当麻事件から一年が過ぎ、残暑も過ごしやすくなってきた時分にある昇任試験。
堂上班と柴崎によるスパルタ試験勉強の試練も耐え抜き、筆記に実技を潜り抜けてようやく晴れて自由になった郁を次に待ち受けていたのは、今度こそ堂上との結婚準備であった。










「っていうか、まだ結果出てないし!」
「アホウ、大丈夫だ。自分を信じろ」
試験が終わってすぐの公休日。休みの全てを勉強に充てていたために久しぶりに復活したデートでまず真っ先に広げられたのは、式場のパンフレットだった。
気が早いと真っ赤になる郁を余所に、テキパキとすでに目処をつけた所は分かりやすいように付箋をつけてある。恐るべき事務能力!
「早めに計画立てとかんと、困るだろ。昇任人事で官舎に空きが出来ればそこに入りたいしな」
「待って待って、堂上教官ストップ!」
「名前で呼べ」
「あぅ・・・」
結婚を前提に付き合いだしてまず最初に言われたのは名前呼びの要求だった。プライベートでまで上官部下を引っ張りたくないという堂上の言に敬礼付きで頷いたものの、今でもテンパると教官呼びが出てしまう。
「あのなぁ郁、こう言っちゃなんだが俺はかなり待ったぞ。お前が言うように昇任試験まで待った。三正にはたぶん上がれる。だったら今から動いといて損はないと思う」
「でもそんなに急がなくても」
「あのなぁ」
プライベートでは珍しいぐらい眉間にしわを寄せた堂上がテーブル越しに郁の左手をとる。触れた薬指には早々に贈られた婚約指輪が煌めいていた。
「これ以上俺の我慢を試すな」
言われた言葉に頬が熱を持った。
キスは沢山した。抱き合う事にも慣れた。それでも結婚するまでは純潔でいたいという、一方的な郁の貞操観念に合わせてくれた堂上は、今まで郁の定める境界線を越える事はなかった。
たぶん、そういう事も含めて言っている事ぐらいはわかる。
でも。
「余計な事を言うなら、こっちで勝手に決める」
珍しく強硬な姿勢に、喧嘩早い郁もかちんと来た。
結婚とはそんなに無理矢理しなければいけない事なのか。もっと自然に寄り添って、ゆっくりと結ばれていくものじゃないの?
「勝手に決めないで下さい」
「じゃあ郁も考えろ。官舎の申し込みがすぐ出来るように入籍の日取りも決めちまうぞ」
「ちょっと待ってって言ってるでしょ!」
がたりと椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった郁に喫茶店内の視線が集中したが、そんな事はお構いなしだ。
「どうしてそんなに急がなきゃならないんですか?あたしは逃げも隠れもしないのに」
「おい」
「もう少しゆっくりして下さい!」
自分のケーキ代をテーブルに叩きつけると、足音も高く郁は店内を出ていった。
後には気まずい表情をした堂上が、居たたまれない視線の中残されたのだった・・・。





喧嘩とも言えないような喧嘩は、意外にも二人に禍根を残した。お互い歩み寄るきっかけを失って、当たり障りのない付き合いしか出来ない。
郁は急に加速した堂上に困惑し、堂上は堂上で郁に結婚に邁進する事自体を否定された気がして止まるしかない。
端から見れば何を些細な思う所なのだが、お互いの感覚が近しい所で否定しあっているものだから、どうにもこうにも解決まで行き着かないらしい。
「でもさ?、あたしは堂上教官の言ってる事も凄くよくわかるのよね?」
そろそろ時期だね、と言って出した炬燵の上でアイスを食べながら、柴崎は天板に力なくぺたりと頬をつけている郁にため息混じりの言葉を投げる。
「ん??」
「だってさ、結婚ありきで付き合いだしたわけじゃない。それを一年以上後の昇任試験まで引き延ばした挙げ句にお預けまで食らってんだもん、健全な三十路にとっちゃ発狂寸前でしょうよ」
「そんなに野獣じゃないよ」
「経験ないあんたに何がわかるの」
「う・・・」
それを言われると言い返せない。堂上が初めての恋人で、その彼氏が見せる仕草がおつき合いの全てで。
郁に触れる手はあくまで優しい。キスは手加減してくれたり、息が切れるほど激しい時も。時たま強引に抱きすくめられるが、郁がおびえを見せるとそれ以上はしてこない。実に紳士的な恋人だ。
勿論男女のあれこれはもっと複雑なのだろう事は、この年まで生きてくれば情報として知っている。だけれど、今まで何もなくここまで来れたのだから、堂上とはこういう付き合い方でよかったのだと思っていたのに。
「・・・やっぱり、篤さんもそういう事したいのかなぁ?」
そんな素振りを微塵も見せない恋人。時折見せる理由のつかない苦しそうな表情がその予兆だとすれば、それは一度や二度ではない。
「当たり前じゃない。経験ありそうな大人の男がこんなに据え膳食らい続けたら、いつか暴走するわよあの人」
もどかしそうに背中を巡る掌の意味が、今ならわかった。



