迂闊


7.
 ――撩の行動が理解できなかった。
手ひどいからかいの言葉を投げつけて来たかと思うと、真剣な目であたしの顔を覗き込んだり、
キスしようとしたり、しないって言ったり。――体を荷物のように持ち上げられた時は、
半分本気で家の外に放り出されるんじゃないかと思ったほど。
あたしは怖くて混乱していて、周りが見えていなかった。気づいた時は、撩のベッドの上。
放り投げられるようにベッドに落とされて、ぶつかった背中が痛い。
 どうして、と叫ぼうと思った途端、あいつが飛び掛って来た。まるで飢えた肉食獣のように。
そしてそのまま――喰われてしまう。

 キスなんかしないって言ったのに。
 撩の舌は口の中を我が物顔に動き回り、舌を絡めとる。唾液を注ぎ込み、激しく吸い上げる。
あたしの中にあるものを、全て吸い取ろうとしている。
体の中身全部、脳みそも奪われてしまったようで、
だんだん何もわからなくなっていく。――これが、キス?
 撩は目を開ける気力さえ残してくれない。あたしは、知らないうちに喘ぎ声をあげていた。
 「相手の男のこと、言う気になったか?」
 いつの間に解放されていたのだろう。唇が離れ、呼吸が楽になっていることも意識の外だった。
撩が何か言ってることだけはわかるけど、言葉が意味を成さない。わからない、何も。
 「あっ……」
 突然、電気が走ったように体が震えた。耳。大きく耳に響くぴちゃぴちゃという音は、
撩が――あたしの耳を舐めている音。彼の舌がねっとりと往復するたびに、
体の半分が不思議なほど震えてしまう。
 「あいつとは、いつからだ?」
 あいつ?あいつって誰のことだろう。そう、多分さっきまで会っていた男の人。
なんて人だっけ……たしか、高山……。今日会ったばかりの。
 「……初めて……よ。初対面だわ」
 何とかそう言って、頭が少しはっきりする。あの人の、名前も関係も撩に言ってはいけない。
言ったら何か禍々しいことが起こる。絵理子にも迷惑がかかる。
 「合コンにでも行ったのか?」
 合コンなんて。あんたじゃあるまいし。そう言って鼻で嗤ってやりたかったけど、
撩の指が反対の耳まで撫で始めていて、軽口を叩く余裕がない。
 「どこに……行くかは……出かける時に言ったじゃない」
 「じゃ、なんで男の車で送られてくるんだよ」
 答えられない。今のあたしは何も考えられない。自分の全身を走っていく、
撩の舌と指が生み出す波に耐えるのに精一杯だった。

撩の唇が首筋に移った。あたしは何とか逃げ出そうともがく。
もがくのを逆に利用して、撩の唇は首筋の全部を彷徨う。
鎖骨の辺りを強く吸われ、あたしは痛みに小さく叫んだ。
ブラウスが引っ張られる感覚に目を開ければ、撩の指がボタンにかかっている。
 「だめっ」
 服を脱がされる――裸を見られる。そんな恥ずかしいこと、無理。
反射的に手が動き、撩の手を押さえようとする。
 「なんで?まさか、あとでもつけられて来たわけじゃないだろうな」
 あとをつけられる?突然そんなことを言われ、あたしは驚いて目を見開いた。
今日の外出中、そんな気配はなかった。だいたいどうしてあたしに尾行がつくのか……
 「キスマークだよ」
 意味を完全に取り違えていたことに赤くなり、
次に言われたことの内容を理解してもっと赤くなった。
この男、あたしを何だと思ってるの?誰とでも……寝るような、軽い女だと?
 「やぁっ……」
 撩の指が全部のボタンを外し終わるまであっという間だった。
あたしは自分の上半身が、撩の目に隠すところなくさらされているのに気づいて身をよじる。
恥ずかしくて、体まで赤くなる。
 あいつの唇がそっと降りて来て、胸の頂きに――触れる。
 「……ああっ……!」
 びくりと大きくのけぞってしまう。
さっきまでの耳への刺激とは、比べものにならないくらいの波が全身に走った。
これが、快感?波は壁にぶつかると、反射をするように戻って来て、なかなか消えてくれない。
眩暈がする。力が抜けていく。
 「あっ……あぁ……んんっ」
 撩の唇は胸から離れず、舌がそれをちろちろと愛撫する。
左胸には撩の右手が忍び寄り、頂を強く摘む。快感と痛みに、あたしは呻く。
 「初めてのわりには、いい声で啼くな、お前」
 「……や……っ」
 「それとも初めてじゃないのか?」
 撩は身を起こして、両手を使ってあたしの胸をもみしだく。
――めちゃくちゃに。痛いくらいに。
そしてまた頂に口をつけ、今度は軽く歯を立てる。
我慢できずにあたしが漏らす声を愉しんでいるらしい。
朦朧としかけた目を開けて撩の顔を見ると、口許には意地悪な笑みが浮かんでいた。

