「三正に任命する」
「は、拝命します!」
 堂上との公開仲直り並びにプロポーズの翌日、案の定三正に任命された郁は予想していたとは言え、若干戸惑いながらも昇任を拝命した。
 ――嬉しい。嬉しくないわけがない。でも同時に、自分に正の値があるのか自信が沸かなかった。
 だって、あの時の堂上と同じ階級になったのだ。郁の人生を運命づけたあの時の、憧れて夢に見て追いつきたくて、そして受け入れてくれた堂上がかつて通った道に自らも立ったのだ。ここがゴールではなく、ここがスタートになる。
「笠原」
「は、はい!何でしょう、堂上教官ッ」
「昇任について何点か記入する書類があるから持ってけ」
 傍目には顔色ひとつ変えていないように見える婚約者は、けれども郁にだけわかる程度に表情を緩めている。一緒に喜びを共有してくれる、その相手がいる幸福に郁の頬が柔らかく色づいた。
 うきうきとして書類をもらい自席で検分する。苦手な事務仕事も、こういう事なら鼻歌交じりでやれそうだ。――と、その中に明らかに関係なさそうなえんじ色の紙一枚。
「今度は書き損じないように頼むぞ」
「・・・・・・!」
 それは昨夜郁が記入欄を間違えて提出できなかった婚姻届け(予備も含めて二枚)だった――。











「はい、確かに受理しました。おめでとうございます」
 昼休みを利用してやってきた最寄りの役所にて婚姻届けは恙無く受理され、めでたく晴れて夫婦となった二人だが、別段何かが変わったというわけでもないなというのが郁の率直な感想だった。
「早速官舎の手続きをして、次の公休日には茨城に行って結婚の報告、そんで結婚指輪を買いに行くぞ。俺の実家はいつでもいいだろ」
「ちょ、ちょっと展開が早いかな〜・・・なんて」
「早いか、馬鹿。官舎押さるんなら早めがいいに決まってるだろうが」
 早口にまくしたてる堂上は、なんだか・・・なんだか余裕がない。そんなに早く官舎に入ったって、せわしないだけだろうに。
「ゆっくりでいいですよ」
「待てない」
 途端にぶつかってきた強い眼差しに金縛りにあったみたいになる。強くて深い、何者にも染まらない黒曜石の色に息を飲んだ。
「俺は、早く郁と一緒に暮らしたい」
「・・・ッ」
 ぎゅうっと締め付けられ、胸の奥がどくりと跳ねた。
 何度気持ちをぶつけられても、何度求められても、慣れる事などあり得ない。どこまでもこの胸を揺さぶるのは堂上ひとり。
「・・・うん。あたしも、篤さんと一緒に暮らしたい」
 するりと零れた言葉は真実。家事や食事をどうしようとか、そんな悩みは些細な事。
 身体と心を寄せあえるこの人と、これからは夫婦として一緒に暮らしていきたい。



 そんな郁と堂上の思惑をあざ笑うかのように、図書隊の数少ない官舎は昇任移動をもってしても空きは出ず、おかげで春の人事異動まで特例でもってお互い独身寮に住まう事になってしまった。近場に部屋を借りる事も検討したが、やはり夜中の検閲があった場合基地内に身体があった方が都合がいいと、やむなく諦めた。
「その分、ゆっくり式の相談が出来るじゃないですか」
 実際浮いた時間で色々と話し合う時間が作れたのだから、これは怪我の巧妙と言えよう。
 しかし堂上は終始むっつりとしながら、言葉少なに事を進めている。機嫌が悪いのはわかるが、それにしても最近は手さえ繋いでくれない。そしてキスも――・・・。
 元々口下手なのだが、それにしてもろくに視線も合わせてくれないなんて。いつもなら抱きしめられる間合いに無骨な手は空をさまよい、挙げ句下ろされる。
 物言いたげな漆黒の視線は常にも増して深く、だけれども何も言ってはくれない。

 ――不安になる。

 入籍をして戸籍上の夫婦にはなった。だが住まいは相変わらず独身寮で、年末年始をお互いの家に行ってもどこかよそよそしい。冬の寒さの為か夜の呼び出しもめっきり減ったし、それどころかたまの公休日に出かけても、二人の間には目に見えない壁があるかのように感じられた。
 抱きしめて欲しい、あの手の温もりが欲しい。でも女の方からそんな事を言うのははばかれて、結局郁も口をつぐんでしまう。


 ――ねぇ、あたし達最近いつキスしたっけ?最後に手を繋いだのってどのくらい前?
 ――籍を入れてそれで満足とか、嘘。こんなにもあたしは篤さんに抱きしめられたい、触れて欲しい。足りないよ。


 ――それとも篤さんは、もうあたしに興味なくなっちゃった?