だからと言って、はいそうですかと簡単に関係を変えられるかと言えば、事はそう易々とは進まないものだ。それが意地っぱりな二人であれば尚更。
その様子は特殊部隊の面々が心配になるほどで、つつかれるのは一方的に堂上の方だ。
まさか結婚準備を早めたら拒否られましたとも言えず、ただただだんまりを決め込む。みすみす話のネタを提供する気にもなれないし、これまでの二人のいきさつを知り尽くしている面々にとっては、笑いのネタどころか哀れみの目で見られそうで逆に居たたまれない。
は?っと深いため息をついて、堂上は組んだ手に額を乗せてうなだれた。

そんな時だ。良化隊の襲撃を告げる館内放送が高々と響き渡ったのは。

この時の堂上班は業務部に貸し出された郁と手塚が児童室で読み聞かせを、堂上・小牧がデスクワークをして班は分断されていた。
すぐさま無線で堂上の指示が飛ぶも、館内にいる二人には戦闘参加よりもまず利用者の保護が最優先事項となる。幸いにも利用者数の少ない閉館間近、あらかた誘導を済ませると残りを業務部に任せて装備を調えに動いた時だ。
「子どもが見あたらないの!」
半狂乱の形相で郁につかみかかってきたのは、図書館をよく利用する顔見知りの母親。郁の脳裏にすぐさま子どもの顔が浮かんだ。
「どの辺りではぐれました!?」
「さっきトイレに行ったきり、そのまま館内放送が入って」
おおかた突然の放送にパニックになったのだろう。
「ここは任せて、お母さんは先に避難して下さい。手塚!」
「ああ、堂上二正には俺から狙撃班に向かう途中に経過報告で伝えておく」
「頼んだ!」
言うが早いか、郁の足はすでに動き出していた。
放送を聞いたのはトイレの中か外か、確かまだ五歳の男の子。最近一人でトイレに行けるようになったのだと、嬉しそうに話していた母親。やんちゃ盛りのあの子は、実は臆病なのだと知っている。
まずは最寄りのトイレ、――いない。ならば次は・・・・・・。

――俺、秘密基地作ったんだぜ!

得意満面に内緒で教えてくれたその場所は。
「いた!」
息を切らせて見つけだしたそこは、館庭に近い施錠していない部屋の物陰。少し余裕のある空間は、子どもが入り込むのに十分なスペースがあった。
「お姉ちゃん!!」
がむしゃらにしがみついてきた子どもをしっかりと抱き込み、落ち着かせるように背中を叩く。
「もう大丈夫。あたしと一緒に行こう」
外の銃声は近い。いくら防弾ガラスを張り巡らせ対策をとっているとは言え、ここに何時間も籠もるのは子どもにとって酷く消体力を耗するだろう。ただでさえ精神的にも不安定なのに。
郁は横抱きに子どもを抱えると、一気に防護室へと駆け抜けようと立ち上がり、

ドンッ!

鈍い衝撃音に思わず足が止まった。
一瞬で嫌な汗が吹き出る。さすがに震える事はないが、戦場で聞くのと非戦場で聞くのとでは銃弾が纏う音の重さが違う。
そっと横目で横のガラスを確認して、くもの巣状のヒビに生唾を飲み込んだ。防弾ガラスでなければきっと被弾していた間合いだ。
続けて二発三発。連弾されればいくら防弾ガラスと言えど保たない。
このガラス一枚隔てた向こう側では本を巡って生命のやりとりが為されている現実に、離れてみてようやく実感が湧いた。
――そして今、きっと堂上も前線で戦っている。
不意にぎゅうっと、首に回された腕に力が入った。不安そうな子どもの瞳に出会うと、郁も応えるように強く抱きしめた。










