「うわ〜、さすがに奥多摩は秋まっただなか真っ只中ですね」
郁にとっては配属直後以来の奥多摩演習である。時期は十月も半ばを過ぎた頃にやってきた。
「笠原さんは配属直後の新人合同演習以来だもんね。あとはずっと堂上とふたりきりだったし」
「へ、変な言い方しないで下さいよ小牧一正!」
「え、本当の事でしょ?」
「ち、違いますッ!」
木霊を響かせる程の大声は最早否定ではなく、同行した小牧班と青木班の班員にイジられるネタを与えるだけであった。
とにかく怒っても喚いても、今日から二週間は人里を離れたこの奥多摩演習場での訓練が始まるのだ――――。





秋と言っても天気が良ければ日差しは暖かい。夜はその逆で、寒暖差がかなり厳しかった。
「なんだ笠原、もう寝るのか」
目をこすりながらふらりと立ち上がる郁に、先輩隊員が声をかけてくる。
「さすがに久しぶりの野外演習だったから疲れちゃって。すいません、お先に失礼しま〜す」
「お疲れ様、笠原さん。明日は寝坊しないようにね」
「は〜い」
返事をしたものの、今日の疲れ具合はハンパないから怪しいものだ。
欠伸をかみ殺しながら部屋に入ると、そのまま布団に寝転がった。ベッドと違って畳に布団だから、はみ出したとしてもベッドの様に落ちる事はない。心配なのは風邪ぐらいなものか。背嚢までゴロゴロと転がって移動すると、その中から携帯電話を取り出した。
電源を入れると、メールが三件。
柴崎は今日も告られた、と。モテる女は何時でも油断出来なくて可哀想。でも業務部に堂上が書類を届けに来たとかいう情報はいらないし。おじさんにも仕事ぐらいさせてやれ。
あとは大学時代の同級生から。今度飲みに行きたいとな。それは郁ではなくシフトと相談だ。
堂上直属の時は定時から定時だったけれど、小牧班に入ってからはシフトで課業時間が変わる。日勤ならいいが、夜勤になったら無理。そして郁はアルコールに弱いから、あまり飲む楽しさを感じない。酒場のわいわいとした陽気さは好きだけれど。
三件目は出会い系サイトから。出会いは欲しい。しかしこの職場、郁以外五十数名全て男性であるのに誰一人として恋愛対象にすらならないのも珍しいなと、つくずく思う。なったらなったで面倒臭そうだし、みんながみんな結構年上だし。
――――そう、年上だし…………。
ガサ。
背嚢から飴の袋が転がって落ちた。いろんな味のフルーツ飴。
パッケージを開けて無造作にひとつ取り出し、天井の蛍光灯越しに翳す。パイナップル味。初っぱなから王道を外すとか、どういう事だ。
笑い出しそうになりながら封を切り口の中に放り込む。じんわりとした甘さが、訓練に疲れた身体に染みるようだった。











ふぅ、と小さく息を吐き、寝そべっていた身体を起こして伸びをひとつ。
砲撃の衝動でじんじん痺れる両手を軽く振ると、ゴーグルとヘッドホンを外して的を確認した。
真ん中を撃ち抜くどころか、かろうじて的を掠っている程度。これが今の精一杯かと思うと、なかなか情けないではないか。
「やっぱり笠原さんは射撃苦手だね〜」
苦笑しながらスコアを書き込む小牧に、申し訳なさそうな顔で郁が頷いた。自分でもそう思う。
「まあでも、初回よりは少しマシかな?」
「一応全弾命中はしてますからね」
隣りで撃ち終えた手塚が、ため息混じりで小牧に同意した。こちらは全弾中心に命中は当たり前、見事なハイスコアだ。
「……射撃は苦手なのよ」
「射撃だけじゃないだろお前」
「うっさい手塚、表出ろッ」
「俺は現実主義者なんだよ」
「ムカつくーーー!」
「まあまあまあ」
いつもの軽口にいつもの反応、それを諫める小牧も最早慣れたものでなあなあ程度にしか止めはしない。子どもじゃないんだから、その辺の裁量は各自大人としての良心に任せると。
簡単に突き放す小牧は、実は堂上よりもシビアなのだとようやく分かってきた。
鼻を鳴らしてこの話は切り上げと銃を構え直す。その途端、小牧からストップの声。
不満気に上官を見上げると、爽やかな笑顔で郁の射撃終了を告げられた。
「なんでですか!もっと練習しなくちゃ……」
「練習しても芽が出なさそうな笠原さんに無駄弾撃たせてあげられるほど、図書隊は裕福じゃないんでね。下手な鉄砲撃つ暇があったら、笠原さんは笠原さんの特性伸ばして下さいね」
「…………はい」
ぐうの音も出ない。本当にこの人はシビアな正論吐きなんだから!
己の腕のなさと小牧の言葉にへこみながら、ポケットに忍ばせておいた飴玉を口に含む。今日はメロン味。まあまあ好きな味だった。