8.
 香の体は思っていたよりずっと滑らかで、柔らかかった。
こうやって胸を思い通りに撫で回していると、手に吸い付くような感触。
手のひらで触っているだけで頭が痺れてくるほど気持ちがいいなんて、どんないやらしい体なんだよ。

 ブラウスを引き剥がし、窮屈そうなブラジャーも取り去る。腰に手を回して――
タイトスカートのホックを外そうとすると、やっぱり香は抵抗する。
口と右手でまた胸を責めて、抵抗を封じる。香の手がシーツを握り締め、何本ものしわを作った。
薄い布で出来たスカートを奪う。ストッキングなしの生足がすらりと優美に伸びている。
身につけているのはあとはもう、淡いピンクのショーツだけだ。
 「や……やだ、撩……」
 消え入りそうに呟く香。俺を見上げるその目には、悲しみと抗議の涙。
――もう無理だ、止まらない。俺はもう、止めることなんか出来ない。
 盛り上がった胸と。へその横と。脇腹と。念入りに痕をつける。こんなもの、自己満足でしかない。
痕は数日で消えるし、ましてそれで心まで縛ることは不可能だ。だが今だけは。

 俺のものだ。

 痕をつけるたびにこいつは小さく悲鳴をあげる。
腰骨のあたりが……特に弱いらしく、舌を這わせると体を大きくくねらせた。
押さえつけて執拗にそこを責めると、嬌声が上がり目尻に涙が滲む。……煽られる。
 舌先を尖らせて涙を舐め取った。
 「そんな声を出すと、その辺を歩いている通行人にも聞こえるぜ」
 「……っ」
 羞恥からか、顔が苦痛に歪む。たまらずにキスをする。
さっきよりはずっと優しく――入念に、ねっとりと。
ひそめていた香の眉が開かれ、苦痛の色は徐々に薄くなっていく。
奴の腕がおずおずと俺の首に回される。俺は右手をそっと――動かした。ショーツの中。体の中心へ。
 「んんんっ!」
 口が塞がれている香は、そんな声を上げてびくびくと体を揺らした。目を見開く。
俺の手から、唇から逃れようと必死に身をよじらせるが、俺の舌はこいつのそれを逃さない。
うってかわって激しく貪る。同時に指も遠慮なく動いて、熱いそこを愛撫する。
香の体と声は期待通りに応える。俺は指の動きを止めないまま、唇を離してにやりと笑った。
 「ずいぶん濡れてるな、香」
 「あっ……ああっ……やんっ、やっ」
 「気持ちいいか?」
 「……りょ……あああっ!」
 そこをなぞっていた指が足の付け根の芽に辿りつく。
切羽詰った声をあげると同時に、香の体全体がぱっと色づく。
色っぽい姿に見とれて、もっと乱れた香を見たくなる。
芽を少し乱暴に擦りあげて、体が痙攣するのを愉しんだ。
 「ああっ!いや……りょう、りょう……ゆるし……て」
 「……何を許すんだ?他の男とキスしたこと?」
 「ちが……もう、離して……」
 「やだね。……お前だって気持ちいいだろ?」
 「やあっ……」
 口では拒絶して涙を流す香とは裏腹に、下のそこからは蜜が溢れでている。
指を一本入れてみると、――きつい。誰も触れたことのない場所。


 「ほぐさねえと、入らないよな……」
 香の耳に入るように呟きつつ、出し入れを繰り返す。あえぎ声は途切れず、俺を煽る。
自分が啼かせている女の声は最高の媚薬だ。ましてこれほど……惚れた女の。――すっと指を抜く。
 「りょう……」
 上気した香はぼうっとした目で俺を見る。自分が今どうなっているのか、わからないという顔だ。
それでも休息を与えられた体は、ほっとしたように大きな呼吸を繰り返す。
俺はベッドから降り、視線を香の顔に固定したまま、ゆっくりとシャツを脱いだ。Tシャツも。
上半身裸になった俺を見て、香は息を呑み、顔を背ける。
上半身だけなら、こいつも俺の体、見慣れているはずなんだが。