二時間が経過してようやく状況終了の放送が入り、そのまま防護室で待機していた郁は一目散に飛び出していった。
インカムで手塚に場所を確認し、逸る気持ちを足の力に変えて走る。
離れて初めて感じる、失うかもしれない恐怖。今まではどこまでも一緒にいたから、その背中越しに存在を確認できた。手の届く所に、大事な温もりがあったのに。
息が、胸が苦しいのはむちゃくちゃに走っているからだけではない。痛い。早く、早くあの人の無事を確認しなくては――!
飛び出した正門前でようやく逢いたかった背中を見つけた。反射で思いっきり地面を蹴る。
「ッぅお!?」
勢いよく飛びついたものだから、堂上を巻き込んだまま一緒に倒れ込んだ。倒れて、必死に首筋にしがみついて、温もりを確認して。
「ど・・・ぁ、篤さん!!」
仕事中には絶対口にしない名前を力一杯叫ぶと、わけがわからない堂上は何事かと目を白黒させるばかりで。それでもしっかりと郁を抱きしめる。髪を梳く指が、グローブ越しでも胸が震えるほど嬉しかった。
「どうした」
堂上の声。郁がラインを割ったものだから、課業中よりもやや甘い。いつも郁を救ってくれる声だ。
ようやく落ち着くと、少し身体を離してお互い顔を合わせ、土埃で汚れた頬を指で拭ってやった。
「どうした」
もう一度促され、気持ちと一緒に溢れそうになっている涙を止めぬまま、郁はあのね、と話し始める。
「あたし、三正に拘ってた。拘りすぎて意固地になって、篤さんの話聞けなくなってた」
「・・・知ってる」
「三正になれたら、あの時の篤さんに追いつけると思って、そうしたらやっと肩を並べられる気がして」
「うん」
静かに話を聞いてくれる堂上の表情に、熱い想いが湧きあがる。
この人は郁が三正に執着する理由も幼さも、全部ひっくるめてここまで見守ってきてくれたのだとようやく理解できたから。こんなにも愛されているのに気づかずに堂上の気持ちを突っぱねてきて、自分はなんて大馬鹿者なのだろうと。
そしてわかってなかった。あまりにそばに居すぎて、それが当たり前になりすぎて。
「後悔するところだった」
「何が」
「あつ・・・篤さんが、死んじゃったらッ」
「勝手に殺すな」
「だってぇ?」
ぎゅうっとしがみついた首筋は、今も確かな温もりと鼓動で生命を主張している。大事な大事な、今や堂上だけのものではない息吹。
「だから結婚しよう、今すぐ」
「今かよッ」
思わず突っ込む堂上に生真面目な顔で頷く。
「だって今のままじゃ、あたしはただの恋人なの。それだけ。何かあっても、一番に篤さんの事が知れないの」
「・・・・・・」
何を言わんとしているのか。
万が一堂上にもしもの事が起きた場合、真っ先に連絡が行くのは国分寺の両親であって郁ではない。その逆もまた然り。
起きて欲しくないもしもが起きた時の為に、だから。



「あしたの昇任人事まで待てない。愛してるから、あたしを堂上篤の奥さんにして下さい」
「郁・・・・・・・」



驚いたように見開いた目に映る、真剣な顔。黒い瞳に反射した自分を発見して、少し恥ずかしくなって照れ笑いになった。
「あの、いえね、無理にとは言わないんで、はい・・・」
「急に弱気になってんな、阿呆」
「勢いで言っちゃったかな?って。うん、もうちょっとよく考えた方がいいですよ、相手があたしだし、ええ」
「バカ」
「バカってなんですか。バカって言った方がバカなんだからね」
「ああ、二人ともバカだ」
「なッ・・・」
脊髄反射で反論しようとして、しかし思わず言葉を飲んだ。
怒ったような、困ったような、嬉しいような、泣きだしそうな百面相。でも一番感じるのは、


「俺の方がお前の事好きだって、そろそろわかれバカ」
「・・・ッ」


普段は滅多な事で口にしない気持ちをこんな時に限って出すだなんて、なんて反則。言ってとねだっても、くれた事などなかったのに。
「あ、あたしの方が大好きだもんッ」
「俺に勝てると思うな」
「絶対勝つし!てか圧勝だし!」
「じゃあ結婚するからな」
「望むところです!!」
男前に男前で返して、見つめあって。そのまま顔を近づけようとした所で、視界の端に痙攣しながら立ち上がれないもう一人の上官を見つけて――顔から上気が吹き出た。
そうだ、無我夢中で走ってきたけれどここは正門前で、当然特殊部隊及び防衛部の面々が後片づけをしている現場だったわけで。
瞬時に状況を把握した途端、一気に頭が沸騰して次に急激に青くなった。こんな大勢の前で堂上に抱きついて、挙げ句の果てに女がプロポーズかますとかありえない!
「盛大な虫よけになってよかったんじゃないか?」
「心の声読まないで?!」
「諦めろ。ここにいる全員がプロポーズ受諾の証人だ」
澄ました顔がいっそ恨めしい。

ああそうかい、そんなに言うなら腹筋で割れた腹でもくくってやろう。ここで引いては女が廃る!






紆余曲折の果てのそんな決意も、ようやく翌日の昇任人事で成就する事を郁はまだ知らない・・・。




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