バサリ、と軽い音を立てて紙袋が足元に落ちた。
 何を、今なんて。
 理解出来ない言葉が上滑りして堂上の内側を悪戯に傷つけていく。心臓が早鐘を打ち、皮膚の中から突き破らんばかりに激しく暴れて苦しい。呼吸が出来ない。極浅い息継ぎしか出来ない身体が酸素を求めて喘いでいる。郁を求めて喘いでいる。
「なんでッ」
「だって!」
 掴んでいた手に力が籠もらなくて、簡単に振り解かれた。逃れた温もりの代わりに二月の冷たい冷気が容赦なく掌を刺す。これが現実なのだと堂上に突きつける。
「あた、あたしの事、もう、好きじゃない癖に!だったらいっそ離婚してくれた方がッ」
「待て!どうしてそうなるんだ!?」
「全然触ってくれないじゃん!キスしてくれないし、手も握ってくれない。そんな夫婦って、ある?」
 悲しそうな切なそうな。郁がようやく見せた弱さは、すでに絶望にも近い。どうしてそうなる前に、という焦りと、ここまで追いつめてしまった自分の不甲斐なさに苛立ちと怒りが沸いてくる。
 なぜこんなになるまで気づけなかったのか。郁の笑顔の裏を見透かせずに、己の中の葛藤にしか向き合えなかった。郁を想うあまりの独りよがりな拘りが、こんなにも彼女を悩ませ追いつめていただなんて。
「俺が悪かった」
 謝罪だけでは足りない。土下座などしても郁の不安は払拭できないだろう。
「全部俺が悪い。だから・・・・・・郁が離婚したいってなら、俺は」
 しかしたぶん離婚してしまったらダメになるのは自分の方だろう。

 

 ――最初に追ってきたのは郁の方。

 本屋で助けた堂上の顔を五年も忘れず大切に胸に抱いていた郁。面接官の堂上に驚きと感謝を告げ、声高に憧れ続けた堂上の振るまいを脚色混じりに披露したあの日、どれだけ玄田を始め諸先輩方からからかわれたか今でも覚えている。あのくそ恥ずかしい公開告白。
 堂上の教育隊に配属されて、図書隊の現実を叩き込む為にも他の隊員達よりも辛く当たった事も数知れず。それでも泣き言ひとつ言わないで、犬みたいな人懐こさで振り解いても突き離してもついてきた郁。
 身体能力の高さへの評価と、女性の視座をお題目に抜擢された特殊部隊への配属に目を輝かせ、毎日のようにとびきりの笑顔を見せてくれた郁。男臭い部隊に花が咲いたような、清々しさと可憐さを運んできた彼女。
 ただ必死に、全力で職務をこなしていく姿に、いつしか間違った思いで入隊してきたと感じた危うさは消えていった。


 ――堂上教官。


 嬉しそうにそう呼ぶ、その表情にいつしか温かい物が胸を満たし。


 ――堂上教官。


 頬を染めながら素直に好意を伝えてくる郁に、気持ちは浮ついた。


 ――篤さん。


 笑いたいような泣きたいような。
 婚姻を結んだ日の郁は、溢れでる自分の感情を持て余しながら幸せそうに笑った。心底嬉しそうに、馬鹿みたいに可愛く泣きながら笑った。
 今目の前にいるのは、あの日とは真逆の感情に苛まされている郁。
 不安と、猜疑と、恐怖と、全てがごちゃ混ぜになって郁の健やかさを覆い被してしまった。そしてそれをさせてしまったのは紛れもない、堂上だ。
「俺は」
「したくないッ!」
 堂上の言葉を遮るように、悲鳴にも似た声を上げた郁はそのまま堂上に抱きついてきた。

