさに頓知を利かせて堂上の手の中から階級章を引ったくろうとするものだから、すかさず手を上げて郁の奇襲をかわすと、そのまま突っ込んでくる郁の身体を勢いのまま抱き止めた。
「・・・ッ!」
「――捕まえた」
抱きすくめた細い身体。襟から覗く肌の感触を頬に受け、鼻腔いっぱいに女の香りを吸い込む。ずっと突っぱねてきたが結局抗えなかった宝物。
「好きだ」
溢れる想いはもう偽れない。
「お前があの時助けた女子高生だからとかじゃなく、ずっとついてた部下だからとかじゃなく、ただひとりの笠原郁としてお前が好きだ」
「え?ちょッ、待って下さい!そんな急に言われても困るって言うか!」
困る。その言葉が堂上の動きを止めた。
もしかして、今までの郁の発言は尊敬する上官へのものだったのか。向けられていたはずの好意は、男としてではなく――。
「すまなかった」
力なく拘束を解くと、居たたまれずに視線を外す。腕の中から消えた温もりは、堂上の想いとともにこぼれ落ちていった。
思い上がっていた。受け入れてもらえるという、確信にも近い気持ちはかくも無惨に突き返された。
「あの、」
「もういい、何も言うな。見舞いももういいぞ。っていうかもうすぐ退院するけどな」
「堂上教官」
「俺が復帰したら何かとやりにくいかもしれんが、そこは班替えしてもらって――」
続く言葉は郁の唇によって遮られた。
重ねた唇はやはり柔らかく、一瞬目を眇めた堂上も改めて郁の感触を味わうことに専念する。触れるだけの口づけを角度を変えて何度も何度も繰り返し、長いキスに呼吸の仕方がわからなくなった郁の息が上がり始めた頃にようやく離れた。
「あたしの気持ち、わかりましたか?」
はぁ、濡れた唇からこぼれる吐息がまだ近い距離の堂上を煽る。どんなに大女と主張しようが、堂上にとってはやはりただひとりの女にしか見えない。
「わかるか、バカ」
これだけじゃ足りない。
再び触れ合うと、今度は観念したように郁も堂上の腕に身体を預けた。










「帰ってきたら結婚しようって言いますから!」
まさにその捨て台詞を言質に、復帰早々堂上がまず行ったのは茨城の笠原家への挨拶だった。
そこからはまさに全力疾走で駆け抜ける短距離選手よろしく駆け抜ける予定・・・だった堂上は、郁の言葉に多々良を踏んだ。
曰く、

「あたしが三正に上がってから結婚しませんか?」

それっていつだ?
正直考課については十分過ぎるとは言え、筆記の不安は否めない。何せ郁だ、教育隊の時分から見てきた堂上にしてみれば心配になってくる。
それでも郁がやると言うのならとことん付き合うのが堂上だ。
「せいぜい大人しく待った末のご褒美を楽しみにしている」
やせ我慢だと笑わば笑え。大概甘いのは自覚しているが、それでも出来るだけ大事な女の意見を尊重するのがせめてもの年上の甲斐性としたもんだろう。
それが思った以上に過酷である事になど気づかずに、堂上は大人のふりをしてこっそり苦悩する事になるのだ・・・。




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