呪言
鏡の中のあたしを見る。
慣れないファンデーションをむらなく塗るのに少し苦労したけれど、きっちり毛穴も隠れてる。
鏡の中のあたしを見る。
いつもは何も飾ってない睫毛は、黒いフィルムをまとって少しばかり重い気がする。
鏡の中のあたしを見る。
グロスだけで色をつけた唇はぷっくりと柔らかな曲線を描いている。
そして、偽者の髪は黒々とあたしの背中を覆っている。
あたしは女。
物慣れた、ただの女。
夜の街を歩いている人影の、一つ。
それ以上でも以下でもない。
ただの、女。
なにやってんだか、あたしってば。と自嘲する。
ほんの少しの変装ともいえない変装をしただけでいつも騙される男を、久しぶりに騙したくなった。
ほら、あいつったら気づきもせずにあたしをナンパした。
初めてじゃない。槇村香ではないあたしとして、あいつの瞳に映るのは。
もう傷つきはしない。
あたしだと気づかずにナンパされた、そのとき感じたのは断じて、胸の痛みなんかじゃない。
そう。今夜こそ最後にはこいつの誘うままにホテルに足を踏み入れてやる。
そしてそこで、
「気づかなかったのかよ、ばーか」
って笑ってやる。そのつもりだった。
ただのお遊び。深刻になる必要は、ない。
最後まであたしだと気づかなかった男を笑い飛ばして、殴り倒して、ただそうしてすっきりしてやる。
そう思っていたはずだった。
穏やかでやわらかな気を発する撩が、一転して強張るさまを見てやる、そのつもりで。
深い意味なんか、ない。そう思っていたはずだった。
踏み入れたホテルの部屋で、撩が背後からあたしの耳元に囁くまでは。
「その化粧を落として鬘もとって、シャワー浴びて来い」
ぞわり。
熱い息が耳をくすぐる。
項をくすぐる。
長い髪をかきあげられ露わにされた首筋に、熱が一瞬這う。
それが離れていった後がひやりとした。
だからそれが撩の唇だったのだと気づいた。
バスローブだけを羽織って彼の目前に戻ったのは、まだその熱に浮かされていたからに違いない。
あたしは一歩ずつ一歩ずつ、ベッドに座る彼のほうへと進む。
視線を逸らせない。
まっすぐまっすぐ視線の糸に引き寄せられる。
あと数歩。
撩の普段は軽々とパイソンを操る頑強な手がすうっと糸に沿って差し出される。
「香」
なんて目をしているの?
なぜそんなに熱いというより温かい目をしているの?
いつからあたしだってわかっていたの?
なぜ、そんな声音であたしを呼ぶの?
名前は呪(しゅ)。
たやすくあたしを絡めとり意のままに操り糸をくくりつける、呪。
どうして、あたしを、今夜抱くの?
いままで一度もあたしを抱かなかったくせに。
想いを確かめ合っても、それだけだったくせに。
シーツの海に溺れるあたしは撩の操り人形。
耳元で「香」と囁かれる。
あたしの身体がくたりと融ける。
首筋に唇を執拗に這わされる。
あたしの背中がくにゃりとしなる。
胸元に花を散らされる。
あたしの視界がぐるりと回る。
ただ、眩暈。
いい様に融かされて、乱されて、浮かされる。
さっきまでの物慣れた女の仮面など、欠片も残ってやしない。
ただここにいるのは撩の呪に縛られた、操り人形。
啼く。泣く。啼く。
怖い。熱い。怖い。
撩があたしの名を呼ぶから。あたしを抱いているのだと見せ付けるから。
ゆっくりゆっくりと愛撫の手は、彼の手は、下腹部へと下っていく。
お腹の中で何かが絞られるような気がする。
『子宮で感じる』という意味をあたしはいま初めて知った。
一旦撩の顔が下腹部から離れたと思ったら、彼の指があたしの膝をつつ、とくすぐった。
「やん」
思わず身を縮こませるが、脚の間に入り込んだ彼にその付け根を曝す結果にしかならない。
彼の悪戯な指はそのままあたしの大腿をたどり、付け根のほうへと上ってくる。
「りょ・・・りょぉ・・・」
喘ぎ声の合間に、彼の名が零れ落ちた。
「まだだ、もう少しだ」
なにが?と問うこともさせない色が、声に乗せられている。
ズルイ。撩はただ、その声だけであたしを、呪縛する。
ひた、と熱い指があたしの中心に触れ、あたしは声にならない叫びとともにのけぞった。
熱い。怖い。熱い。
泣く。啼く。泣く。
強すぎる快楽に苦痛すら感じる。
あたしはただ融かされて、ほぐされて、乱される。
しとどに零れて撩の手を濡らす雫を撩が大事そうに飲み干す。
融けたあたしを撩が飲み込む。
撩の身体にあたしが染みこむ。
それは不思議な感覚だった。撩の呪に縛られて、あたしはとっくにおかしくなっていたに違いない。
だって撩の大きな身体のすみずみまであたしがいきわたっているような、撩が感じるすべての
感覚をあたしも感じているような、撩の目が見ているものをあたしも見ていて、撩が触れたものに
あたしも触れていて、撩がそうしているようにあたし自身があたしをかき乱しているような。
まだつながってもないのにね。
どこかで冷静な自分が、そんなあたしを嘲っていた。
どうして、あたしを、今夜抱くの?
