leave
12.
――夢だったら良かった。
サイドテーブルの明かりが照らす部屋は整然と飾られ、自分の部屋とも
撩の部屋とも、似ても似つかない。
今ここにいることが、どんな行為の結果なのか。ぼんやりと視線を中空に
彷徨わせたまま、香は記憶が勝手に再生されるのを感じる。
嫌だ。思い出したくない。
寝返りをうって体を丸める。全身が軋むようで、それがますます心を追い詰めた。
自分の体に残る、ミックと過ごした濃密な時間の痕跡。
香の口から嗚咽が洩れ始めた。
頬をシーツに押し付けて涙を吸わせても、後から後から溢れて来る。
しかしいくら泣いても、それで事態が変わるはずのないことは、自分が一番知っていた。
あたしは、負けてしまった。
ミックの与える快楽に。苦痛よりも苦しい。けれども甘い。重い鎖のような快楽。
思い出すとそれだけで体が震えてしまう。香は自分の体を抱きしめる。
ミックの唇。ミックの指。抱きしめた強い腕と、自分を貫いたミックの……
この記憶は消えないだろう、と香は恐怖に似た思いで考える。
不用意に一滴混じってしまった黒い絵の具が、もう取り戻せないのと同じ。
――ああ、こんなことしている場合じゃない。早く帰らなきゃ。
もう3時になろうとしている。撩ももしかして、心配してくれているかもしれないし。
愛する男を思い出して、心臓が噛まれたようにきりっと痛んだ。
次にかずえの顔が浮かぶ。今にも泣き出しそうな顔をしている。
――あたし、これから先どんな顔で会えばいいんだろう。
ミックをこのまま行かせてしまっていいんだろうか。
「あ……」
ベッドから降りようと、かけられていたシーツをめくって香は呻いた。
脚の間。体液の痕がはっきりと残っている。目の前に罪を突きつけられる。
香はのろのろと立ち上がった。足元がふらつく。ベッドルームのドアを開けると、
ライトの明るさに眩暈がした。香は眩しさに目を細めて部屋の中を見回す。
グレイのソファを見て、体の奥に甘い疼きが走った。
入り口の床に放りだされていたはずの香の服は、ソファの上に置かれている。
財布しか入っていないバッグも。携帯……そうか、置いてきちゃったんだ。
持って来てたら、ひょっとしてこんなことにはならなかったかもしれないのに。
テーブルの上に何かが載っている。近づくと、それはホテルのマークの入った便箋だった。
”Adios." Mick Angel
たった一言の別れの言葉と、名前のサイン――。便箋の白さが寂しさを際立たせる。
香は長い、複雑な思いが詰まった溜息をつくと、ふらふらとバスルームへ向かった。
何もかもを洗い流したい。それが不可能なことを知りつつ、香はドアノブに手を伸ばす。
その時突然、入り口のドアを乱暴に叩く音が部屋に響き渡った。
13.
心臓をぎゅっとつかまれたように驚いて、香はびくりと手を止める。
あの音。それが誰なのかはわかっていた。今、あんな風にドアを叩く――
そんなことが出来るのは、この世でたった一人だけ。
香は洗面所に入り、バスローブを見つけると、それを素早く身にまとう。
その間もノックの音は続いている。ますます強く。苛立ったように。
「――はい。どなたですか」
ドナタデスカ。つい数時間前、自宅の玄関で同じ質問をしたことを思い出す。
あの時まで時間が戻れば。
「俺だ。開けろ」
「……撩」
撩の声が耳に入った途端、香の体から力が抜けてしまった。ドアにもたれて喘ぐ。
すぐそばにいてくれることが嬉しかった。でも――こんな姿を見られてしまったら。
一瞬待っても、ドアが開く気配がないことに苛立ったのか、撩は、
「早くしろ。――開けないと鍵を撃つぞ」
硬い声で脅すように言う。香は逡巡し、だが他に方法もなく、カチリとドアの鍵を開けた。
お互いを凝視する視線は、ぶつかると同時に弾ける。
視線に押されるように後ずさり、目をそらしたのは香の方。
撩の視線は、香の――寝乱れた茶色の髪と、まだ涙で濡れている頬、
そして無惨に汚れた脚を素早く往復する。無表情なまま。尋ねる声にも感情がこもっていない。
「――あいつはどこに行った?」
「……わからない。出て行ったわ」
「いつだ?」
いつだったろう?香は思い出せなかった。体の中から湧く震えを押し隠して、平静を装う。
「撩が家に帰った頃。――何かの受信音がしてた」
ミックはきっと細工を仕掛けていたのだろう。鍵を開けると、あるいは電源を入れると
反応するような何か。玄関で一人で待っていたことからすると、ドアの可能性が高い。
「とすると1時半頃か。……それまでお前は、奴とお楽しみだったってわけだ」
「……」
「3時間?4時間くらい?……存分に楽しんだんだろうな。その様子じゃ」
「だってっ……」
「だって、じゃねえよ!」
撩の態度が豹変した。目をぎらりと光らせると大股に二歩でお互いの間を詰める。
大きな手が香の腕をつかんだ。そのまま彼女を引きずって行く。
14.