 どしん。

 勢いのついたその身体を抱き止められない程柔ではない。難なく突進してきた細身を受け止めると、恐る恐る背中に手を回して――泣きそうになった。
 久しぶりに触れた身体が一層細くなったからではない。
 ただ、嬉しくて。まだ郁に触れる権利があった事に感謝して、心の震えが止まない。
 壊れ物に触れるような腕が、次には確かめるように背中を巡り、離すものかと次第に力を込めた。
 なぜ今まで突っぱねてきたのか。触れる事を我慢してきた事の無意味さを知る。こんなにも、こんなにも求めて止まない愛しい女がいるのに。愛しすぎて、胸が切なくいなないてどうしていいかわからない程。
 乾いた地面に潤いが戻るように、ようやく呼吸が戻ってくると、抱きしめた郁の肩口から胸一杯に彼女の香りを吸い込む。花のような甘く芳しい匂い。堪らなくなってくる、堂上の心を乱す馥郁。
 郁の顔が動く気配を察して顔を上げれば、ひたと見つめられていた。涙に濡れた鳶色に、己の顔が反射している。近い。この近さを許されている幸福。
 月明かりにも艶々と照る唇の柔らかさを知りたくて、だが触れていいのか迷う。まだ許しは解かれていない。そしてもし触れてもいいのなら、たぶん箍はあっさり外れる。
 どうしたものか迷う堂上に、涙をこぼしながら郁が無声音で懇願した。


 ――きらいじゃなかったら、きすして。


 返事を返す間もなく、堂上は荒々しく郁の呼吸を奪った。
 瑞々しい唇の感触を何度も何度も執拗なまでに確かめて熱を移して。あ、と郁が喘いだ隙にもっと奥まで入り込んだ。追いすがり吸いつき絡まり、郁の全てを根こそぎ奪うかのような激しい口づけに、弱々しい抗議の拳がひとつ堂上の胸を打ったが、それすらも愛おしい。
 湿った水音と堪えきれずに時折漏れる郁の声に煽られながらようやく名残惜しげに唇を離すと、すっかり力の抜けた郁の身体を抱きしめて支えた。
「好きだ。別れるとか心臓に悪い事言うな」
「・・・・・・だって」
「触れたら、止まらなくなる」
 口づけだけで蕩けた郁の表情に、すでに感情を隠す事は放棄した。代わりに雄弁な掌が郁の頬を撫で首筋を滑り鎖骨を舐める。その度に身震いする素直な郁を、もっと乱れさせたい。
「官舎に入るまで我慢するって決めてたのに、やっぱダメだ」
「我慢、って・・・・・・」
「郁を抱く、我慢」
「ッ」
 耳朶を甘噛みしながら告げた所で説得力など皆無だ。内心苦笑しながら、しかし不埒な動きは止められない。
「籍入れた途端とか、ちょっとないだろ」
 頬を染めながら困ったように眉じりを下げる様子に苦笑した。複雑な男心を今更分かれとは言わないが、堂上には堂上の言い分もあるのをわかって欲しい。
 だがその決意が裏目に出て郁を不安にさせていたのだから、本末転倒もいいところだ。
「あの・・・・・・・その、」
 言い淀みながらおずおずと細い腕が堂上の首に回された。顔を隠すように肩に額を押しつけながら、きゅっと小さく力をこめてくる。遠慮がちな仕草が焦れったくもあり、初心な様子が愛しくて仕方ない。
「我慢、しないで下さい・・・・・・」
 蚊の鳴くような小さな声が、凝り固まった胸の内を潤す。じわりと広がる愛しさに邪な気持ちがないとは言い切れないが、今、隙間なく郁の全てを愛したい。
「出来るか、馬鹿」
 しゃがみながら軽い身体を膝の上で横抱きにすると、ポケットから取り出した携帯電話で検索を開始する。
「何、してるんですか?」
 未だ激しい口づけの余韻に色のある吐息を漏らす郁を抱きしめながら、ん、と短く返事をして画面を見せる。すでに宿泊予約完了の画面。
「今から外泊するから、届け出すぞ」
「え?え?え?」
「我慢しなくていんだろ?」
 郁が立てるか確認しながらわざと下からのぞき込むその表情は、少女のようでありながらしっかりと女の顔をしていて内心舌打ちする。こんな色づいた表情の郁を、一度寮に戻って公衆の面前に晒さなくてはならない事に小さく悪態をついた。そんな顔をさせたのは誰だとかはこの際横に置いておく。
「今タクシー呼ぶ」
「ちょ、待って篤さん!着替えとか外泊届けとか、っていうかジャージだし!」
「あとで買ってやるから気にすんな。それ言ったら俺だってジャージだ」
「化粧品とか、色々ッ、その、」
「服も全部買ってやる」
「そんな、悪いモン・・・・・・」
「あのなぁ」
 なおも言い募ろうとする郁を堂上が強引に遮ったものだから、細い肩が小さく跳ねた。
「遠慮とかするな。夫婦なんだから」
 そのひと事に尽きる。
 何を拘って線を引いていたのか。つまりはまだまだ他人行儀だっただけで、遠慮のなくなった堂上は誰憚る事なく郁を心の底から愛でてもいいのだ。
 追いかけられていたと思ったのに、いつの間にか追いかけていたのは堂上の方。あの時の女子高生の顔を後生大事に忘れられずにいたのがその証拠。
 ただ面と向かいあうのが怖かった。
 王子様にまで美化されたあの日の堂上と今の堂上を比べられ、あまつさえ昔の方がよかったなどと言われたら。あの日生まれた感情はただの憧れで、異性としては求められていないのだとしたら。ただの上官が迂闊に部下に手出しなどしてしまったら。
 だから見ない振りをして、感情に蓋をした。郁を失望させない為ではない、自分を守る為に。
 なのに――。











