「ね、酷いと思わない?何が仲良くなる為につき合えだっつーの!」 折りよく昼休みの柴崎とかち合って喫茶コーナーに落ち着くと、ダンと机を叩きながら郁が声を荒げた。 「笠原、もっと声落として。利用者さんに迷惑」 「う……ごめん」 しょげた郁が肩を落とした。この素直さがなぜ堂上に向かないのか、柴崎にとってはそっちの方が謎である。 「まぁ?親睦を深める為だけにつき合えってのは、あまりにも短絡的よね」 「でしょ〜?マジ信じらんないッ」 「でもさ、笠原もそんなのいちいち真に受けないで流しちゃえばいいじゃないの。あっちだって本気でそうしろって言ってるわけじゃないんだし」 頭を抱えた郁が、視線だけで柴崎を見上げる。 「……つき合うって、そんなに軽くていいのかな?」 今度は柴崎がまじまじと郁を見返す番だ。 「あんた、どんだけよ。別につき合ったら絶対結婚しなきゃいけないって訳じゃないのに」 「…………」 気まずそうに逸らされる視線。ふてくされたように尖った唇と同時にに染まる頬。これは――。 「笠原、今まで彼氏とか……」 「いなかったら悪いか!」 思わず真顔になった柴崎と、真っ赤になっているだろう顔をとっさに両手で隠した郁と。二人の間をしばし沈黙が落ちた。 居たたまれなくて隠れたい郁と、まるで珍獣でも見るかのようにキラキラと目を輝かせる柴崎。擦れてない彼女の理由をようやく理解するとともに、羨ましい気持ちが湧いてきた。自分とは正反対の、無垢な存在。 「……笠原、アンタはそのままでいいわよ」 「何よ、藪から棒に」 「それにね、小牧一正はどうか知らないけど、堂上一正ならその手の話、真面目に考える人だから悪く言っちゃだめよ」 「どーして言い切れるのよぅ」 なかなか機嫌の直らない郁がジト目で柴崎を見る。そんな柴崎は少し困ったように笑って、唇に人差し指を当てた。 「この話は、内緒にしといてね……」 釘を刺した後に続いた話に、郁は言葉を失った。 ※ 陽の落ちる時間が延びているとは言え、やはり夕方にもなれば灯りのついていない庁舎は薄暗い。それでも節電と称して課業後の照明は極力抑えるという、貧乏部隊の暗黙の了解が郁にも身についてきたのはつい最近のことである。 その教え通りに、残業をする郁と堂上のデスクライトだけがぽつりぽつりと事務所で灯っているのは、なんとも不思議な光景であった。 無言は静寂を助長し、かりかりとボールペンの音だけがいやに耳を刺激する。たぶん集中すればお互いの呼気をも悟れようが、今はそんな事をする場面ではない。そんな相手を探るような事はしたくなかった。 「……笠原」 不意にかけられた声に顔を上げる。返事をしなければいけないのに、変に喉がひきつって音が出せなかった。 「昼間のアレな、真面目にとるなよ」 「…………」 「冗談で言う戯れ言と、お前が奥手だっつーのは、別だから」 堂上は決して視線を合わせてはくれない。黙々と書類を片付けながら、ぽつりぽつりと郁に謝罪の言葉をこぼす。 ずるい。そんな風に感情を横に置きながら喋られたら、こっちだってただ言った事を受け取るしか出来ないじゃない。 昼に柴崎が言っていた事を思い出す。 だから堂上は、こういう事に於いて本当に茶化すことは言わないのだという。郁にはまだわからない感情を、一時と言えど持ち、そして手放した人だから。 合わない視線をさまよわせている間、止まってしまった手に注意の声がかかった。――口は動かしても良いけどな、手だけは動かせ。 だが一度止まってしまった手はなかなかどうして上手く動いてはくれない。引っかかりがあるから。その引っかかりは、手じゃなくて心に巣くっているけれど。 「…………堂上副隊長は」 「なんだ」 「いえ」 確かめたくて口を開くも、結局噤んで黙り込む。だいたいこれは上官部下の範囲を超えた質問だ。その境界を越える権利を郁は持ち合わせていないから。 「あのな、これは俺の経験則だが」 前置きをしてから初めて堂上が顔を上げた。目が合う。まるで今日初めて視線が絡んだかのような気がして、なぜだか郁は及び腰になってしまう。 「今の若い奴らの交際がどんなもんかはわからんが、少なくとも遊び半分で相手とつき合うのはお互いを傷つけるもんだ」 「…………」 経験則という事は、少なからず堂上にもそんな時期があったという事なのだろう。経験を積めるほど異性とのつき合いがあった、その事が郁の胸に理由のわからない重石になって乗ってくる。苦しい。だからなんで。 「つき合ったからって必ず結婚しなきゃならんもんでもない。だがその時その時を真剣に向き合えないような相手と交際しても、最後には何も残らん。むしろ傷が残る事さえある」 だから小牧の言ったことは気にするな。 そう言った堂上の目はえらく凪いだ瞳だった。 年の功のなせる言葉か。それが酷く悔しい。悔しいのはそれを堂上に言わせた誰かが前提にいるという事――――。 そこまで考えてハッとした。 なぜそんな風に思ってしまったのか。堂上など口うるさくて世話好きのおっさんで、ただの……ただの上官でしかないのに。 「おっさんの言う事だけどな、とりあえず年上の忠告は聞くとしたもんだろ」 ふふ、と自嘲気味に笑いながら再び視線を書類に戻す堂上に、思わず郁が前のめって身を乗り出した。 「あの、堂上副隊長がバツイチって……ッ」 思いがけない言葉が飛び出し弾かれたように郁を見つけた堂上の顔を見て、自分の失態を理解する。やっぱり言わなきゃよかった。柴崎が言っていたように、今でも触れられたくない過去なのだろう。 「どっからバレちまったのかねぇ。…………そうだよ」 つけたのかつけられたのかわからない傷に僅かに顔を歪ませて、それでもなんとか笑っている。それは時間が彼を癒したのか、人が癒してくれたのか。肯定した声は酷く優しかった。 ただひとつ間違いないのは、過去に堂上が一生をと望んだ女がいた事。 その事になぜか傷つく自分がいる。理由なんてわからない。わからないけれど、でも。 「後悔とか……してんですか、やっぱり」 「してると言えばしてるが、袖すり合うも多少の縁っつってな。同時に感謝もしてるよ」 今まで見た事がないくらいの穏やかな表情。 そんな顔をさせている見も知らぬ堂上の元妻が気になって仕方ない自分に、今はまだ気づかなかった――――。 |