この部屋のバスルームはホテルには珍しく、日本式だった。
脱衣所と洗い場がついていて、一般的な家庭風呂の二倍くらいの広さがある。
大きな窓の向こうには、華やかでどこか冷たい夜景。
脱衣所の隅の、使った形跡のあるバスタオルが目に入り、
香はぼんやりと(腕の包帯は濡れなかっただろうか)と考える。
「こんな好き勝手、されやがって……」
撩は吐き捨て、香を射抜くように見据えつつ、自分の服を脱ぎ始める。
見慣れた筋肉質の体が現れてくる。立ち尽くす香の脚は震えた。
それが怯えからなのか。それとも――期待からなのか。あまり考えたくはなかった。
裸になった撩は香の正面に立つ。彼女のローブのベルトを難なく解くと、
引き剥がすようにそれを脱がせる。男の目にさらされる白い体。
これから何が起こるのか。それを考えて、香は思わず目を閉じてしまった。
睫毛にまで震えが伝わる。撩の太い腕が体にきつく巻きつく。
「――来い」
土砂降りの雨のように叩きつける熱いシャワー。男の体はそれよりもっと熱い。
息が出来ないほど強い力で抱きしめ、他の男の痕を消すように、手が全身を撫で回す。
その性急な、激しい腕の動きが――悲しくて、愛しい。
「あ……んっ」
女の首筋が強く吸われる。痛みに眉がひそめられる。きっと真っ赤な痕になるだろう。
でも――いい、と香は心で呟いた。それが撩の心を鎮めるなら。いくつ痕をつけられても。
それが聞こえたように、撩は目を閉じたままの香の顔を、激情を湛えた目で一瞬見つめた。
唇が。唇を襲う。
男の頭を抱こうとした香の腕が、途中で力尽きたようにだらりと下がった。
それに苛立ったのか、撩は女の胸に顔を埋めて、その尖った先端に軽く歯を立てる。
小さく悲鳴を上げて跳ねる体を、男は強い腕で押さえつけた。表情を確かめつつ、
舌と唇で双丘を交互に責める。
「……りょうっ……」
切ない女の声に、男の顔が痛みをこらえるように歪む。背後から香を抱きかかえると、
撩は右手の指を、女の熱い部分にぐい、と押し込んだ。
「ああんっ!」
それだけで香の腰は砕けそうになる。ちくしょう、と口惜しそうに呟く声がした。
指が念入りに香のそこを探る。何かの痕跡を確かめるように。
「そんな声を聞かせたのか、あいつに?」
「あっ……んっ……」
「そんな顔で!……」
男の両手が盛り上がった胸を鷲づかみし、乱暴に揉みあげる。
その痛みに耐えながら香は小さく叫んだ。
「お願い、……めちゃくちゃに……抱いてっ……」
「……っ!」
撩の顔が紅潮する。香の体を離し、正面から向き合う形で壁に押し付ける。
左手で香の右脚を持ち上げ大きく脚を開かせると、撩はためらうことなく彼自身で香を貫いた。
柔らかく絡みつく体をきつく抱いて思い切り揺らす。
まるで壊してしまおうとでもするように、香を責めたてて、悲鳴をあげさせる。
「や……りょ…あっ……あっ!」
香の喘ぎは撩の熱を高めた。息を吸うひまもないほど激しく、奥まで突き上げる。
のけぞる女の体。目の前に突き出された丸い、柔らかな胸の先で色づく実を口に含む。
舌で夢中で転がし、香を大きく悶えさせる。
「――りょう!」
普段は。香はこんな時、こんな風に名前を呼ばない。はじらって消え入りそうに囁くだけだ。
でも今日は――撩も香も、ためらいもなく激しくお互いを貪り続ける。
取り戻せない何かを捜すように。
15.
