A Thousand Doors 5


5 回帰の扉

証を身篭ったことが判明したのは、香の意識が戻って間もなくのことだった。
出産はまだ先になるとはいえ、傷ついた香の心臓にかなり負担を掛けること
になるのは、誰の想像にも難くなかった。
出産時の母体にかかるリスクが高いことを理由に、主治医はお腹の子を諦める
ことを考える必要がある、と香に話した。
考えるまでもなく、香がひとりにならないように僚が残していった命を諦める
つもりなど毛頭なく、諦めてただ生き続けるだけなら、生きていたくない、
と香はきっぱり言いきった。

実際のところ、香の心臓は、造影検査をすると微細な血管がごく一部だが死滅
していて予後不良も見込まれた。
最悪の場合は、母子ともに助からない可能性も捨てきれず、結局、出産の日を
迎えるまで入院すること、という香と主治医の妥結点が見いだされた。


香はそんな当時のやりとりや入院中の退屈な日々を思い出しながら、再び白い壁
に囲まれた病室にいた。
軽い風邪で受診しただけだったのに、心雑音の所見を理由に、かつての主治医に
精密検査を強く勧められて、渋々香は応じたものの、いくつもの複雑な検査を
受けるのが苦痛で、逆にそれで健康を害しそうだった。
しかも当初は一泊と聞いていたのに、1週間も拘束されるとは思ってもみなかった
ことだった。

香の心臓機能に関する検査結果はすべて思わしくなく、主治医は渋い顔をしていたが、
検査数値の不良とは裏腹に香の気分は爽快だった。
明日退院できることが、香にはうれしくて仕方がなかったところへ、
美樹が証を連れて香の見舞いに訪れていた。

「それでねー、森の奥で眠っているおーじさまを見つけた、7人の小人を連れた
シンデレラが、ガラスの靴でおーじさまを叩いて起こしたんだ」

証は、幼稚園で聞いたお話を香に聞かせたい、と言って話しだしたが、
「とにかく誰かを相手に話すこと」が今の証は目的と化しているようで、次々に
摩訶不思議なお伽噺が繰り出された。

「証…、何かが違う気がする。そのお話…」

香は蟀谷を指で押さえて、乱暴なシンデレラのイメージを打ち消そうとしていた。


「あたし、この子がこんなにおしゃべりだとは思わなかったわ。
ごめんなさい。海坊主さんにもさぞご迷惑を…」

入院中の証の面倒を、懐いているからといって美樹に頼んだのは安易だった、
証の面倒をみなければならないことを理由に、入院自体を断れば良かった、
と香は頭を抱えていた。

「全然!多分賢い子なのよ、証君は。『こんなに面白いのなら、私も子ども産みたく
なっちゃった』って、ファルコンに言ったら、真っ赤になって卒倒されちゃったけど」

と美樹は笑いながら、心持ち顔を赤らめていた。
それはさておき…、と美樹は咳払いすると、

「香さんに頼まれていた例の物なんだけど、一日でも早く、と思って持って来たわ」

と、香に僚のパイソンの入った箱を手渡した。

「え?あれから半月も経っていないのに、もう?」

もっと時間がかかるものとばかり思っていたので、香は意外だった。


実は・・・と、前々から僚の銃のことを気に掛けていた人物がいる情報を得ていたことを、
美樹は香に明かした。
その人物の名前は、真柴由加里。名銃工だった真柴憲一郎の娘だった。
彼女は美樹からの連絡を受け、3日前にカナダから来日し、持てる技術を全て注いで、
整備と復元を試みてくれた。

「一部どうしても交換しなければならない部品もあったそうだけど、
ほぼ完璧に仕上げてくれたのよ。よかったわね」
「それで、由加里さんは?」
「不眠不休で作業を終えて、しおりちゃんが待っているから、って帰られたわ、
昨日のことよ。由加里さん、『細かい所に父のした仕事が見られて、すごく
懐かしくて、嬉しかった』って言ってたわ」
「どうしよう、あたし・・・。直接お礼を言いたかったわ」
「香さんは入院中だったし、仕方がないわよ。お礼のことなら、これからゆっくり
考えればいいじゃない?」

香は、自分の入院の間の悪さを悔やんだが、まずは目の前の美樹に感謝の意を伝えた。


証と美樹が帰り、消灯時間後のベッドサイドの小さなライトのもとで、香は僚の
パイソンを眺めていた。ひどい状態にしておいたのに、ほぼ元通りの姿になって
自分の手元に今あることを実感した。

あたしはなにも諦められなくて…、多分これからも諦めない…

そう思いながらパイソンを抱きしめて身体をベッドに沈め、眼を閉じて大きく息を
吸い込んだ。

「往生際の悪さは天下一品だもんな、お前。」

突然の声に驚いて香が眼を開くと、ベッド脇に僚が腰を下ろして病室の窓の外を見ていた。
香は飛び起きて、僚の背中に縋った。
僚の体温を感じ、これは現実?それとも・・・と、香は訊きたかったが、
その瞬間にすべてが無になりそうで、こわくて何も言えなかった。

「初めてお前がその気になったと思って近付きゃ、なんだかんだと理由つけて俺から
逃げ出すわ、やっと抱けたと思ったらお前は大泣するわ…。
ホントにお前は一筋縄でいかなくて、苦労させられた」

僚はため息をひとつついて、香を振り返った。
香は何も言えず、大きな目に涙を溜めて僚の顔を見つめていた。
僚は香の手にあるパイソンに視線を落とした。


「俺の銃、きちんとしてくれたんだな」

香の目から涙が零れ落ちた。それを見て、僚は頭を掻きながら、

「長いこと三食用意され続けてちゃ、帰らないわけにいかねェし・・・。
それにウェディングドレスも着せてないしな・・・」

と決まり悪そうに言った。

「香、いつだったか、イヤなことを忘れられるくらいスゴいのがしてほしい、
って言ってたことがあったが、忘れるためにできることなんて何もありは
しないんだ。
どんなに辛くてもイヤなことでも、起こったことを消すことは不可能だし、
諦められないことは諦めなくていいんだ」

そう話す僚の右肘から先がないことに気付いて、香はやっと声が出せた。

「僚、腕が…」
「戻ってくる途中、どこかに置いてきちまった」

僚は子どもがどこかに忘れものをしてきたように笑うと、香の背中に左腕を回し、
ベッドに倒れ込んだ。香の身体が深くベッドに沈んだ。


俺としては忘れさせることよりも、絶対忘れられないことをしたい」

ニッと笑って僚はそう言うと、片手で器用に香が身につけているものを取り去っていった。
香は僚に、今までどこにいたのかとか、どうして今になってこうして此処にいるのかとか、
聞きたいことは山のようにあったが、口に出たのは

「此処は病院なのよ。こんなことしてたら婦長さんに怒られるわ」

というムードも何もない言葉だった。

「もう消灯時間過ぎてるし、さっき扉にワイヤー巻いといた。
それに、スリル満点で余計に忘れられなくなっていいだろ?」

僚は香の額に額を寄せた。

「もう…、あんたはいつも、そうやってあたしを…」

僚の唇が香の唇に重なり、それ以上の会話が続かず熱い吐息に変わっていった。

さまざまな扉を前に、香は時には立ちすくんだり、避けて通ったりしてきたが、
どんな形であれ僚にまた会えた歓びを、香は全身で享けとめていた。

                        了
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