 全てを脱ぎ捨てて、再びのしかかると――服越しに感じた時とは比べものにならないほど、
香の肌は気持ちがいい。俺は一気に余裕を失くした。
 乱暴にショーツをおろし、足から引き抜き、床に投げつける。
香の叫びに耳も貸さず、膝に手をかけ左右に割り開いて、そこにあるものをじっと見つめる。
濡れたそこはひくひくと動いて誘っている。たまらねえ。
 俺は食いつくように顔を埋めた。甘い女の匂い。舌を伸ばして蜜を舐め取る。
柔らかな花びらが小刻みに震えている。尖らせた舌をそこに埋め、思うがまま滅茶苦茶にかき回すと、
香の腰が大きく跳ねた。
 「……あっ!……りょう……ああぁっ」
 香の手が伸び、俺の髪をかき回す。目だけを上げて表情を見ると、ぴんと尖った胸の先端と、
のけぞった顎のきれいなラインが見えた。俺は少し体勢を変えて、右手を胸の尖った実に伸ばす。
こりこりと摘んで、舌は相変わらず花びらと芽をしつこく責める。
髪をかき回す手の動きで、香が追い詰められていくさまが、手に取るようにわかった。
 「やっ……や、…………もう……だめっ。……あぁっ!」
 芽を甘噛みすると同時に、香の全身が硬直した。それでも俺は愛撫を止めない。
香の体は硬直の後、ゆるやかに弛緩していった。俺の髪から、手がぱたりと離れる。
 「……香?」
 声をかけても返事はない。にやりと笑いながら、俺は体を起こして香の表情を確かめる。
無防備に小さく口を開けて、奴は気を失っていた。
 


9.
 「起きろよ」
 耳元でそんな声が聞こえると同時に、武骨な手があたしの……中に入っているのに気づく。
反射的にその手を押さえようとしたけれど、指が中で動く方が早かった。
体が勝手にびくびくと動いてしまう。撩はあたしの表情をさぐるようにじっと見下ろしている。
 「……んっ、りょ……」
 意識を失くしてたのは、どのくらいだったのだろう。高熱に浮かされたような頭では、
自分の身に起こったことと、今起こりつつあることを結びつけるのに時間がかかる。

 今、あたしは撩に……抱かれている。
それが嬉しいのか、それとも悲しいことなのか、わからない。
 ずっと……抱かれたかったのは本当。でも、それはこんな風じゃなく。
怒りから始まる抱かれ方じゃなく――。嬉しさと悲しみが交じり合わずに、
ちょうど半分ずつ積み上げられて、心に詰まっている。
 撩の指はどんどん奥まで入って来た。指を曲げて、中のあちこちを探る。
くちゅくちゅという音。あたしの体の音。恥ずかしい。
 「聞こえるか?これ」
 わざと――音がするように、撩はあたしの中をかき回す。
 「あっ……や……めて」
 「んなわけにいくか。これからだ。……指、増やすぞ」
 言うなり、あたしの中にまた何かが入って来た。思わず悲鳴が洩れる。
撩はちょっと眉を寄せて、でも何も言わない。かき回す指の動きが、少し優しくなった。
 「んんっ……あ……」
 「さっき、どうだった?」
 「……な……に?」
 「”いった”だろ?」
 「……え?……んっ」
 体を駆け巡る快感に耐えるために閉じていた目を薄く開けて、あたしは撩の顔を見た。
何を訊かれているかわからない。撩は苦笑を浮かべると、指を抜いて、ゆっくりと顔を近づけて来た。
肩を抱かれる。これが、三度目のキス。
 三度目のキスはそれまでで一番優しかった。撩の舌は静かに優しく、あたしの舌をからめとった。
あたしも――勇気を出して、ほんの少し舌を差し出してみる。
撩の片頬に薄い笑みが浮かんだのがわかった。
 「あん……」
 胸も。今まで一番、優しい触り方。
左胸の上を、肩から降りて来た撩の手が大きく丸を描くように動き、
頂をゆるやかに刺激する。先が尖るにつれて、そこから広がる快感が深くなる。気持ち、いい。
 快感にとらわれたあたしは、撩の手が胸から下の方へ伸ばされたのに気がつかなかった。