う、あ〜。

クールダウンのストレッチで伸びをしていた所で、青木に声を掛けられた。
「なんですか?」
「たいした用じゃないんだがな、ちょっと酒井と車走らせて酒調達してこい」
今日で奥多摩演習を折り返した。あと半分の鋭気を養うために、夜は決起集会という名の飲み会をするという。
「財布は俺の使え。つまみは食堂のおばちゃんが作ってってくれたからいらん」
「どのくらい買ってくればいいですか?」
何せ図書特殊部隊の飲み会といえば、毎回酒樽を用意した方がいいのではないかと言うぐらい飲む。果てしなく飲む。おかげで飲み放題は居酒屋に申し訳ないから酒だけは大抵持ち込むせいで、馴染みの居酒屋しか使えないのが痛いところだが。
「そこんところは財布と一緒に酒井に言っといた。明日も訓練あるしな、まあそんな飲まねぇよ」
下戸の部類に入る郁には計れない話だ。
だいたいにして春の教育隊でやった歓迎会以来飲酒は堂上に許されていない。そりゃあ歓迎会の時に酒を飲んで記憶が飛んだけれど、それだって要は酒量を覚えればいいだけの話だ。
普段公平な堂上の、そういう上官権限はちょっと利己的だと思う。
「とりあえず気分転換にでも外出てこい。ちょっとお前、根詰め過ぎだから」
「そう、ですかね……」
ただがむしゃらに一生懸命にこなしていく訓練に、確かに少しくたびれてきた。
やはり年上の先輩には全部見透かされている。たぶんここで一度ガス抜きをしなくては、明日以降の郁はきっといろんな力が散漫になっていっただろう。ここはありがたく、青木の言葉通りにするとしたもんだ。


「いってきま〜す!」


図書隊の研修施設から最寄りのスーパーまで車でおよそ二十分。真っ暗な山奥から次第に街の灯りが華やいでくるのを見ると、無意識でほっとする。明るいというだけで気分が浮き立った。
やっぱりたかが買い物と言えど、十分気分転換になるものだ。
駐車場に車を停めて店内に入ると、酒井が郁の肩を軽く叩く。
「青木一正が、笠原用にお菓子買ってもいいって」
「ホントですか?」
実は甘い物に飢えていたので、先輩方の配慮が素直に嬉しい。基地にいる時は、柴崎と夜食の習慣をつけてしまったので尚の事。
「俺が酒とか調達してるから、その間にお菓子見繕ってこいよ。酒も飲みたかったら、酎ハイとかもあるし」
「いえ、ホントそこまではッ。ありがとうございます!」
ぱっと表情を明るくすると、言われた通りに菓子棚を探した。
嬉しい嬉しい!チョコが食べたかった。ポテトチップスならみんなも酒のつまみに食べるだろうか?
気分も浮上して足取り軽く店内を物色している郁が角を曲がった時、視界の端によく見知ったような背中を捉えて脚が止まった。
広くて逞しい背中。ちょっと低めの背丈にがっしりとした鎧のような身体つき。まさか。
よく似た背中は、郁が半年間ずっと傍に居てくれた。厳しさも優しさも全部内包した大きな背中。硬いくせに優しい背中。
頭をひとつ振る。
そんなわけないじゃない。だってあの人は今、図書基地に居るはずで、こんなところに来る理由なんてないのに。
ほら、服の裾をズボンに仕舞っていない。若者ぶってる。あの人はおじさんだから、落ち着かないって必ずズボンの中に服の裾を入れてしまうから。だから落ち着け、自分。
はあ、と息を吐き出す。余計な感情諸とも、全部全部身体から出してしまえ。
もう何も考えまい。浮上していた気持ちもしゅるしゅると音を立てて萎んでしまった。
つま先の向きを変えると、さっさとチョコ菓子とポテトチップスをかごに入れて酒井の所に戻った。


この日の夜は飲み会だというのに、早々に布団に入って暗示をかけるようにして眠った。
いつも寝る前に舐めるフルーツ飴は、封を切ることもしなかった。







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