「こうやってあんたに手作りお菓子とか料理とかを寮で教えてあげるの、あともう少しなのね〜」
 バレンタイン用のチョコを調理室で作りながら、しみじみと呟く柴崎に郁は小首を傾げた。そんな郁を小さく小突く。
「だってアンタ、春になったら官舎に入るでしょ?堂上婦人」
「・・・・・・あぁ」
 実感がわかない。名ばかりの妻の位置。
 沈んだ表情のまま口を噤む郁に、柴崎は軽く息を吐いた。
「なんて顔してんの」
 柴崎には抱く不安を相談していない。でも聡い親友はきっと何かを嗅ぎとっているのだろう。
「何作るか決めあぐねてるなら、この柴崎さんが直々にアンタでも作れそうな簡単なの選んであげるわよ?」
「あたしでもって、それ失礼じゃん」
「まぁ旦那が一番喜ぶのは首にリボンつけて、アタシをあげる♪ってやつなんでしょうげど」
「――」
「堂上教官は、笠原が可愛くて仕方ないんだから」
 わざわざ聞いてこない気遣いが優しくて、逆に辛い。郁のわだかまっている気持ちを、しかし気にするなと背中を押してくれる。
 たぶん周りから見れば些細な事なのだろう。
 でも。でも、恋愛初心者のまま結婚してしまった郁には、こんがらがってしまった感情を解す術を知らなかった。
 首にリボンをかける事で和解出来るならいくらでもしよう。しかしそれを突っぱねられたら、もう恐らく・・・・・・――。











「何難しい顔してんの」
「別に生まれつきだ、ほっとけ」
「可愛い嫁さんもらった割には浮かない顔だよね。どうせアンタの事だから、まためんどくさい事でややこしくなってんでしょ」
「・・・・・・」
 全てを見透かしたような小牧が勝手に冷蔵庫からビールの缶を取り出して、それを一気に煽った。
 じっと暗い視線を向けていた堂上は、ため息とともに重そうに瞼を閉じる。
 めんどくさい事。確かにそうだ、堂上が勝手に決めて勝手にこだわっている事で己を苦しめている。付き合わされる郁だってたまったもんじゃないだろう。だがこれはけじめで、あともう少しすれば・・・・・・――。
「笠原さんの事、大事にしてる?」
 不意に問いかけられて、言葉に詰まる。即答できない不甲斐なさに舌打ちした。
「わざわざ聞くな」
「気づかないふり?それともマジでわかんないの?彼女、堂上のいない所で笑わないんだよ」
「・・・・・・は?」
 堂上は目を見開いた。
 二人でいる時はいつも違わず微笑む郁。楽しそうに、弾むように。――そして時折遠くを切なそうに見ている。
「可愛い奥さんなんだからさ、一緒に暮らしてなくてもちゃんと見てやんな。彼女、結構我慢強いから。我慢し過ぎて自分をぎりぎりまで追い込んじゃうでしょ」
 でも今は、頼りになる旦那が側にいるんだろ?

 ――気づかなかった。

 自分の内心の決意に気を取られて、彼女の些細な変化を見逃すなんて。なぜ言わない。夫婦なのに。
 ああ、だが郁という女はそういう人間だった。いつもあの熱と勢いに押されてきたけれど、弱音を吐いた所など見た事がない。恐らく吐き方を知らなくて、吐露するくらいなら飲み込む女なのだろう。
 わざわざ小牧が忠告する程きっと郁の状態は深刻で、それを救うのは堂上しかいない。いや、まだその資格があるかどうかもわからないが。
「メール着てるよ」
 着信を告げる携帯電話を握る。相手は郁で、外に出てこれるかとお伺いを立ててきた。
 何か決定的な事を言われてしまいそうで心臓が痛い。けれども、ここで会いに行かなくてなんの為の配偶者か。勇気を出さずしてこれから先、郁を支えていけるのか。
「ちょっと出てくる」
「外泊しちゃうなら鍵は預かっとくよ?」
「――阿呆」
 吐き捨てながら部屋の鍵を投げつけると、着古したフライトジャケットをひっかけて足早に共用ロビーへと降りた。
 郁はすでにいた。椅子に座る事もせずに、ただぼんやりと突っ立ったまま柱にもたれている。はっとする程物憂げな表情は、年相応の悩ましげな女の顔だった。胸の奥が摘まれた気がした。
「待たせたな」
「あ、すいません呼び出しちゃって。ちょっとだけ時間、大丈夫ですか?」
「構わん。ほら、行くぞ」
 ぐっと掴んだ手首の細さに、身体の内側が疼いた。久しぶりに触れた郁は、記憶の中よりも一層細くて頼りない感触がして、でも暖かくて――。
 まだここに居てくれた。まだここに居てくれるか。その傍らに立つ事を許してくれるのか。
 祈るような気持ちで着いた官舎裏。二人きりになる場所のない堂上と郁の、唯一許される場所。
「・・・・・・久しぶりですね、ここに来るの」
「そうだったな・・・・・・。丁度よかった、俺も郁に聞きたい事あったんだ」
「――なんですか?」
「郁から先に言えよ。お前が先に呼び出した」
 すると困ったように眉じりを下げて、それからぎこちなくはにかむと、堂上に捕まれていない方の手に握っていた可愛らしい紙袋を差し出した。
「これ、あの・・・ほら、バレンタインじゃないですか」
「――ああ」
 すっかり失念していた。それどころじゃない心情だったから。
「だからこれ、下手っぴなんですけど、味は柴崎の保証付きです」
「俺よりも先に柴崎に食わせたのか」
「えと、友チョコです・・・」
 はい、とそれを手渡して、それとね、呟き郁はしばし口ごもった。
 ここに来るまで、郁の幸せそうに微笑んだ表情を見ていない。その事が堂上の胸を焼き焦がす。
 ようやく俯いていた顔を上げた。真剣な真っ直ぐさの中に、僅かな脆さを見せながら口を真一門に結んで。
 その決意みなぎる表情に、息を飲む。



「――離婚、して下さい」



「・・・・・・は」



 呼吸が止まった。





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