「おい、笠原――――」
堂上は何の気なしに振り向いて、だがしかしその先に名を呼んだ部下の姿はなかった。しばし瞬いて、ああそうか、と自分に言い聞かせる。
「どうしたんスか、副隊長。笠原なら先週から小牧班に加入したじゃないッスか」
「わかってるよ。ちょっと……ちょっとだけ、忘れちまっただけだ」
「配属から半年かけてずっと一緒でしたもんね〜」
「あんなん、直属でみっちり仕込まんと目も当てられんかっただろうが」
まるで堂上が請うて郁を直属に置いたような物言いではないか。アホか。
能力重視で配属させてみれば、とんだ山猿だと手を焼いたのは特殊部隊全員のはずなのに、気づけばすべてを堂上に押しつけて他は高みの見物ときたもんだ。その間どれだけ苦労して堂上ひとりで頭空っぽな郁をどんな思いで育ててきたか。特別任務として報償が欲しいくらいなのに。
――――それでも。
「こう言うのが、娘を嫁に出す父親の心境ってやつなんだろうなぁ……」
深く椅子に座り込んで感慨深げに窓の外を見つめる堂上を、誰も茶化しはしない。
噛みつかれて何度も拳骨を落としても、なんだかんだと面倒見のいい堂上と根が素直な郁のふたりは端から見ても微笑ましかったから。
今日の小牧班はグラウンドで野外訓練だ。
だが堂上の視線の先が外の訓練風景をなぞっているかまでは誰にもわからなかった。









「堂上副隊長……」
「なんだ」
「おじさんくさい」
「貴様、開口一番がそれかッ」
たまたまかち合った公休日。そしてたまたま寮の玄関で顔を合わせた最初の言葉がこれである。
多少は山猿から成長したかと思ったが、どうやらまだ人類まではほど遠いらしい。思わずいつもの調子で拳骨をひとつくれてやった。
「いっだぁ……。小牧一正は絶対拳骨とか落とさないのに〜」
「阿呆ぅ、小牧は拳骨なんざ自分の拳傷つけるよりももっと有効な痛めつけ方を知ってるんだよ」
堂上の同期であり親友でもある小牧という男は、知れば知るほど恐ろしさが増す。ただそれを垣間見せてくれるまでにはよほどの信頼関係を築かねばならないのだが。結果、小牧は毬江と結婚した十年前と変わらず、今も堂上との友情は揺るがない。そんな人間は職業柄希有だろう、移り変わり、入れ替わりの激しい図書隊において。
「ふ〜ん……」
拳骨を落とされた辺りを撫でさすりながら、よくわかったようなわからないような顔をしながら郁はスニーカーを履いている。
細身のジーンズに空色のパーカー、カジュアルな格好に似合いのショルダーを肩に引っかける格好は、年頃にしては随分幼さが残るような。少なくともデートなどではないな。
そんな事をちらりと考えている自分に内心苦笑しながら、堂上も靴を履いて立ち上がる。
「堂上副隊長は、そのおじさんくさい格好でどちらへ?」
「どこらへんがだよ!」
「え〜、ウエストインのとことかオールグレーの服とか?」
言われて己の姿を見下ろす。確かにズボンのウエストに服の裾をきっちり入れているのは……おじさんくさいかもしれない。そう思うと余計そうとしか思えなくなってきた。
そうなるといても立ってもいられなくて、わざとらしくない程度に服の裾を出してしわを伸ばしてみる。もちろん郁にはばっちり目撃されて、くすくすと笑われてしまい堂上は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
服の色は今更着替えに行くわけにも行かないし、放っておく。
「お前こそどこ行くんだ」
外に行く事は変わらないのでふたりして玄関を潜る。詰め所を通って公道に出ると、自然と武蔵境駅へと足を向けた。
「買い物です。あと、真ん中の兄が都内なんで、晩ご飯奢ってもらう約束してて」
「そんなに兄さんいるのか?」
「三人です。副隊長は?」
「俺んとこは妹がひとり」
「あ〜、わかるかも。堂上副隊長、面倒見いいですもんね!」
「お前は過保護に育てられてそうだな」
そのツケが物知らなさに繋がっているのだろう。
常識はある。大学まで運動部だったおかげで上下関係には厳しい。だがそれだけだ。先回りして物事お膳立てされてきた箱入り山猿は、いろんな方向で堂上を驚かせてきた。
これで性格も悪かったら放逐ものだが、素直な性根は堂上の与える栄養を受けてすくすく成長していき今に至る。
図書館業務だってまだ完璧ではない。むしろ壊滅的な座学から少し抜け出した程度。格闘訓練だって所詮は女だ、高が知れている。
だからこそ、自身の性別をきちんと飲み込んで自分ならではの特性を生かせるように指導してきたつもりだ。
「どこまで行くんですか?」
駅までの道のりは、久々にふたりきりだった気安さで、他愛のない会話をしていればあっと言う間に着いた。
「俺は妹の呼び出しで実家の国分寺まで。笠原は?」
「あたしは、とりあえず立川です」
郁が口にした分の切符まで買って差し出すと、郁は目を丸くしてそれと堂上を見比べた。
「え?あの、あたし自分で払いますよ」
「ついでだ、ついで。もう買っちまったんだからさっさと使え」
やや強引に押しつけると、困ったような苦笑で頬を染めながら両手で切符を受け取った。
ありがとうございます。
下げた頭に手を置いて、久しぶりに髪の毛をかき混ぜる。
以前だったらなんとも思わないでやっていた行為も、改めてしようと思うとなんだか気恥ずかしく感じた。理由などなくても労いの代わりなんだから、意識などしなくてよかったはずなのに――――。
「も〜、髪の毛グシャグシャにしないで下さいッ」
顔を真っ赤にしながら両手で髪の毛を直す郁に、すまんと言葉だけ渡して堂上は今彼女の髪の毛をかき混ぜた己の掌をじっと見る。なんの変哲もない、細かな傷ばかりの硬い掌。今だけはまだ、柔らかな猫毛の感触が残っている。
「じゃああたし、先行きますね!堂上副隊長、切符ありがとうございました!」
「おう」
「……あと!」
歩き始めていたのをわざわざ戻ってきて人差し指で堂上の胸をひと突きすると、てんで睨みの利いていない上目遣いで堂上を睨みつける。
「いつまでも子ども扱いしないで下さい」
「…………」
「じゃあ、今度こそ行きますから!」
堂上の言葉も待たずにきびすを返すと、郁は自慢の脚であっという間に雑踏の中に紛れ込んでしまった。いくら背が高くても、もう探すのは難しい。
対して何も返せなかった堂上は、ただ呆然としながら郁の言った言葉の意味を何度も何度も反復していた。
子ども扱いしないで、だなど。
切符を買ってやったのがそんなに気に食わなかったのか。これから電車に乗るのがわかっている部下に切符を買ってなんだ。しかもお前は――――。
それともいつまでも直属の部下ではないんだから、なれなれしくするなという事なのだろうか。
わからない。
わからないが、ひとつだけ分かっている事がある。


――――子離れしなくちゃな。


自分の分の切符を握りしめ、それからしばらくして堂上もゆっくりと改札を通った。
急に秋めいた風に煽られて、涼しくなった。
もうお互いの姿を探す事は出来ない。





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