そんな疑問が冷静なあたしを保たせていた。
あたしだってわかっていて、抱くの?
それならどうして、今まで抱かなかったの?
「香」
艶を帯びた声が、さらなる呪をかける。
もうどうでもいいや。
そう考えたとたん、あたしは解放された。
何からかはわからない。
ただ、何もかもどうでもよくなって、体中から一気にすべてが抜けていった。
唇に唇が重ねられる。
「イッちゃった?」
かすかに笑いを含んだ撩の声は、だけどどこかあたしの胸を締め付けるような響きも帯びていて。
なにがそんなに苦しいの?
そう思ってあたしはまだ力が思うように入らない手で、そっと撩の頬に触れた。
するとその頬がぴりりと強張り、彼の体温がぐっと上がった。
ああ、そうか。
「いいよ、来て」
どうでもいいや、という感覚はまだ続いていて、あたしは何も考えずにそう言っていた。
撩はそっとあたしの耳たぶに唇を這わせてから、そこに言葉をすとん、と置いた。
「愛してる」
ズルイ。
それは名前以上の呪。
撩が己に片手を添えながら進入することに否やはない。
あろうはずもない。
身体の芯を引き裂かれながらも、薄いゴムの膜で覆われた撩の鳴動を感じる。
あたし自身が撩にのり移って、あたしを犯しているような感触だ。
それは不思議な恍惚。
撩の方がよほど痛みを感じているみたいに顔を歪めている。
おかしいの。あたしに呪をかけて支配しているのは撩なのに。
あたしはただ彼に操られる傀儡(くぐつ)なのに。
まるでさっきの呪であたしたちの心が入れ替わってしまったかのよう。
もっと深く。
もっと熱く。
もっと激しく。
突かれているのか突いているのか。
犯されているのか犯しているのか。
声を上げているのはあたし?
涙を流しているのはあたし?
熱くて。苦しくて。眩暈がして。
乱されて。融かされて。悔しくて。
あたしも、呪をかけて、いいよね?
「りょう・・・好き・・・」
小さく呟いたら、あたしの中で、撩が一回り大きくなった気がした。
そして、最後の呪が漏れる。
「かおり・・・!」
熱が、放たれた。
どうして今まであたしを抱かなかったの?
そう訊きたいけれど、あたしにそんな勇気はない。
代わりに、撩の厚い胸板が上下するのを見つめながら、
「どうして今夜、なの?」
とだけ呟いた。
そしたら撩は耳まで赤くなって、そっぽを向いた。
「お前が俺を呼ぶからだ」
「は?」
「1回だけ『撩』って呼んだだろうが」
それは最中のことじゃなくて。
そうか、今夜あたしはずっと『冴羽さん』と呼んでいた。でも1回だけ、失敗しちゃったんだった。
「それで我慢できなくなった」
口をとがらせすねたように言う撩は、すごく可愛かった。
そっか。あたしが先に、名前の呪をかけたんだね。
名前は呪言(まじごと)。人を縛る、呪。
口にするときはくれぐれも気をつけて。