10.
 「力抜いてろよ」
 撩は静かにそう言うと覆いかぶさり、またあたしの唇をふさいだ。
何の反応も出来ないうちに、撩の手が足を掴んで大きく広げる。
あまりにいやらしい姿勢をとらされていることに気づいて、
あたしは足を押さえている大きな手を外そうと手を伸ばす。その時、撩の体が沈んだ。
 「!……んんっ!んんんんっ!……んんっ!」
 ――身を裂かれるような痛み。あたしの中心に熱い、火のように熱いものが入って来る。
痛い。痛い。痛みで体が焼き尽くされてしまいそう。撩はしっかり目を閉じて、
何も聞こえないような顔をして、暴れるあたしの体を、その大きな体で押さえつけている。
どんなに暴れてもその力は緩まず、むしろじわじわと苦痛を与えたいように侵入する。
駄目。もう駄目。……もう、壊れてしまう。
 逃げ出せず。悲鳴さえあげられず。激痛で涙が後から後から流れる。
それでも、撩は目を開けない。唇で悲鳴を封じて、あたしの奥へ奥へともぐりこんで来る。
永遠に終わらないような苦痛。
 すがるものを捜していたあたしの手が、撩の二の腕に辿り着いた。思わず――爪を立てる。
他にどうしようもなくて、どこに逃げるあてもなくて、爪を立てる。
 「んっ……んっ……」
 あたしの喉からすすり泣きが洩れる。撩の動きが止まる。
でも目を開けて、あたしを見てはくれない。それが悲しくて――涙で何も見えなくなる。
その時、ふと頬に温かいものが触れた。
 撩の手。
 口づけたまま、目をつぶったまま、撩の右手は涙でべたべたのあたしの頬を撫でてくれる。
優しく。全身の痛みに何もわからなくなっている中で、それだけが信じられる確かなもの。
あたしはその手に両手ですがった。何でも包み込める大きな手。
 撩の舌が、あたしの口の中を甘く彷徨い始める。さっきより少し激しい動き。
しびれたような快感が生まれて、あたしは悲鳴ではなく、甘い快楽の声をあげた。
それを合図としたように、撩はまた動き出す。じりじりと。――そっと。
 あたしは喉の奥で悲鳴をこらえた。


 「……香。もう少しだけ……我慢してくれ」
 ほんの少し荒くなった息。罪の赦しを乞うように、撩は言った。
あたしは――まるで水の中を漂っているよう。苦痛に体力を奪われて、半分気を失いかけている。
繋がったまま力の抜けたあたしの体を、撩はしっかり抱きなおした。
あたしたちはお互いに汗びっしょりになっていて――こうやってぴったりと体を重ねていると、
どちらの汗も混ざりあってしまう。撩の髪も汗を含んで重い。きっとあたしもそうなんだろう。
 もう声も嗄れている。返事の代わりに、あたしは笑ってみせた。
多分すごく弱々しい笑みだったんだと思う。撩の目に詫びるような、憐れむような色が浮かんだから。

 いいの。憐れまなくて。あたしも、ずっと抱かれたかったんだから。

 本当の奥まで体を繋いで――そしてわかったような気がした。
自分の気持ちも、そして撩の気持ちも。
うまく言えないけど、……あたしは撩がほんとに好きだっていうこと、
撩もあたしを好きでいてくれること、
二人でいることがすごく当たり前で自然で……そうでなければならないってこと。
今までずっと不安だったことが、嘘のように消えてしまった。
 撩の熱い、体。それが全部の証拠。撩の温もりがありさえすれば、どんなことがあっても大丈夫。
 あたしはまだ息を弾ませながら、そっと手を伸ばして撩の髪を撫でた。真っ黒の髪。愛しい男。
……大好きだよ。
 視線が絡み合う。撩の目はまだ、さっきと同じ色であたしを見つめている。そんな風に見ないで。
 「……すまん」
 うなだれるようにして、撩が耳元で囁く。どうして謝るの?と訊こうとして――
 「っ!いやっ、……ああああっ!」
 奥まで繋がっていた体。ふいに撩の腰が勢いよく引かれると、
それがまたあたしの中に激しく押し入って来る。また引かれ、貫かれる。
 「ああっ……ああっ……」
 貪る律動が繰り返され、体を裂かれる痛みは限界を超す。
激情を叩きつけるように、撩の欲望はあたしを貫く。骨まで砕く肉食獣の。
 ……視界が赤く染まる。そこまでしか、あたしは覚えていない。


