抗争後の後片づけを終えた後も小牧からの指導が入り、装備を解いて独身寮に帰りついたのは夜半の事。とうに入浴時間は過ぎていたが、庁舎の更衣室でシャワーを浴びてきたので問題はなかった。
それよりも。
「おかえり〜」
「……柴崎。起きてたの?」
当然明日も仕事なのに。だがすっぴんでも美人のルームメイトは、まるで郁がコンビニから帰ってきたかのような軽さで部屋に招き入れてくれた。
驚いた表情の郁にいささか憮然とした柴崎は、唇を尖らせると横を向く。
「当たり前でしょ。笠原が命がけで戦ってんのに、あたしだけ安穏と寝てられるほど図太くないのよ」
そう宣う彼女なりのわざとらしいポーズに、思わず少し笑ってしまった。そうして自分が笑えている事を自覚した途端、今度は止めどもなく涙がこぼれて止まらなくなってきたのだ。
柴崎は少し驚いたように目を見張ったが、何も言わずに暖かい紅茶を淹れる。梅雨に突入する季節にも関わらずホットかい、などと胸の内でひとりごちりつつも、郁は有り難く紅茶に口を付けた。セイロンのほのかな甘みと優しさが身体に染みた。それを勧めてくれた柴崎の心が嬉しい。
柴崎からは何も聞いてこない。聞いて欲しい事はたくさんあるのに、いざ口を開こうとしても出てくるのはため息ばかり。だから彼女がくれるこの沈黙は、郁にとっても必要な時間なのだろう。


しばらくお互い無言が続いたが、別段気まずい時間ではなかったのが不思議なくらい――――。


「…………あたし、さぁ」
「うん?」
口から出た呟きを、柴崎は雑誌を読みながら聞き流す。独り言としてしゃべっていいという事か、だが構えて話を聴かれるよりもずっと気が楽だった。
「役立たずの自分に、焦っちゃったみたい」
「うん」
「手塚がね、狙撃で役に立ってるの見て羨ましくて…………でもね、ぺーぺーのあたしができる事って、たかが限られてるんだよね」
「……」
「あたし、無茶して単独行動して。たぶん、手塚に助けてもらったの。でね、ありがとって言ったら、怒られて」
マグカップの中をのぞき込む。琥珀の表面に映し出された自分は、一層不安気に見えた。
なぜ手塚は怒ったのだろう。助けられたから礼を言うのは同然だと思うのに。
「あのさ〜、笠原……」
呼ばれて目線だけで応える。柴崎は苦笑したままだ。
「アンタさ、いくら手塚が優秀だからって、何でも出来ると思ったら大間違いよ」
「?」
「アイツもアンタと同じ新入隊員だって事。初めて実戦任された新人が、緊張も何もないとないと思う?」
「あ…………」
狙撃手は良化隊と言えど相手を傷つけてはならないのが大前提。いくら手塚の腕が立つと言っても、気持ちはいっぱいいっぱいだったはずだ。威嚇にならない威嚇射撃など意味がない。ぎりぎりを狙わなければならないのだ、例え今日が初めての狙撃だとしても。
あの時の援護射撃が手塚のものとは限らないけれど、どちらにせよ敵味方が入り乱れる場所に弾を打ち込まなければならない心情を、郁はもっと汲むべきだった。
「あたし……」
なんてバカなことをしたんだろう。
班長である小牧の言葉を結果的に無視してしまった事に対しても、心情を汲むどころが無神経な言葉で張りつめた緊張を切ってしまった手塚に対しても。そして寸での所で窮地を救ってくれた堂上にも。隊の仲間、全員に。
「自主的にお使い行ってきたい?」
聡い柴崎がそれとなく助け船を出してくれた。
居心地のいいこの部屋が、今の郁には少しだけ辛かった。