 カーテンの隙間から漏れる強い陽光に、すでに太陽が昇ってからしばらく経ったのだとわかった。
 微睡みの中からようやく意識を浮上させ、ひとつ欠伸をする。眠たい。途方もなく眠たい。そしてイヤに下半身がダルいし、お腹の奥の方が生理でもないのにズキズキと鈍い痛みを訴えている。
 様々な違和感を抱えながら何の気なしに寝返りを打って、ようやく肌がいつもと違う感触に包まれている事に気づいた。裸だ、ちょっと待て!
あまりの驚きに腹部の痛みもそっちのけで上半身を起こすと、胸元やら脇腹やら、至る所に身に覚えのない鬱血痕・・・・・・いや、思い返せば身に覚えはありまくりだ。だって昨日は、堂上と、その・・・・・・。
「ようやく起きたのか?」
 斜め下から掛けられた声に文字通り飛び跳ねると、郁は悲鳴を上げながら必死に手元にあった枕で声の主を殴打した。しかし相手はダメージを受けるどころかどこか機嫌のよさそうな声音で笑うと、難なく細い身体を抱き寄せて郁をかいなの住人にしてしまう。
「おはよう、郁」
「ぅ、あ・・・・・・・おはよ、ございます・・・・・・」
 指の先まで真っ赤に染まった郁の耳朶を戯れに弄りながら、堂上は抱き込んだ妻を甘い表情で見下ろした。
 昨夜と全然違う。焦燥に染まった荒々しい瞳、だが触れる掌はあくまで優しく巧みに郁を翻弄して蕩かせた。激しさと優しさを併せ持った昨夜のこの人の、今日はなんと穏やかな事か。
「調子は?」
 もちろん本調子ではない。それをわざと聞いてくる夫に、郁は小さくパンチを食らわせる。えいッ。
 初めての行為に無駄に力の入った身体は節々が痛いし、何度も穿たれた奥はこじ開けられた痛みに鈍い悲鳴を上げている。腰だってこれ以上ない程重くて、立つものやっとだろう。

 ――でも。

「幸せ、だよ?」
 身体はくたびれて仕方ないけど、ようやく触れてもらえた歓びは郁を緩やかに満たしている。あんなに不安で泣きそうだったのがウソのようだ。
 照れ隠しに投げ出されている武骨な掌をにぎにぎと弄れば、突然その指に?まってしまった。
「・・・・・・だから、官舎に入ってからゆっくりとシたかったんだよ・・・・・・」
「え?え?いや、全然意味わかんないし」
「可愛い事言う嫁に煽られたら、時間気にするホテルじゃ足りないっつってんだ!!」
「言いがかり〜!!」
「煩い!全部お前が悪い!!」
 力いっぱい抱きしめられた肌と肌の感触が気持ちイイ。そんな事を言ったらまた堂上に怒られそうだけど。
「ね、バレンタインのチョコ、手作りよりもあたしにリボンかけた方が喜んだ?」
「当たり前だろ!!」
 無理矢理減らず口を塞がれ何度も何度も啄まれて、それから視線を合わせて笑い合って。




 ようやく結婚した喜びを感じたと思ったのは、お互い内緒の話――。







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