「――ほら、見ろよ。窓」
いかされたばかりで、香の意識は朦朧としている。香の脚はまだ抱え上げられていて、
二人は繋がったままだ。撩は自分の胸にもたれていた女の顔を窓の方へ向けた。
ぼんやりと目を上げた香は、そこに見えたものから反射的に目をそらす。
「いやっ……」
暗い窓に映る明るい室内。大きな窓は鏡のように正直に、自分たちの痴態を映し出している。
「いやらしいな、お前。あんなに脚を開いて。……見えるか?俺たちが繋がっているのが」
羞恥をあおるように、ことさらに猥らに囁いて、撩は腕の中の女を揺すりあげる。
香は力なく首をふり、顔を背けようとする。息をつめて嬌声を必死でこらえる。
突然撩は繋がりを解いた。崩れそうになる香を抱き寄せ、背後から抱える。
窓際へ運び、体を折って窓ガラスに手をつかせた。
香が大人しく従うと、撩は手で女の腰を引きよせる。
「あっ……」
再び、撩が香に中に入って来る。背後から貫かれた体は、
香の疲れた腕では支えきれずに窓に押し付けられる。
「目をそらすな。俺たちをちゃんと見てろ」
強い口調で命じ、撩は律動を繰り返しながら、右手で敏感な芽を愛撫し始めた。
香の呻き声とびくびくとした痙攣を楽しむように、撩は暗い笑みを零す。
「香。――お前は俺のものだ」
「んんっ……ああぁ……」
「お前を抱くのは俺だけだ!」
「ああっ!……あっ…」
香の白い背中に、撩の唇がまた一つ紅く痕をつける。香の喘ぎと、繋がった部分から聞こえる
くちゅくちゅという音が二人の耳に入る音の全てだ。世界がここだけになる。
獣。こんな風に貪りあって、それに我を忘れているあたしたちは獣。
撩はライオンのようにあたしを喰らい尽くす。骨まで喰われて、血の一滴まで
舐め取られて、撩の一部になる。そんな幸福。喰われる獲物の幸福。
その快感に全身を委ねてしまおうとした瞬間――頭の中を、しなやかな獣の影が走る。
黒豹のような。どこまでもしなやかに、優雅に疾走する黒い獣。
その目は寂しげな淡い色。
「りょう!……りょう!」
急に香が身を震わせて叫んだ。怖い夢から覚めた子供のように。
手が、前に回された撩の腕にすがりつく。その力の強さに撩は驚いた。
「お願い!」
香の言葉はそれだけだったが、撩は香が言いたいことを正確に理解した。
のしかかっていた女の体を起こし、座った自分の膝に、向かい合わせに抱き寄せる。
すぐに香の腕が男の首に巻きついた。安心したような吐息がその口から洩れる。
「怖かったのか?」
香は顔を肩に埋め、こくこくと頷く。撩は複雑な笑みを浮かべると、胸に手を這わせた。
その動きは優しい。また香の息が熱くなる。
女の腰を持ち上げ、熱い自分自身の上に――落とす。香が甘い悲鳴を上げる。
繰り返すたび香のそこが撩を締めつけ、彼もまた快感に飲み込まれそうになる。
耳にかかる熱い息。目尻に滲む涙が光る。必死で首にしがみつく女が愛しい。
――だがこいつは。この体は、ついさっきまで――。
撩の中を快感よりも激しい痛みが走った。ぎりっと音がするほど歯を食いしばり、
香の腰をつかんで滅茶苦茶に揺すり上げる。――この女は俺だけのもの。
他の男に抱かれることなど、もう二度と赦さない。
もし俺だけのものにならないのなら。
「……壊してしまいてえよ」
唸るような呟きは、叫び続ける香には聞こえなかった。
撩の腕の中で思いのままに揺すぶられ、香は泣きながら叫び続ける。
もうどうなってもいい。おかしくなってしまってもいい。
快感が欲しかった。奥まで。溶けるまで。全てを忘れるまで。
「あっ、……あああっ!」
大きな波が近づいて来る。溺れる。溺れたい。りょう。
――忘れさせてなんかあげないよ。
暗く囁く黒い獣の声をどこかで感じながら、香は波にさらわれ、意識を失った。
16.
紫色に変わり始めた空。さっきまで我が物顔に輝いていた街の光が、少しずつ淡くなっていく。
二人は湯船で体を重ねて、無言のまま窓の外を見ていた。
撩の手は、無意識のうちに香のなめらかな腿をなでている。
香がぽつりと問いかける。
「……アディオスって……スペイン語?」
「……なんだ、いきなり」
「ミックの置手紙に……そう書いてあったの」
「……」
撩は腕の中の香を抱きなおす。
「ミック、もう戻って来ないって言ってた……」
「今、あいつの話は止せ」
撩の低い声に香は口をつぐむ。その体がわずかに強張ったのを感じ、
彼は香の顎をぐい、と引き寄せてキスをする。
自分の舌に珍しく積極的に応える香に、撩の心の奥が軋む。
――この変化はあいつのせいだ。
埋み火が再びちろちろと燃え始める。だんだん深く、激しくなっていく口づけに
香の息遣いもまた荒くなる。しばらく貪ってようやく唇を離すと、潤んだ目が撩を見返した。
「ごめんなさい……」
ほとんど声にならないほど微かな息で、香は言った。撩はじっとその目を見つめ、
長い沈黙の後、冷たい声で静かに反問する。
「……何がだ?」
その問いに答える言葉を香は持たない。悲しく、訴えるような目で撩を一瞥し、
顔を背けておずおずと体をもたせかける。今、二人の間に言葉で言えることは何もない。
体だけが、ただ触れ合う。
妙に朱い、冬の夜明け。
「雨、止んでたんだね……」
「そうだな……」
言葉は意味のない空虚な音の羅列。
光の海だった窓の外の風景が、徐々に白っぽい現実感を取り戻す。
その現実に戻れるだろうか――あたしたちは。おれたちは。
浴室に朝の最初の光が広がる。
<終>
以上です。みんな不幸……
ところで皆さん!
「窓」のところは大嘘です。普通湯気で曇ります。
でもここは書きたかったところなので、
「きっとホテル側が超強力曇り防止剤を塗ってくれていたはず」と
いうことで……
他にも色々ありますが、なるべく気づかないようにしてください。
自分も気づかない(ry
おつきあいありがとうございました。