11.
 ――香。
 左腕を枕に貸して、俺は隣で眠る女の顔をつくづくと見る。
たった一晩で、少しやつれてしまったようだ。顔色が蒼白い。
それは部屋のライトのせいなのかもしれないが。
 ひどいことをした、と思う。有無を言わせず奪ってしまった。
苦しそうな悲鳴を聞いても止められなかった。初めてなのに、最後までさせて――
俺の欲望のためだけに、何度も何度も貫いた。俺自身が達するまで。
激痛に歪む顔が目に残っている。途中で香は意識を飛ばし、俺はそれでも離さなかった。
こいつの中で果てたかった。

 すまん。

 言葉で謝ることに意味はあるのか。いくら言葉で謝っても、
俺がやったことは香を表の世界の幸せから遠ざけることだ。奪ってはいけなかった。
――だが、今更言っても、遅い。
 後悔と、……それから自分勝手な喜びが、心の中で二つの独楽のように回っている。
どちらが長く回り続けるのか、今の俺には判断がつかない。
抱いてはいけないとわかっていた女。でも、心の底ではずっと、抱きたかった女。
 香。半開きになった唇を、そっと人差し指でなぞってみる。柔らかい。
この唇の感触の記憶が、体の奥にまた小さな火をつける。
さっきまでの喘ぎ声が、泣き顔が、脳裡に浮かんでどうしようもなく切ない。

 香が身じろぎをする。――気がついたのか。長い睫毛が揺れるのを、ぼんやりと見守った。
 「――撩?」
 さすがに疲労の色は濃いが、俺を見る目はいつもと同じまっすぐな視線。
目が合って、俺は――目を逸らしてしまう。逃した視線の先には、
半開きのカーテンの隙間から見える、明るさを帯び始めた夜明けの空。
 「撩……」
 甘い香の囁き。それになんと応えればいいのか、情けないことに俺は全くわからなかった。
体を起こして煙草を探すふりをする。
 「……香」
 見下ろした香の顔には、心細げな表情があった。
 「俺は……」
 今、俺が言葉で言えることは、謝罪か言い訳しかない。それに気づいて狼狽する。
寝た男に、開口一番に謝られるなんて、どんな女であろうと惨めすぎる。
 しかし香は俺の狼狽を見抜いているようだった。痛みをこらえるような顔で笑いかける。
俺の表情を吟味するように、少し間を置いてから口を開く。
喘ぎ疲れたせいなのか、かすれた声。色っぽい。
 「ねえ、……すっごくすっごく真剣な質問」
 そのわりに口調は「なぞなぞでもしよっか?」とでもいうような、のんびりとした、
無邪気な明るいものだった。
 「……どうして、撩はあたしを抱いたの?」
 また、まっすぐな瞳が俺を見る。この視線は外せない。
外したら――きっと香に、一生の傷を負わせることになる。
俺は答えなければいけない。このシンプルで、まっすぐな質問に。

 どうしてって。そんなの決まっている。


 欲しかったからだ。

 どれほど押し込めても、消そうとしても、どうにも出来ないほど心の底から――欲しかったから。
何年も同じ家で暮らして、そしてこれからも、死ぬまでそうやって生きたいと、
……許されない願いだとわかっていながらそれを願ってしまうほど、愛しいから。
 だが、それをこいつに言ったら――もう。

 掛け布団から覗く、香の白い、裸の肩。俺と正対して横向きになっていた香の体を、
そっと肩を押して仰向けにする。仰向けになった香の体に重みをかけないように、
肘をついて上半身だけで覆いかぶさる。顔と顔の距離は15センチ。視線は繋がったままだ。
 香の目が答えを待っている。俺は大きく息を吸った。
――そして、少しぎこちなく、からかうような笑顔を浮かべて告げる。
 「……おまじないだ」
 「おまじない?」
 思いがけない返事に、香の目がくるんと丸くなる。その頬に唇を寄せた。耳元で囁く。
 「死ぬまで一緒にいられるように、っておまじないだ」
 そっとキスをする。出来る限り優しく。
 おまじないというよりは、むしろ呪いかもしれないが。
一生こいつを俺という男に縛り付ける、鎖になるのかもしれないが。
どうしても、俺はこいつを離せない。もっと良いものになるはずだった香の人生を、
俺の我儘で変えてしまう罪を負うとしても。
 香の腕が。羽根のように優しく俺を抱きしめる。唇を離すと香は恥ずかしそうに笑って言った。
 「……あたしも呪文なら知ってる。一つだけだけど」
 瞳が躍っている。さっきまで蒼白く見えた顔色が嘘のようだ。
香は俺の肩に手をかけ、引き寄せてそっと囁いた。
 「――”撩、大好き”」
 言い終わってから、恥ずかしそうに俺の肩に顔を埋める。肩に頬の温もりを感じる。耳がほの紅い。