独身寮の共有ロビーに降りると、深夜と言うこともあっていつもは誰かかしらがわいわい騒いでいる場所もシンと静まり返っていた。非常灯のほのかな明かりが、今の郁には丁度いいくらいだ。
なるべく音を立てないようにゆっくりと座ったつもりなのに、自動販売機前の長椅子がぎしりと悲鳴を上げる。ミシミシ。なんでもない風なのに、存外年数だけは経っているらしい。
――――経っているはずだ。
図書隊設立から早十五年。遠くもなく近くもないその年月に、どれだけの出来事があっただろうか。その歴史は図書隊員が図書館員の他に置かれ、武器を手に取った歴史である。
今日のような抗争が何度も何十回も、数え切れない程起きた。そしてこれからも。
その時郁は、果たしてきちんと与えられた役割を全うできるのだろうか。
突きつけられた銃口の重さが、ヘルメット越しだったのにも関わらず生々しく後頭部に残る。この先もあんな場面が幾度となくやってくるだろう。その時――――。
「…………ッ」
沸き上がりそうになる恐怖から身を守るように両腕で身体を抱いた時、玄関の方から物音が聞こえた。
こんな時間に一体?
眉を潜めながら気配を伺うと、抑えているのだろうがそれでもゴトゴトと音を立てながらドアが開く――――。
そこから顔を覗かせたのは、今は出来れば顔を合わせたくない堂上だった。
隠れたい。しかし共有ロビーに置いて隠れる場所など植木の陰ぐらいなもので、それでは到底郁の身体を隠しきれるものではなかった。仕方なく出来るだけ目立たないように身体を縮こませて気配を殺した。
一方堂上は少し足元をフラつかせながら、ゆっくりと自動販売機へと歩いてくる。酒を飲んできたようで、まだ二メートル近く離れているのに郁の所にまでアルコールの匂いがした。臭い。おっさん臭い。相当飲んでいる。早く部屋に帰れ。
だが郁の願いも空しく、堂上はポケットから財布を出すとミネラルウォーターを買ってどかりと長椅子に座り込んでしまった。蓋を開けて一気に飲み干し、仰いだそのまま後ろに倒れ込んで――――気配を殺して丸くなっていた郁にぶつかった。
「…………ッ!」
「ぁだッ」
ゴッ。ロビーに響いた鈍い音で衝撃の程は知れよう。この石頭!
「おまッ、なんでンなとこに丸まってる!」
「そっちこそ、なんでこんな時間までいいおっさんがフラフラしてんですかッ」
「おっさんは余計だ」
「いたッ」
即座に降りおろされた拳骨の音がまた響く。
「だいたいお前、今日は俺に頭が上がんないんじゃねーのか」
「う……」
指摘されれば頭など上げられない。上げられない頭のまま、郁は立ち上がって深々と頭を下げた。
「本日は自分の失敗により部隊をかき乱し、本当に申し訳ありませんでした!」
「…………もういいよ」
「え」
「だから、…………もういいから座れ。ここだ」
一応の謝罪は済んだからここから逃げたかったが、堂上はそれを許してくれない。しかも自動販売機で郁の分の飲み物まで買ってくれた。ミルクティ。郁が乳臭そうだから、が選択基準らしい。酔ってる。酔っぱらい。
「お前さ笠原、俺は作戦時に、『見ろ』とは言ったが自己判断で『動け』とは言ってないぞ」
――――ごもっともで。
「なぜ『動いた』」
「…………」
応えられなかった。理由があるならこれほど悩まないし、次に生かす為の肥やしに出来るのに。
本能での行動に名前を付けられるのなら苦労しないのだ。
ただ押し黙っているだけの郁をどうとらえたのか、堂上はひとつ息を吐くと、飲め、と郁に買ったミルクティを勧めた。キャップの口もまだ切っていない。
「俺はな笠原、お前のそれ、わかる気がするぞ」
「え?」
意外な言葉に顔を上げると、存外真剣な顔つきの堂上とかち合って思わず息を飲んだ。
「だがな、本能のままに行動してたらお前はいつか大怪我する。それならまだいい。だがもし怪我をすれば、それはお前だけの怪我ではなくて隊にとっての怪我になるんだ」
言いたい事はなんとなくわかる。個ではなく、集団として個。そのまた逆も然り。それが集団というものであり、特殊部隊は特にひと塊として特化した集団だから個で受ける影響が全体に広がりすぎる。
「――――あたし、向いてないんでしょうか?」
ぽつりとこぼした音は、真っ暗な空間に吸い込まれるどころがどきりとするぐらい辺りに響いた。
真剣なままの堂上を、やはり真顔で見つめ返す。睨むほどの虚勢は保てない。それだけ気持ちが萎えかけていた。


どれほどの時間が経っただろう。
掌の中でペットボトルがいいだけ汗をかいていた。
緊張を破るように、堂上の手が上がって――――拳骨。そう認識した郁が肩をすくめてキツく目を閉じた時。
頭を襲ったのは痛い拳骨ではなく、大きな掌だった。
そのまま掌は頭をぐしゃぐしゃとかき回し、仕上げに軽く跳ねていく。
「…………」
「新人に多くは期待せん。――――励め」
それだけ言うと堂上は立ち上がって男子寮の中へと消えていった。
励めという事は、郁はここを居場所として残っていいという事か。
あとに残されたのはぼんやりとした郁と、その頭に残された優しさだけ。
色々考える事はあるはずなのに上手く頭が回らなくて、仕方なしにのろのろと腰を上げた郁は、柴崎にお茶を買ってようやく部屋に帰る事にした。
そして布団に入るとあれだけ悩んでいたのが嘘のように、思いの外すんなりと夜の闇に意識をさらわれ眠りについたのだった――――。







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