 ――その後、また熱くなってきた俺自身をなだめるのに、
俺は朝まで必死の苦労しなければならなかった。
隣では香が、こっちの葛藤も知らずに無防備にぐっすりと眠っている……


12.
 後日。
 どうしても撩がむくれるので、絶対に彼に危害を加えないという条件で、
高山さんにキスされてしまった経緯を説明した。
 ……うん。今となれば馬鹿馬鹿しいっていうか。あたしが馬鹿だったなってことなんだけど。
 あの時、車を降りてから、運転席側に回って、送ってもらったお礼を言って。
そしたら、こう訊かれたの。
 「この道って、そこのことかな?」
 カーナビを指さしながら言われたもんだから、あたしはついつい……画面を見るために、
身を乗り出した――というか、窓から顔をつっこんじゃったのよね。
そうしたら、ほんとにすぐそばに高山さんの顔があって……。
それを聞いて、撩が怒ること。
 「アホか、おめーは!それってお前から迫ったのと同じじゃねーか!」
 「え……だって、ほんとに画面見えなかったんだもん……」
 「半径30センチに入って来た女に手を出さない男なんていないんだ!」
 「……紳士なら……そんなことない……かもよ?」
 紳士だったら余計有り得ん、と撩は自信満々に断言する。どうしてかっていうと、
紳士は女性に恥をかかせない→女性の誘いを断ったりしない、って理由らしいんだけど。
 でもこういうことに関してのあいつの意見はねえ……。
だいたい、半径30センチどころか、手当り次第だし。(で、いつも撃沈だけど。)

 それはともかく、キスの件はあいつにとっても……まあ、それなりに腹立たしかったらしい。
責任はあたしにある、と決め付けて、……あいつは罰ゲームを考えた。それは。
 ”10回、香からキスのおねだりをすること”
 ……整合性があるようなないような……。撩の考えることもなんか子供っぽいのよねー。
 撩はいつの間にか”ソノ雰囲気”を作っちゃうの上手だけど、あたしはそういう技能がない。
しょーがないから、いつも真正面から「キスして」って言っちゃう。あいつは大抵吹き出す。
そして、その後ほぼ100%、ベッドに運ばれてしまう……。問答無用。否応なく。
だから、忙しい時を避けるとか、色々タイミングを見計らうのが難しい。
 でも最近、罰ゲーム、残りの回数が減っていかないような気がしてるのよね。
前回もその前も「あと3回な」って言われた記憶が。
……ま、いいけどね。誤魔化されてても。
じゃないとおねだりなんて、恥ずかしくてなかなか出来ないし。
 いいけど。うん。

 「香。腹減った」
 キッチンをのぞいた撩が、不機嫌なコーヒーに小さなスプーン一杯分だけ、
甘えのミルクを混ぜたような声で空腹を訴える。
 「今日の夕めし、何」
 「えーと今日はね、コロッケ」
 「ん」
 「鰤の照り焼き」
 「ああ」
 「野菜炒め……と、ほうれんそうのおひたし。以上」
 「ふーん。デザートは?」
 「え?だって撩、甘いもの好きじゃないでしょ?」
 真顔でそう返して、あたしははっと気づく。撩の顔に、人のわるそーな笑いが浮かんでいる。
もうそれだけで、奴の言いたいことがわかってしまった。
 「いいよな?」
 「……」
 いいよなって言われても……返事に困るんですけど。
 「ふふん。……はーやくごはんがたっべたっいなー」
 あたしが顔を赤くしたのを確認すると、撩は妙な節回しで歌いつつキッチンから出て行った。
あたしは――真っ赤になったまま、茹で上げたジャガイモをつぶすことに専念しようとする。
えーと、と、とにかく夕食が先だ。その後のことは……後で考えよう。――うん。

 

<終>
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